2022年3月以降「悪い円安」が喧伝された。「円安」はプラスとされてきた日本において、これは相当に大きな規範の変化だ。一方、黒田日銀総裁は「円安が経済・物価にプラスとなる基本的な構図は変わっていない」という立場を示し続けた。円安は善か悪か。第2回では円安功罪論について論点整理する。唐鎌大輔氏の新著 『「強い円」はどこへ行ったのか』(日経プレミアシリーズ) から一部を抜粋、再編集して解説する。
日銀の考える円安のメリット・デメリット
円安のメリット・デメリットは経済主体により景色が変わるものであり、軽々に結論づけられないものである。総論としてと断るならば、批判の多かった黒田日銀総裁の弁もあながち誤りとは言えない。
2022年1月の「経済・物価情勢の展望(展望レポート)」ではBOX欄に「為替変動がわが国実体経済に与える影響」と題した円安のメリットおよびデメリットに関するモデル分析の結果が掲載されている。そこで展開された議論に関し、筆者が要点を整理したものが図表①である。
展望レポートでは計量分析の下、「円安は日本にとってプラス」と結論付けている。ここではプラス効果として、①価格競争力改善による財・サービス輸出の拡大、②円建て輸出額増加を通じた企業収益の改善、③円建て所得収支の増大、が挙げられる一方、マイナス効果として、④輸入コスト上昇による国内企業収益および消費者の購買力低下が挙げられている。「①+②+③>④」というのが日銀の基本認識と見受けられる。
だが、このうち①は議論含みである。日銀も、財輸出に関しては海外生産比率上昇や製品の高付加価値化などを反映し、「(財輸出に対するプラス効果は)近年低下している」と分析している。多くの品目に関し円安は輸出数量を増やす方向に作用するが、その感応度は低下しているという分析結果が提示されている。
また、サービス輸出は円安による旅行収支黒字の増加が想起されるものの、パンデミック下ではこれが蒸発しているためか、展望レポートでは殆(ほとん)ど言及がない(「感染症の影響が和らげば再び働き始めると予想される」との記載にとどまる)。①の円安メリットは相当に弱っているのが実情と言える。
もっとも、黒田体制が発足した直後から①のメリットにまつわる問題点は指摘されていた。指摘すると非常に強い批判に晒されたので筆者もよく覚えている。しかし、①が弱まっても②があるから円安はプラスなのだという主張が当時は展開されていた。
要するに「円安で企業収益が増えればいずれ設備投資や賃金にも波及する」という考え方である(2006年のゼロ金利解除時、こうした考え方は「ダム論」などと呼ばれた)。だが、現実は賃金が期待したほど上昇する展開までに至らなかったことは周知の通りである。
こうした中、最後の円安メリットでもある③の「所得収支の増大」は「近年強まっている」とされ、「企業のグローバル化により、わが国の企業が海外事業から獲得する収益、及び配当等を通じたその国内への還流額は、着実に増加している」と結論付けられている。
海外からの所得移転額が増えることが国内の設備投資行動にも寄与しているとの指摘もあり、これには説得力がある。これは第1回「 唐鎌大輔 我々は“成熟した債権国”日本の夕暮れを見ている 」で議論した第一次所得収支黒字に関わる話である。
上述のような円安のメリット分析の一方、円安のデメリットである④は、円安の消費者物価への転嫁に関し「近年、強まっている」と記述され短い紙幅しか与えられていない。
展望レポートではその直後に「このように、近年の経済構造の変化を考慮しても、円安は引き続き、全体としてみれば、わが国の景気にプラスの影響を及ぼすと考えられる」と急ぎ結論に入るのでやや唐突感を覚える。議論のバランスがやや取れていない印象は抱かれた。
円安の評価はマインド次第との指摘も
こうした日銀の分析をラフに総括すると、そもそもサービス輸出はインバウンド消滅で全く期待できず、財輸出の効果は薄れ、企業収益増大の個人消費への波及効果も期待が持てないことは周知の事実であるため、円安メリットは「所得収支の増大」一点張りという話になる。
それが消費者物価指数(CPI)の上昇などによる購買力低下を打ち消すのかどうかだが、展望レポートはあくまで「①+②+③>④」という計算に立ち、「全体としてプラス」という結論に辿り着いているのだと見受けられる(あくまで筆者なりの解釈である)。
但(ただ)し、展望レポートはメリット・デメリット分析の後に留意が必要な論点として3つ挙げている。それは、(1)円安であれ円高であれ、「安定」しない相場は悪影響を及ぼす可能性があること、(2)為替変動の影響や方向性は業種・事業規模で様々であり、輸入ペネトレーション(=国内総供給に占める輸入の割合)の高まりを踏まえれば消費者物価への影響は強まっていること、(3)為替変動は株価や物価に与える影響など情勢次第でマインドに与える影響も異なること、である。
結局、この(2)と(3)が上述したデメリットの論点である④に対する補足のような位置づけになっている。
上で見たように、「①+②+③>④」がとりあえずの結論だとしても、日銀が補足した上記論点も踏まえれば、「①+②+③>④+(2)+(3)」と言えるのかどうかは留保が必要にも思える。この点は2022年1月の展望レポートだけからでは判断しかねる。
分析はあくまでその他条件が一定であったとして、為替水準が緩やかに動いた場合を想定している。大きなボラティリティを伴う円安に関しては、そこで示された分析の限りではないという話だろう。実際、2022年のドル/円相場の変動幅も変動率も歴史的に見て非常に大きなものである。
円安は優勝劣敗の徹底につながる
上で見てきたような「①+②+③>④」という結論は日銀のエコノミストがモデル分析を用いて精査した結果であり、それが政策委員会の基本的理解である展望レポートに掲載された以上、一定の敬意と信頼性を持って受け止める価値はあると筆者は考えている。
だが同時に、単純にメリットとデメリットを足し算して不等号を付けるだけでは割り切れない問題も内包されていることは事実だろう。それは「メリットで得する経済主体」と「デメリットで損する経済主体」の間に越えられない壁があるという事実だ。言い換えれば円安が格差拡大を助長しているとの問題意識である。
メリットとデメリットを比較衡量した結果、「GDPが計算上はプラスになる」というのが計量分析の一端の主張としても、メリットを享受できるのは輸出や海外投資の還流という動きが身近なグローバル大企業であって、内需主導型の中小企業や家計部門はデメリットが大きいという現実は残る。
この点は上述した「(2)為替変動の影響や方向性は業種・事業規模で様々」と展望レポートが補足している論点と深く関連する。「日本経済にとってプラス」なのは単純にメリットとデメリットを「足し算」した結果であり、「メリットで得する経済主体」と「デメリットで損する経済主体」は断絶した状況が続くのではないか。
そうだとすると、円安は格差拡大や二極化といった問題を助長する、優勝劣敗の徹底を促す相場現象ということになる。少なくとも「GDP計算上はプラスになるが、格差は拡大する」という状況は政治的に放置できるものではないだろう。
既に述べたように、2013年以降、アベノミクスの掛け声の下、円安と共に企業収益は著しく増えたが、家計部門における賃金や消費が相応に増加したわけではなかった。円安が企業部門の収益を押し上げたとしても、それが内需に還元される経路が断たれているというのが日本なのである。
そうした状況を前提とすれば、円安で購買力を削(そ)がれる家計部門の苦境は救われる見込みがない。家計部門だけではなく、内需を収益源とする中小企業も同様の苦境が続くことになる。直感的には「日本社会」という大きな枠組みに照らした場合、「デメリットで損する経済主体」の声が明らかに多数派に思える。
耳目を集めやすい「円安功罪論」を検討する際に配慮すべきは、日銀(や類似の分析を行うエコノミストなど)が総論として示す「日本経済にとってプラス」があくまでメリットとデメリットを差し引きした結果であり、各論である「各経済主体の置かれた状況」は別問題という事実だ。
「総論と各論で結論が違う」という点を脇に置くと、どちらも間違っていない現実であるため、議論は平行線を辿る。心地良い為替水準は立場によって可変的であり、安易な善悪二元論で割り切ろうとする行為が大変危ういということを知っておきたい。
(2022年9月6日時点の分析)
『 「強い円」はどこへ行ったのか 』
止まらない円安。2022年9月にはついに1ドル=140円台に突入した。為替相場の変調に度々警鐘を発してきた日本を代表するマーケット・エコノミストが、今回の円安要因を冷静に分析。背景にある構造転換と岐路に立たされる日本経済の実像を浮き彫りにし、将来に向けた課題を整理する。
唐鎌大輔著/日本経済新聞出版/990円(税込み)