8世紀に派遣された遣唐使、阿倍仲麻呂と吉備真備。緊迫する東アジアで、彼らは朝廷からどのような命を受け、古代中国の大帝国にどう対峙したのか。直木賞作家、安部龍太郎氏の長編歴史小説『 ふりさけ見れば(上)(下) 』(日本経済新聞出版)は、日本国の礎を築くために奮闘した人々を壮大なスケールで描きます。本書に収録された、氣賀澤保規・明治大学元教授(中国・隋唐史)による時代背景の解説を抜粋してお届けします。



幕間解説 『ふりさけ見れば』の時代背景

氣賀澤保規(中国・隋唐史/元明治大学教授)

一、阿倍仲麻呂の在唐五十年の概観

「ふりさけ見れば」。その言葉を前にするとき、おそらく私ども日本人の多くはすぐに、「天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも」という短歌を、その詠み手である阿倍仲麻呂の名を重ねて想い浮かべるだろう。かく申す私は、幼いころの正月、家族とこたつの上でやった百人一首のなかで、彼の名前と歌の文句を記憶した。あの懐かしい風景は何十年経ったいまも脳裏に焼き付いている。

 本書『ふりさけ見れば』は、まさにその阿倍仲麻呂を主人公にし、唐(玄宗朝)と日本(奈良朝)を股にかけた壮大な歴史小説である。記録によると彼は、六九八年頃の生まれ(本書では七〇〇年頃に設定)。七一〇年に遷都した平城京で学び、俊秀ぶりが認められて遣唐留学生に選ばれ、七一七年に唐の都長安に派遣された。

 おりしも唐朝は、玄宗皇帝の「開元の治」と評される盛唐期にあたり、その先進の制度や文化を学び祖国に伝えるのが、仲麻呂に課せられた役割であった。そのときともに留学したのが下道(吉備)真備や僧玄昉、それに二十一世紀になって存在が明らかになった井真成らであった。なお留学生ではないが、仲麻呂の傔人(けんじん)(従者)として同行した羽栗吉麻呂のことも忘れられない。彼らは異国で互いに支えあいながらそれぞれの道を目指すことになる。

 仲麻呂は最上位の学校である太学に学び、官吏を選抜する科挙(正式には選挙という)の試験のなかで最難関の進士科に、二十代の初めに合格したといわれる。ちなみに進士科は、毎年千名程度が受験して合格者が数名から多くて三、四十名ほど、そこから「三十にして老明経、五十にして少進士」(『唐摭言(とうせきげん)』)という諺も生まれた。中堅官吏になる明経科に三十歳で合格するのは老(年がいっている)、進士科に五十歳で合格するのは少(まだ若い)という。中華に属さない四夷(しい)の出身者で、武人(蛮将とも通称)ではなく正規の文官の道に進んだ例は他に知らない。そこに唐朝のもつ開放性とともに、新たな人材を求める時代の要請も垣間見ることができる。

 七一七年に唐朝で暮らし始めてから、仲麻呂には二度帰国する機会があった。最初は七三四年の第十次遣唐使(押使・多治比広成)、次が七五二年の第十一次遣唐使(大使・藤原清河)である。最初の方は「仲満(仲麻呂)、中国の風(気風)を慕い、因って留まり去らず」(『旧唐書(くとうじょ)』日本国伝)と、まだ唐で学ぶために自ら留まることを選択した。次の機会は帰国船に乗り込んだものの遭難して安南(ベトナム)まで流され、苦難の末に唐に復帰した。折しも安史の乱という未曽有の危機が目前に迫る。今度は唐に尽くすためにこの地で生き抜くことを決断し、さらに十五年ほど官僚生活を送ることになった。

二、玄宗期の官界と仲麻呂の在唐生活を支えた人々

 阿倍仲麻呂はこうして半世紀を超える歳月を唐朝で送り、最後は交州(ハノイ)に拠点をおく安南(鎮南)都護府の長官都護(正三品)を勤めあげ、官界を引退した。半世紀におよぶその官歴は、この安南都護という外任(外官)を除けば、すべて中央官(内官)であったが、そこには彼が四夷たる異国の出身者のため、民衆を直接統治する場(親民官)には立たせないという考え方がはたらいていたのかもしれない。

 しかしそのお陰で彼は終始中央にあって、激しく揺れ動く政治状況、官僚間の厳しい対立の場面に身を置く数少ない官僚の一人となった。玄宗の政治にかかわった張九齢や李林甫に宦官の高力士、楊国忠や蛮将(雑胡)の安禄山、また玄宗が愛した武恵妃や絶世の美女楊貴妃らの面々とも出会い、また恩蔭系と科挙系との熾烈な党派争い(党争)、長安の春とよばれる華やかさとその裏で進む律令体制の腐食する現実にも触れたはずである。そして唐朝の屋台骨を揺るがす安史の乱の大波にももまれ、何とか生き抜いた。

 緊迫した公務の合間には、王維や杜甫、李白らの当代一流の文人・詩人たちとも交流していただろう。親友となる王維は長安の東南郊外に、輞川荘(もうせんそう)という自然の景観に恵まれた別荘をもっていた。彼は休暇の折りにそこに籠り、山水を描き詩作に励み、後世南宗画(なんしゅうが)(文人画)の祖とされ、また詩では詩仏と称される。仲麻呂もそこに一度や二度は誘われ、訪れているはずとひそかに考えている。

 交友関係といえば、前述した日本から同期に留学したものたちがいた。異国で暮らすとき、同国人同士が時に集い寂しさをまぎらし、情報を交換し、また助け合うことは十分ありえることである。まして同国人が少ない当時にあっては、互いの関係は一層密接となるだろう。

 今世紀の初頭(二〇〇四年秋)、唐の長安にあたる西安の地から、遣唐留学生と目される「井真成墓誌」が発見され、私どもを驚かせた。墓誌によると彼の出自は「国号日本」、七三四年の年初に三十六歳で急に亡くなり、死後「尚衣奉御」(従五品上)という官位を贈られ、埋葬された。年齢は仲麻呂の一歳年下であった。生前勉学をつづけ官歴はないにもかかわらず、この贈官があり、葬儀も公的に営まれた。一介の留学生がこのように特別扱いを受ける、その背後には玄宗とつながる立場にあった仲麻呂の存在が見え隠れする。

 さらにもう一つ、近年明らかになった墓誌がある。こちらは七三四年の六月に洛陽で亡くなった、李訓という鴻臚寺(こうろじ)(外交部門)の役人のもの。その末尾に「日本国朝臣備書」(日本国の朝臣備がこの墓誌文を書く)と刻まれていた。当時在唐した日本人で、「朝臣備」に該当するものといえば吉備真備しか考えられない。彼の正式日本名は「下道朝臣真備」であり、そこから朝臣備と名乗ることに違和感はない。唐人(とうひと)は「朝臣」を一つの姓と理解していた。この年四月、第十次遣唐使一行が洛陽で玄宗に謁見しており、一行に合流するために真備は長安から洛陽に移っていたはずである。このわずか七文字から、私たちは初めて在唐中の真備の足跡にふれることができたのである。

 ちなみに、真備は六九五年の生まれで、入唐時が数えの二十三歳。そのため十九歳以下という入学条件に抵触し、太学にもその下の四門学にも入れなかった。そこでおそらく彼は唐の一流学者たちに個別について学ぶ道を選び、儒学や経学から兵学や天文学などまで通じ、日本にもたらした。「李訓墓誌」の見事な楷書の字体もそうして修得されたものでなかったか。

三、著者安部龍太郎が描いた歴史世界とその意義

 本書『ふりさけ見れば』は阿倍仲麻呂を主人公にし、準主役的位置に吉備真備を配する。ただし準主役といっても真備は行動的で、存在感は大きく、しかも帰国後の彼の活躍は目覚ましく、仲麻呂の背後に簡単には収まらない。そのことは両人が同じく在唐中に娶ったという妻についてもいうことができる。

 仲麻呂の妻の名は張若晴、唐に来たばかりで重病にかかった彼を医師の見習いとして献身的に手当てし、それが縁で愛しあい結婚した。従者の羽栗吉麻呂が唐の女性との間にもうけたという翼・翔の二子は、ここでは仲麻呂と張若晴の間の子供とされる。彼女は宰相となる張九齢の姪で、理知的にして楚々とした美人、誰にも優しく控えめ、内に秘めた凛とした気高さに誰をも感動させずにはおかないだろう。

 この夫婦が静かで内省的であるとすれば、真備夫婦の方は情熱的で行動力があり、妻はソグド人商人石皓然の娘、石春燕といった。二人の結婚は真備の人柄と将来性を見込んだ石皓然の差配によるが、彼女も真備を心から愛し、日本に帰国後は父の商船を使い、二人の間の一粒種、名養(なかい)を連れて真備に会うために博多や奈良にまでやってきた、という設定になっている。

 真備の義父石皓然のもたらす話は大変で、同じソグド人の血を引く安禄山は自分の息子も同然とみなす。ここから婿である真備も、その友人の仲麻呂もみな禄山の義兄弟にさせられる。そのうえ仲麻呂は、七三四年に帰国する真備らと分かれ一人都に残されると、ある「密命」のために世話になった張九齢を離れ、友人の王維も捨て、実権を握る李林甫の配下に加わった。あげく長年連れ添った愛妻の若晴を離縁し、楊貴妃の姉楊玉鈴(秦国夫人)と結婚するはめになる。この結果彼は、楊貴妃の義兄で、玄宗とは義兄弟という立場に立つことになった。

 仲麻呂が受けた「密命」とは何か。その核心にあるのは端的にいえば「日本」の成り立ちという重い問題、それを唐朝の秘庫に分け入って解き明かすことが、本書全体を貫く一本の線となっている。その「密命」をうけた彼の前に、七〇二年の粟田真人の遣唐使のときに留学僧として唐に入り、その後還俗して姿を消していた弁正が姿を現し、井真成が帰国を前にして命を落とした理由も明かされる。後半にはそこに吉備真備も加わってくる。本書はそうしたスリリングな背景や場面を緻密に組み込んで構成され、時に読者を探索者にさせ、また時に自身の問題として考えさせ、どこまでも飽きさせない。

 著者安部氏がつぎつぎと繰り出す話は、何ともいえぬ荒唐無稽さながら、時代に正面から向き合い、必死に誠実に生きる仲麻呂らの姿勢に感化され、読み手はいつしかその荒唐無稽さを忘れ、かれらが繰り広げる世界に引き込まれている。安部氏の読み手を魅きつけてやまない筆力、その前提をなす構想力や周到な仕掛けに改めて脱帽させられた。

『ふりさけ見れば』は二〇二一年七月から一年八カ月、日本経済新聞の朝刊で連載されたが、その始まりに先立ってじつは氏から、時代考証として協力してもらえないかとの依頼を受けた。私の力でどこまで対応できるか正直心配もあったが、仲麻呂とその時代は自身の専門にも重なり、時代像を見直す貴重な機会になるはずだと思い直し、勇気を奮って引き受けさせていただいた。

 そのさい、阿倍仲麻呂を扱う日本と中国にまたがるこの歴史小説を、単なるエンタメ的な一過性のもので終わらせたくない、今日のぎすぎすした日中関係、若者を含め中国歴史世界への関心の希薄化といった現状に一石を投じるものになってほしい、と考えた。そのためには彼らが生きた風土や生活空間、体制の仕組みや社会の運用などの前提がしっかり理解される必要がある。それであれば読者は安心して歴史世界を楽しむことができると、私はいささか上段に構えたのであるが、安部氏も同じ思いで、毎度時代の風景、社会の情景を一切手を抜くことなく描き出し、感服させられた。そうしたところから本書は歴史小説であると同時に、当時を描いた歴史の書にもなっていると感じている。

 最後に、このような貴重な機会に巡りあえたことに感謝するとともに、多くの方々にこの小説を通じて、阿倍仲麻呂や吉備真備らの先人たちが生きた時代に思いを馳せていただけることを願っている。

遣唐使に託された密命とは?

阿倍仲麻呂と吉備真備。彼らはなぜ後世に名を残したのか。緊迫する東アジアで日本は古代中国の大帝国とどう対峙したのか。直木賞『等伯』から10年、「日本経済新聞」連載から新たな代表作が誕生した!

安部龍太郎著/日本経済新聞出版/2200円(税込み)