2022年9月、円相場はついに1ドル=140円台をつけた。いったい「円」に何が起きているのか? 多くのレポートを発信し、とりわけ2021年秋からは望まぬ円安が一段と進む可能性に不安を示してきた唐鎌大輔氏の新著 『「強い円」はどこへ行ったのか』(日経プレミアシリーズ) から一部を抜粋、再編集して解説する。連載第1回では、日本がいま「成熟した債権国」としての夕暮れに直面している可能性に言及する。
2022年は日本円にとって歴史的な年
2022年3月以降、世界がウクライナ危機に揺れる最中、日本ではもっぱら円相場の続落が賑々(にぎにぎ)しく報じられた。これに応じて「今回の円安をどう解釈すればよいのか。1冊の書籍にまとめてほしい」という依頼はいくつかのメディアから頂いた。
しかし、為替市場の変動に関して分析を固定化し、書籍という形で社会に向けて発信することは、常に陳腐化のリスクと隣り合わせであることから、基本的に、筆者はそのような依頼はお受けしていない。
だが、その市場変動が何がしかの構造的な変化を孕(はら)んでいる可能性があるならば、備忘録として分析を残す価値はあると思い、今回、筆を執ることにした。本稿執筆時点で2022年のドル/円相場の値幅は約31.50円(144.99―113.47円)で、1998年の35.81円以来の大きさとなる。
ちなみにプラザ合意以降に限定した場合、2022年は「円安の年」として史上最大の値幅になる。理由はどうあれ、日本円にとって2022年が歴史的な年であることは間違いない。
そうした状況を踏まえ、本稿では「1ドル=○円」といった名目的な価値の変遷には極力捉われず、あくまで中長期的な議論、ラフに言えば「腐りにくい議論」に努めたつもりである。今回の連載では拙著における議論の一部をご紹介したい。
揺らぐ「鉄壁の需給環境」への信頼
もし円相場に何がしかの構造変化が起きているのだとすれば、筆者は2011~2012年頃からの約10年間で起きた需給環境の変化を見ることが重要だと考えている。
この間に起きた国際収支統計を中心とする日本の対外経済部門の変化こそ、円相場の中長期的な展望を議論する上で非常に重要な話である。そこで示される変化は、日本という世界に冠たる債権国の置かれた経済環境が激変しているという現実を見せつけてくれる。
長らく為替市場で円は安全資産と呼ばれてきた。その最大の理由は、多額の経常黒字を安定的に稼ぎ、結果として「世界最大の対外純資産国」というステータスを保持していたことにあった。これは、言い換えれば「世界で最も外貨建ての純資産を有する国」であり、「有事の際にはそれだけ外貨売りを行って時間稼ぎをする余裕がある」という解釈にもなる。
実際には売却が不可能な資産も多くあるはずだが、少なくとも世界に多くの通貨が存在する中、「相対的に防衛能力が高そうな通貨」であることは事実だ。世界最悪の政府債務残高やハイペースで進む少子高齢化、結果としての低成長にもかかわらず円や日本国債が安定してきた背景に、そうした「鉄壁の需給環境」への信頼があったことは論をまたない。
後述するように、近年では貿易黒字こそ失ったが、それを補って余りある第一次所得収支黒字の存在により経常黒字は高水準を維持してきた。しかし、そうした「鉄壁の需給環境」への信頼が一時的に揺らいだのが2021~2022年だった。以下では、理論的な枠組みに沿って、その事情を平易に解説しておきたい。
明らかに進んだ日本経済の構造変化
経済学には、国際収支の構造が経済発展に伴い変化するという「国際収支の発展段階説」という考え方がある。簡単に言えば、一国が債務国から債権国へ発展する段階を国際収支の観点から6段階に分けて定義づけする考え方である。
日本は1970 年代以降、貿易黒字を確保した上で、海外投資の利子や配当金などを表す第一次所得収支も黒字を続けてきたことで、常に大幅な経常黒字を記録し続けてきた。その経常黒字の累積が「世界最大の対外純資産国」というステータスである。「貿易収支と所得収支の双方で稼ぐ」というのは発展段階説で言うところの「未成熟の債権国」の状態であった。
この状況が変わり始めたのが2011~2012年頃だった。図表①を一瞥(いちべつ)すると分かりやすい。例えば「2002年から2011年の累積額」と「2012年から2021年の累積額」を比較してみると、経常収支は約172兆円から約144兆円と減少しているものの、依然高水準である。これは貿易黒字が消滅した傍ら、第一次所得収支が大幅に増加したことでもたらされた結果である【注】。
具体的に数字を見ると、同期間で貿易収支は約96兆円の黒字から約▲8兆円の赤字へと変化しているが、第一次所得収支は約125兆円から約195兆円へ大幅に黒字が拡大している。その結果、経常黒字の減少は限定的なもので済んでいる。
「貿易収支ではなく所得収支で稼ぐ」というのは「成熟した債権国」の姿である。リーマンショック、欧州債務危機、アベノミクスという局面変化を経験した直後の10年間(2012~2021年)で日本は「未成熟の債権国」を卒業し、国の発展段階が1つ進んだという事実は間違いなく、ここに構造変化の跡を確認することはできる。
ここまでは賛否が分かれることは殆(ほとん)どないだろう。ちなみに図表②にも見るように、2012年以降、貿易黒字を稼げなくなったことが、その後に際立った円高・ドル安が起きていないことと無関係とはどうしても思えない。
なお、その10年間で貿易黒字が消滅した背景は1つではないが、やはり度重なる超円高や自然災害(地震、台風、津波など)を念頭にリスクヘッジとして海外へ生産拠点を移管する動きが活発になった事実は挙げられることが多い。
また、東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故を契機に日本の電源構成において石炭・火力発電への依存度が高まり、必然的に鉱物性燃料の輸入金額が膨らんだことも注目されやすい。
ただ、理由は様々あるにしても、「貿易収支ではなく所得収支で稼ぐ」という段階に進むのは理論的に想定された展開ではある。
「成熟した債権国」への疑念
問題はここからの展開だ。
理論上、次に到来する段階は「債権取り崩し国」であり、そうなった場合は貿易収支の赤字に加え第一次所得収支黒字も減少へ向かい、経常収支が遂に赤字に転落する。もちろん、そうなるまでの時間軸は非常に長いはずで、近未来の出来事とは考えられない。また、絶対にそうならなければならないというものでもない。
しかし、2021年から2022年にかけては資源価格が急騰し、貿易赤字が非線形に拡大するという事態が見られた。2021年12月、2022年1月には連続で経常収支が赤字に転落するという結果が一過性ながら見られた。この際、もともとあった低成長・低金利という短期的な円売り要因に加え、需給構造の変化という長期的な円売り要因も意識されるようになった。
こうした大きな需給構造の変化を経て「債権取り崩し国」にどれほど近づいているのかは、今後長い時間が経ち、歴史を振り返られなければ分からない。筆者もそれを断言するつもりはない。しかし、少なくとも「その可能性を疑って政策を検討・執行した方が無難」というのが、現時点での筆者の基本認識である。
2022年3月以降、円安に対して使われるようになった「構造的な変化」の意味合いは「経常収支の悪化(象徴的には赤字化)」を指していることが多そうであり、それが定義上、「債権取り崩し国」への転落を意味することへの恐れが意識されていた。2022年以降に直面した「経常収支の悪化」は「貿易赤字の拡大」と同義であり、これは原油や天然ガスなどの鉱物性燃料価格が急騰していることの結果だった。
よって、2022年に起きた「経常収支の悪化」が構造的な変化として定着し、「成熟した債権国」が「債権取り崩し国」になるのかどうかは資源価格の展望に依存する話だと言える。
資源高が導く「債権取り崩し国」への道
では、資源価格の騰勢は続きそうなのか。筆者は資源の専門家ではないので多くを語ることはできない。しかし、2022年以降の資源高の背景には脱炭素・感染症・戦争といった大きな「うねり」が指摘されており、これらは構造的という印象を受ける。
例えば、脱炭素を背景とする化石燃料の供給制約はもはや所与の前提と考えるのが妥当だろう。また、ウクライナ危機を契機に訪れる「ロシア抜きの世界」が長期化すれば、やはり食料も含めた天然資源の供給制約は解消される目途が立たない。
もちろん、脱炭素の潮流が巻き戻されたり、ロシアとの和平が足早に進んだりする可能性がゼロだというつもりはないが、資源価格の高止まりは相応に持続性のある相場現象と考えておいた方が無難に思える。
資源の純輸入国である日本にとって資源価格が高く固定化されることは、経常収支や貿易収支の悪化が構造的に宿命づけられることを意味する。それは「成熟した債権国」が「債権取り崩し国」へと近づくことを(少なくとも数字上は)意味するだろう。
「『債権取り崩し国』に向かっている」という理解が(真偽はさておき)支配的になった時、円が安全資産とみなして貰えるかどうか。筆者は日本で経常赤字が早晩定着するとは思っていないが、「そうなる可能性」に少なくない市場参加者が思いを巡らせたのが2022年という年だったように思う。
こうして、円相場の需給環境が不可逆的な変化に晒されているのではないかとの思惑は、本稿執筆時点でも相応に根強く市場に残っているように見受けられる。
以上で紹介したような国際収支統計を中心とする様々な計数の変化を踏まえると、日本は「成熟した債権国」としての夕暮れを目の当たりにしているようにも感じられる。それが杞憂(きゆう)で済むならよいが、そうとも言い切れない懸念が現状ではある。
(2022年9月9日時点の分析)
『 「強い円」はどこへ行ったのか 』
止まらない円安。2022年9月にはついに1ドル=140円台に突入した。為替相場の変調に度々警鐘を発してきた日本を代表するマーケット・エコノミストが、今回の円安要因を冷静に分析。背景にある構造転換と岐路に立たされる日本経済の実像を浮き彫りにし、将来に向けた課題を整理する。
唐鎌大輔著/日本経済新聞出版/990円(税込み)