灘中学・高校(灘校)では、教員7~8人がチームを組んで学年を担当する「担任持ち上がり制」を取っています。中学・高校の6年間、どんな教科書や教材を選ぶかは自由です。それをいつどのように教えるのか、カリキュラムも含めて基本的に担当教員がすべて考えていくことになります。

 中1から高3までは長いですよね。国語科の場合、週4時間で6年間、合計700回くらい授業があります。生徒にしてみれば、毎年毎年、現代文だけじゃなく古文の時間も漢文の時間も私が来るわけで、「また、お前かい」みたいな(笑)。
 そもそも、灘校の生徒は飽き性というか、新しいことをどんどんやりたいタイプが多く、飽きられたら、もうそこで終了。愛想を尽かされないよう、教員の側も頑張らないといけません。

井上志音(いのうえ しおん)。灘中学校・灘高等学校 国語科教諭。1979年生まれ。神戸大学大学院国際協力研究科博士後期課程単位取得退学。文学修士(学校教育学)。専門は国際バカロレア(IB)教育をふまえた教科教育学で、洛南中高・関西学院千里国際中高を経て2013年より現職。著書に『国際バカロレア教育に学ぶ授業改善』(共編著・北大路書房)がある
井上志音(いのうえ しおん)。灘中学校・灘高等学校 国語科教諭。1979年生まれ。神戸大学大学院国際協力研究科博士後期課程単位取得退学。文学修士(学校教育学)。専門は国際バカロレア(IB)教育をふまえた教科教育学で、洛南中高・関西学院千里国際中高を経て2013年より現職。著書に『国際バカロレア教育に学ぶ授業改善』(共編著・北大路書房)がある
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 その一方で、12歳から18歳という心身の発達が著しい時期に、生徒の成長とともにいることができる。精神の発達段階に応じて国語学習の課題も変わってきますから、それを見守りながら授業を組み立てていく喜びはとても大きいです。

 私の場合、生徒がつまずきがちなところや弱点を出発点に、6年間で伸ばしていきたい力をあらかじめ見据え、その実現を目指した授業をデザインしています。力を伸ばすために教材を活用するという考え方で、コンテンツ(内容)ベースというよりはコンピテンシー(能力)ベースです。

 今回、紹介する本は、生徒たちの弱点を克服するため、中学の授業でみんなで読んでいる安部公房の 『笑う月』 (新潮社)です。

「安部公房の『笑う月』(新潮社)には、寓意(ぐうい)にあふれた面白く読める短編小説が何編も収められています」
「安部公房の『笑う月』(新潮社)には、寓意(ぐうい)にあふれた面白く読める短編小説が何編も収められています」

生徒たちの固定観念を真正面から覆す格好の教材

 受験勉強を通して「次の文章を読んで、後の問いに答えなさい」といった問題を解いてきたせいでしょうか、入学してきた頃は「書かれたことさえ読めればいい」と思っている生徒は少なくありません。正解は書かれたことの中にある、と思い込んでいる。だから、書かれていないこと、筆者があえて表現しなかったことには興味が湧かないんですね。

 これは日常生活での口頭のコミュニケーションでも同様で、言外の意味がなかなか伝わらない。例えば皮肉なんかが最たるものです。寝ぐせで髪の毛が立っている子に「きょうの髪形イケてんな」と声を掛けたら、真意が分からずに「ありがとうございます!」と元気いっぱい返されてしまった。そういったことが起きるわけです。

 こういう生徒たちの固定観念を真正面からひっくり返す、格好の教材になるのがこの寓話(ぐうわ)です。
 『笑う月』は安部公房の短編小説集で、寓意にあふれた面白く読める小説が何編も収められています。私が中2、中3の授業でよく扱うのは、その中の一編「鞄」。この作品は高校教科書の定番で、大人でも授業中に読んだという方がたくさんいらっしゃることと思います。

 物語は、「私」の事務所に、求人広告を見たという職探し中の「青年」が訪れるところから始まります。志望理由を尋ねると、青年は「この鞄のせいでしょうね」と、足元に置かれた、職探し中に持ち歩くには大き過ぎる鞄に視線を落としながら言う。
 「鞄の重さが、ぼくの行先を決めてしまうのです」

 この鞄って、何なん?

 授業は、生徒が事前に作品を読んできて、考えたことを教室に持ち寄る形で進めています。鞄がいったい何を表しているのか、考えや意見を出し合い、議論を重ねていく。

 「正しく読めば、解釈はただ一つ」と考えている子は、まず「いろいろな読み方を持ち寄って考えるって、何それ、意味が分からない」と、こういった議論そのものに戸惑います。

 唯一の正解に一直線で行きたがるのは、最近の生徒の特徴なのかもしれません。特に灘校は理数系がとても強い生徒が多い。唯一解にいち早くたどり着けることを周りからも評価してもらってきていて、数値化して競い合うことが大好きな生徒がそろっている。国語とはそもそも相いれない部分があるんですね。

 「正しい読み」自体が多様なんだよ。正しさの角度を変えることで、必然的に複数の解釈が生まれてくる。だから、自由に考え、自由に述べていい。
 ただ、自由な読みにもルールはあります。なぜそう思うのか、雰囲気や気分ではなく、根拠を示せ、理由付けせよ、と。これは強調します。

 どんな読みなら成立するのかは、こちらから教えるというより、仲間との議論を通じて、なんとなくルールの範囲というか、妥当な線をつかんでいく、そんな授業を作りたいなといつも思っています。
 だから、授業中の私は、ちょこっと考えるヒントや分析の視点を与えたり、言語化をサポートしたりするだけ。大部分は生徒が話をしています。

 何より大切だと思うのは、教室という空間を何をどう考えても根拠さえ示せれば否定されない、安心で安全な場にすること。それさえ担保できれば、教室でみんなで読み合うことは楽しいはずなんです。

「『正しく読めば、解釈はただ一つ』と考えている生徒たちに、仲間との議論や授業を通して『正しい読み自体が多様で、正しさの角度を変えることで必然的に複数の解釈が生まれてくる。だから、自由に考え、自由に述べていい』ということを理解してもらいます」
「『正しく読めば、解釈はただ一つ』と考えている生徒たちに、仲間との議論や授業を通して『正しい読み自体が多様で、正しさの角度を変えることで必然的に複数の解釈が生まれてくる。だから、自由に考え、自由に述べていい』ということを理解してもらいます」
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書き手があえて言葉で表現しなかったことは何なのか

 「鞄」の話に戻ると、この作品には「この鞄って、何なん?」という問いのヒントになるような表現がちりばめられています。それをたどって読み解いていくのはどこか宝探しみたいな感覚で、生徒たちにしてみればすごく面白い。

 例えば、鞄の大きさを「赤ん坊の死体なら、無理をすれば3つくらい押し込めそうな」と表現する。これは何をほのめかしているのか?

 この鞄は、普通に歩いている分には楽に運べるけれども、「急な坂だとか階段のある道にさしかかると、もう駄目」と青年は言います。
 つまり、鞄を持っていると進む道が制約される。結局、安全な道、楽な道ばかりを鞄に選ばされてしまう。ますます膨らむ「この鞄って、何なん?」

 青年は「鞄を手放すなんて」「あり得ない」が、持ち歩くのは「自発的にやっている事」だと言い、「私」に中身を問われると「つまらない物ばかりです」と答えます。

 「いったい、何なん??」

 「ところで、みんなは今、自分が鞄を持っていると思いますか?」

 鞄が表すものは何なのかを議論する前に、必ず生徒に投げかけるのがこの問い。「先生はどうですか?」と突っ込まれることもあるので、「うーん、私は20歳になる前に確か一度手放したんだけど、今は持っているなあ」と正直に。

 「ええええ? それって、何なん?」教室はざわざわざわざわ。

 この議論の中で、生徒たちは、言外のこと、書き手があえて言葉で表現しなかったことは何なのかに思いをはせることになる。この書き手の視点に立つということこそが、「鞄」の読解を通してやってもらいたいことなのです。

 鞄の正体については、様々な意見が出てきます。

 例えば、家族・学校・地域・国家など、帰属することで安心を得ることができる一方で、自分の「やりたいこと」を狭めてしまう様々なしがらみであるとか、学歴やブランドなど私たちが無意識のうちに受け入れているものの見方や価値観の象徴だとか。家の豊かさや、持って生まれた個人の資質など、動かすことのできない所与の条件を指摘する声も出てくるし、法律や校則など自分を方向づけるものに着目する生徒もいる。インターネットで検索する際もアルゴリズムによるお薦めに任せてしまえば選択ミスを減らせるといったことをイメージする子もいれば、神仏や宗教など超越的なものを挙げる子もいる。

 そんな中で、自分が今、灘校の生徒として生活しながら、「どの程度鞄を手放せるのか」という問いにたどり着き、議論はますます白熱していきます。

 先ほどもお伝えしたように、これらはすべて根拠があればそれでよし、本の読み方はいろいろあっていい。意見を一本化しないことが何より大事で、違うからこそ面白いということを感じてもらいたいと思います。

「議論の中で生徒たちは、言外のこと、書き手があえて言葉で表現しなかったことは何なのかに思いをはせることになります。この書き手の視点に立つということこそが、『鞄』の読解を通してやってもらいたいことです」
「議論の中で生徒たちは、言外のこと、書き手があえて言葉で表現しなかったことは何なのかに思いをはせることになります。この書き手の視点に立つということこそが、『鞄』の読解を通してやってもらいたいことです」
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自由の本当の意味を考え、自分にとっての自由を手にする

 書かれていないことを読む授業は、これで完結するわけではありません。。

 高校で本格的に漢文を勉強し始めた生徒たちは、支配者をウサギやネズミになぞらえた文章に出合います。表立って政権批判ができないためですね。このように寓意を読み取らなければならない場面で、中学時代に読み、議論した「鞄」が生きてくるのです。

 灘校では、入試で毎年のように詩を出題するのですが、これは書かれていないことも読み取ろうとする子に入ってきてほしいという、学校の願いの表れではないかと私個人は考えています。文字情報が少ない詩を味わうには、必然的に言外の意味に思いをはせることになる。直接書かれていないことも含めた意味を問う出題にならざるを得ないのです。

 入学後も詩の授業はたくさんやりますし、授業中に短歌を作り、句会も行う。言外の意味を読み取ることだけでなく、自分の思いを何かに託すことにも楽しんで取り組んでもらえたらいいなと思います。

 「鞄」の最後はこう結ばれます。
――選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった。

 これは、自分で決定する責任や、自分で考える煩わしさからの解放を自由と履き違えることへの痛烈な皮肉と読むこともできます。

 制服もなければ、明文化された校則もない、教師もうるさいことを言わない。そんな灘校に入ってきた君たちは「やったー! 自由だ」とか言っているわけだけど、実は君たちも鞄を持っているんじゃないの?と、最後に私は再び生徒に問いを投げかける。

 手放してみようかなと考える子がいるかもしれないし、いやいやあえて持つのが自由なんだよ、と感じる子がいるかもしれない。
 どう考えてもかまわないんだけど、その考え、言語化してみようよ、根拠とともに。

 いまだ不自由な君たちを、本当の意味で自由にするのが灘校での数年間であるとするならば、国語の授業や日々の読書体験がそのために一役買えるものでありますように。

「制服もなければ、明文化された校則もない、教師もうるさいことを言わない。そんな灘校に入って、自分たちは自由だと言っている生徒たちに、『実は君たちも鞄を持っているんじゃないの?』と問いを投げかけてみます」
「制服もなければ、明文化された校則もない、教師もうるさいことを言わない。そんな灘校に入って、自分たちは自由だと言っている生徒たちに、『実は君たちも鞄を持っているんじゃないの?』と問いを投げかけてみます」
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取材・文/平林理恵 写真/太田未来子