大手メーカー系列の中堅システムインテグレーターでSEとして働く後藤智彦。担当企業のシステムが大トラブルに見舞われ、緊急対応に向かった彼はそこで、先輩SEの五十嵐優一と出会う。営業の滝下が先に帰宅し、顧客対応のプレッシャーがかかる後藤に、五十嵐は意外な言葉を口にする。(この物語はフィクションです)
滝下の姿が見えなくなるのを確認してから、五十嵐さんが「後藤は、滝下くんが嫌いか?」と尋ねてきた。
ぼくは心の中で、「五十嵐さんのこともあまり好きではありません」と思いつつ、それは伏せて、滝下に対する日ごろのいらだちを口にした。
「彼は大きな仕事が取れそうになると、自分の手柄にしようとしゃしゃり出るくせに、こういうトラブルになるとすぐに逃げるんです。どうせ会社に戻っても仕事をせずにすぐに家に帰ると思います。五十嵐さんは、なぜ、すんなり帰らせてしまったんですか?」
「本人が帰ると言っているのに、無理やりいさせても仕方がない。オレたちがやることは、トラブル対応だ」
「えっ。ぼくも早く帰りたいって言っていますけど」
「後藤が帰ったら、仕事が進まないだろ」
なんというダブルバインド! そう思ったが、口に出すわけにはいかない。苦虫をかみつぶした顔をしていると、ぼくのスマホが鳴った。服部課長からのメッセージだった。急な接待が入ったから、来られないとのこと。ぼくは腹が立ってつい、「相変わらず、都合がいいんだから」と口にした。
「服部課長か?」
「そうです。急な接待が入ったって。どうせ、単なる飲み会ですよ。普通はトラブル対応を優先すると思います」
「いろいろと忙しいんだろ」
五十嵐さんは怒ることもなく冷静だ。その無関心な態度が、逆に腹立たしく感じられた。
「緊急事態なのに、営業や課長が逃げ出すって、なんか間違っている気がします」
「まあ、よくあることだ。たいしたことじゃない。心を落ち着けて受け流しておけ」
受け流そうと思っても、日ごろの彼らへの不信感で、こみ上げてくる怒りがどうしても抑えられなかった。ああ、渚! 今ごろは泣いているんだろうか。それとも、怒っているんだろうか。
サーバー室の入り口には作業服を羽織った女性が立っていた。
「お疲れさまです」
滝下が言った保守業者の技術者だろうか。でも、まさか若い女性とは。
「運用保守会社の春村と申します。私もお手伝いさせてもらいますので、よろしくお願いします」
年齢は20代半ばくらいだろうか。地味な雰囲気で、首から写真付きのIDカードをぶらさげていた。作業服の下は地味な色のシャツ、パンツスーツ、そして動きやすそうな靴。まさしくIT系の女性という感じだ。
「XTの後藤です。それから、先輩の五十嵐さんです」
五十嵐さんは、「ハルナちゃんよろしく」とにこりとほほ笑んだ。2人が知り合いなのかと一瞬疑ったけど、IDカードに「春村春菜」とフルネームが書かれてある。
名前に、春が2個もある。いや、それより、いきなり下の名前で呼ぶか?
そんなことを思っていたら、春村さんは無表情のまま「ハルナではなく、ハナです。あと、名字で呼んでください」と頭を下げた。
「あ、ごめんなさい」
五十嵐さんは舌を出した。
サーバー室の冷たい空調が体の奥まで染みわたる。大量のサーバーがズラリと設置されていることもあり、冷房はキツめだ。
「でも、五十嵐さんは、わりと平気そうですね」
「実はズボンとシャツの下に保温インナーを2枚重ねてる。もちろん靴下も二重、それに」
そう言って、五十嵐さんはカバンからダウンコートまで出してきた。
「カバンが大きいと思ったら、そんなのが入っていたんですか」
「トラブル対応時の基本だよ」
五十嵐さんの用意周到さに驚きつつ、ぼくも用意していた薄手のコートをカバンから出した。
「なんだ、後藤も準備してるじゃないか」
「はい、サーバー室の寒さは知っているので、荷物にならない程度のコートは準備してきました。でも、このコートでは30分が限界です」
五十嵐さんは「だよな」と笑いながら、もう1つのカバンからパソコンを取り出し、準備を始めた。
「春村さん、ここのネットワークにオレのパソコンを接続したい」
「はい、準備します」
「長いLANケーブルなら持ってきたので使ってください」
ぼくはカバンからケーブルを2本出した。春村さんは「ありがとうございます」と言ってケーブルをスイッチングハブの空きポートに接続した。そして、もう一方の先を五十嵐さんに渡した。
「後藤、設計書を見せて」
「あ、はい。これです。こっちのUSBにはデータで入ってます」
そう言ってぼくはファイル2つとUSBメモリーを手渡した。
五十嵐さんはあまりの分厚さにため息をついた。この内容を理解するのはさすがに大変だ。
「ところで、この付箋紙は何?」
「ここまで来るタクシーの中で、トラブル対応に必要そうなところに付箋紙を付けておきました。途中までですが」
五十嵐さんは「ほう、やるじゃん」という表情を浮かべた。
「あと、運用と保守関連の資料もくれるか?」
「それは私が持ってます」
春村さんは持っていた袋の中からファイルを取り出し、パラパラとめくった。
「ここに、運用保守用のアカウント情報などが書いてあります。まずはサーバーにログインしてみてください。そして、それ以外にも必要な情報があれば、おっしゃってください」
春村さんはてきぱきと答えた。運用保守の担当者としては優秀な感じだ。
五十嵐さんが資料を見ると、そこには運用保守用のIDとパスワードが記載されていた。
「IDとパスは共用なんだね。IPアドレスは?」
「アドレスは、DHCPなので自動で割り振られます」
春村さんはそう言いながら、ぼくの分のLANケーブルもスイッチングハブに接続してくれた。
「このシステムは、オレが会社を辞める前に少しだけ携わっていた。なんとなく覚えているんだけどなぁ」
「五十嵐さん、前はぼくの会社にいたんですよね?」
「おう、だからオレはお前の先輩な」
五十嵐さんは、先輩だから偉いんだぞ、そんな雰囲気を出しながら笑顔を見せた。
話を聞くと、6年ほど前に転職して、現在は独立して自分の会社を経営している。服部課長が五十嵐さんにトラブル対応の手伝いを頼んだというわけだった。
他にいい人はいなかったのかな?
そう思いながら、春村さんが準備したLANケーブルの先を自分のパソコンにつなぎ、ぼくも調査を開始した。
ぼくはこれまで、プロジェクトをいくつも成功させてきたし、ネットワークと製造系のシステムに関しては自信がある。トラブル対応も比較的素早く解決してきた。とはいえ、それは、自分の得意分野や自分が担当したシステム限定だ。今、障害が出ているこの顧客のシステムは、ネットワーク周りを部分的に知っているくらいで、他はほとんどわからない。
まず、現状を理解するところから始めよう。
ぼくは、パソコンに入れた設計書を見ながら、サーバーに接続してシステムの現状を理解することにした。そして、事象を再現して、どういう事象が起こっているのかを把握する。それから原因を突き止めて対処をしよう。ただ、このような大規模で、なおかつ他人が設計したシステムは現状を把握するのにも一苦労。解決にはかなり時間がかかりそうだ。新庄を呼び戻さないと、早期の対応は不可能な気がする。
思いあぐねながら、ふと五十嵐さんのパソコン画面を見ると、すでに事象を再現し、不審なメッセージを表示させている。
この人、思ったよりもできる人?
五十嵐さんはキーボードをカタカタと打ちながらも、「これは結構時間がかかりそうだな」と渋い表情をした。
「とりあえず正常に動くようにはできると思うけど、根本解決ができるかはわからん」
本当に?
この短時間の調査で、「正常に動くようにできる」と言えるのがすごい。五十嵐さんは、ただの徹夜好きではないのかもしれない。
「なあ後藤、滝下くんの話だと、この会社の社員はみんな帰宅してたよな。ということは今直すのも、明日の朝までに直すのも同じだよな」
「でも、直せるなら急いでやりましょうよ。顧客もお怒りですし」
「早く帰りたいか?」
「できれば」
娘の渚のためにも早く帰りたい。
だが、理由はそれだけではなかった。サーバー室という劣悪な環境も嫌だし、プレッシャーの中、厳しい顧客から言葉で追い詰められるのは嫌だ。先ほど、佐原部長に叱られていた滝下の姿を見ているだけでもつらかった。
「まあ、そうだわな。サーバー室という閉鎖された空間は、心理的にも追い詰められる」
五十嵐さんがぼくの気持ちを代弁してくれた。
「トラブル対応って、『絶対に直せ』って顧客が圧力をかけてきますから、焦りが出てきます」
ぼくがそう言うと、五十嵐さんは豪快に笑った。
「でも、なるようにしかならないんだ。焦っても仕方がないだろ」
「それって、言い方を変えると、直らなくても仕方がないということですか?」
すると、五十嵐さんは作業していた手を止め、ぼくの方を向いて答えた。
「そうだ」
何か問題があるのか? といわんばかりの表情だ。
「じゃあ、直らなかったらどうするんですか? 顧客が困りますよね。ぼくは、今までやってきたトラブル対応では、システムエンジニアとして、高い技術を持って解決してきました。そういうものじゃないんですか?」
「その考え方は、自分自身を追い詰めるぞ。全力でやっても、直らない時があるんだから」
「五十嵐さんは、トラブルを直しに来たんじゃないのですか?」
「ちなみに聞くが、焦ってやったら直るようになるのか?」
「い、いや、そうではありませんが……」
これ以上言ったら、「だったら、お前が直せ」と言われて終わりだ。ぼくは黙り込んだ。
「『直らなくても仕方がない』と思った上で、直すように最善を尽くすのが大事なのさ」
そう言いながら、五十嵐さんは手を止めずに作業を続けている。
直らなくてもいい、そういう考え方もあるんだ。
五十嵐さんがハッキリと言ってくれたことで、ぼくの心にかかっていたプレッシャーが確実に和らいでいくのがわかった。
(つづく)
[日経クロステック 2023年7月18日付の記事を転載]

