知っておきたい今井むつみさんの認知科学の広くて深い世界を、体系的に学べるように、えりすぐってお届けしていきます。今週は、新書大賞2024を受賞した『 言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか 』(今井むつみ、秋田喜美 著、中公新書)からの抜粋です。1回目は、書籍の中でも最も魅力が濃縮されている「はじめに」です。

言語という謎

 私たちは言語を毎日使っている。水か空気のようにあって当たり前だと思っている。そのありがたみを感じるのは言語を使えなくなったときくらいかもしれない。「言語の性質とは何か? そんなことを考えるのは言語学者というヒマ人だけだ。意味がわからなければ辞書を引け。そこに答えが書いてある」。そういう声が聞こえてきそうだ。でも生活の中でふとした瞬間に、「ことばとは何か」という、疑問がかすかに頭をよぎったことがある人も多いかもしれない。

 もちろん言語が人間の知的活動のすべてではないし、言語能力が認知能力のすべてではない。しかし、人間には言語が必要なのだ。そして言語に関しての謎は多く、それぞれの謎が底なしの沼のように深い。言語研究者にとって、言語は、いくら登り続けても頂点にたどり着くことができない、高い山のような存在である。

記号接地という視点

 認知科学では、未解決の大きな問題がある。記号接地問題という。私たち人間は、知っているそれぞれのことばが指す対象を知っている。「知っている」というのは、単に定義ができるということではない。たとえば、「メロン」ということばを聞けば、メロン全体の色や模様、匂い、果肉の色や触感、味、舌触りなどさまざまな特徴を思い出すことができる。もちろん、これは「メロン」を写真で見ただけではなく、食べたことがあれば、である。

 しかし、実物を見たことも食べたこともない果物はどうだろう。「○○」という名前を教えられ、写真を見せられる。すると、その果物の外見はわかり、名前を覚えることができる。「甘酸っぱくておいしい」のような説明が書いてあれば、それも覚えることができる。しかし、○○のビジュアルイメージを「甘酸っぱくておいしい」という記述とともに記憶したら、○○を知ったことになるだろうか? イチゴの味を知っていて、「イチゴは甘酸っぱくておいしい」と思っていたら、○○の味もイチゴの味と考えてしまうかもしれない。

 記号接地問題は、もともとは人工知能(AI)の問題として考えられたものであった。「○○」を「甘酸っぱい」「おいしい」という別の記号(ことば)と結びつけたら、AIは○○を「知った」と言えるのだろうか?
 この問題を最初に提唱した認知科学者スティーブン・ハルナッドは、この状態を「記号から記号へのメリーゴーランド」と言った。記号を別の記号で表現するだけでは、いつまで経ってもことばの対象についての理解は得られない。ことばの意味を本当に理解するためには、“まるごとの対象について身体的な経験”を持たなければならない(図初-1)。ロボットならカメラを搭載することができる。カメラから視覚イメージを得ることはできる。しかし私たちが対象について知っているのは、視覚イメージだけではない。触覚も、食べ物なら味覚も、対象のふるまい方や行動パターンも知っている。このような身体に根差した(接地した)経験がないとき、人工知能は○○を「知っている」と言えるのだろうか?

 しかし、記号接地問題は、人工知能の問題だけではないかもしれない。ヒトはことばを覚えるのに、身体経験が必要だろうか? ことばを使うために身体経験は必要だろうか? 言語はどこまで身体とつながっている必要があるのだろうか? 記号接地問題については第4〜6章で詳しく議論することにして、ここでは、「ことばを使うために身体が必要か」という、記号接地問題と同根だが少し違った、より人間の言語の問題に直接的に関わる問いについて考える。そのためにまず、逆の方向、つまり「言語は抽象的である」ということを考えてみよう。

図初-1 記号接地問題(画:スタジオびりやに)
図初-1 記号接地問題(画:スタジオびりやに)
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言語の抽象性──アカを例に

 言語を覚え、使うために、果たして身体経験は必要なのか? 記号接地問題が提唱され、注目された背景を理解するには、1990年代前半という時代に言語がどのようなものとして認識されていたかを知っておく必要がある。

 当時、「言語とは、身体感覚とは直接つながりのない、抽象的な記号である」という見方が主流であった。抽象的な概念を自由自在に操作できることが、人間の知性の象徴と考えられていた。言語は身体から切り離された抽象的な記号であり、それを論理的に操作すれば言語が理解できたり使えたりするという考え方は、コンピュータに言語を習得させたり、翻訳させたり、話をさせたりするのにとても都合がよい。コンピュータは身体を持たないからである。
 その中で、本当に身体から独立した記号として言語を理解したり話したりすることができるのか、コンピュータに本当の「意味」がわかるのか、という疑問が生まれてきた。それが「記号接地問題」の背景である。

 言語は巨大で、抽象的な記号システムであることは間違いない。抽象的なことばというと、「わび・さび」や「素数」など、視覚的な実体がない概念を指すことばを思い浮かべる人が多いと思う。たとえば「アカ(赤)」や「アルク(歩く)」は、あまり抽象的な意味を持つことばだとは思われない。対象が目に見えるからである。
 しかし、真剣に考えていくと、実は「アカ」の意味も「アルク」の意味も非常に抽象的であることがわかる。「アカ」や「アルク」の意味は、ある典型的な指示対象を知れば理解できるわけではなく、ことばが指し示す範囲がわからなければならないからだ。範囲がわかるためには、同じ概念分野でそのことばを取り巻く他のことば(「アカ」の場合には「オレンジ」「ピンク」「ムラサキ」など)の存在を知り、それらとの境界がわからないといけない。これはある特定の対象(たとえば赤い自動車)を目にして「アカ」という単語の音を聞いただけでは到底わからないのだ。これについては詳しくは第6章で述べるので、ここでは、「ことばはシステムの一部なので抽象的である」ということをポイントとして押さえておいていただきたい。

言語の進化と子どもの言語習得の謎

 一つひとつのことば(単語)がそれぞれ関係性を持ち、巨大なシステムになったもの、そしてそのことばをいくとおりにも組み合わせることができるもの、それが言語である。とすると、さまざまな疑問が生まれる。言語はどのように発生し、どのように進化したのだろうか? 発生当初からこのように抽象的で複雑で巨大なシステムだったのだろうか? それはちょっと考えにくい。すると、発生したばかりの言語はどのようなもので、どのように現在の言語の形に進化していったのだろうか?

 子どもも当初から巨大なシステムを持っているはずがない。子どもはどのようなことばを最初に覚えるのだろう? どのように言語が記号のシステムであることを理解するのだろうか? どのようにこのような抽象的な意味を持った巨大なシステムを習得していくのだろうか?
 これらの問題はすべて「記号接地問題」へとつながってくる。この問題を提唱したハルナッドは、少なくとも最初のことばの一群は身体に「接地」していなければならない、と指摘した。
 本書は、「記号接地問題」に対する答えを考えていく。このことは、言語と身体の関わりについて考えることであるが、そこからさらに言語の起源と進化、そして子どもの言語の習得について考察をする。そしてさらに、「言語の本質とは何か」という問題に挑む。この挑戦の鍵となるのは「オノマトペ」である。

 オノマトペ? そう、「げらげら」とか「もぐもぐ」とか「ふわふわ」とか、日本人の生活になくてはならない、あのコトバである。実は、「オノマトペ」は今、世界的に注目されている。それも「ちょっと変わったおもしろいコトバ」としてではない。言語の起源と言語習得の謎を明らかにする上で大事なコトバ、「言語とは何か」という哲学的大問題を考える上で大事な材料として脚光を浴びているのである。著者たちもおもしろ半分でもなく、ウケ狙いでもなく、「オノマトペ」を学術的に重要なテーマとして、いたって真剣に、地味に研究してきた。

 長年世界の主流派には、オノマトペは言語学という学問の中であまり重要でない、どちらかというと周辺的なテーマと考えられてきた。日本では海外に比べ、オノマトペの研究が盛んに行われてきたが、音と意味のつながりや文の中での機能や修辞的効果に焦点が置かれてきた。その中で、筆者の秋田は、大学院生のときから一貫して、他言語との比較や言語理論を用いた考察により、オノマトペがいかに言語的な特徴を持つことばであるかを考えてきた。
 一方で、今井は認知科学、発達心理学の立場から、言語と身体の関わり、とくに音と意味のつながりが言語の発達にどのような役割を果たすのかという問題に興味を持ち、成人と乳児、幼児を対象に数多くの実験を行ってきた。今井が実験をデザインするときにいつも頼りにしてきたのが、世界中のオノマトペ研究の文献を熟知している秋田であった。
 二人でオノマトペ談義をしていると、いつも最後は「オノマトペとは」ではなく、「言語とは」という問題に話が跳んでしまうことに、あるとき気がついた。二人とも、オノマトペに魅了されながらも、最終的に考えたいのは「言語の本質とは何か」という問題だということに、気づいたのである。

 オノマトペは特殊なことばのように見えて、実は言語の普遍的、本質的な特徴を持つ、いわば言語のミニワールドであり、「記号接地問題」を解決する鍵になるのではないか。秋田は言語学に身を置き、言語の分析を行ってきた。今井は認知・発達心理学者として、言語を習得する、あるいは運用する人間の推論についてずっと考えてきた。つまり、秋田の研究のベースキャンプは言語サイドにあり、今井のベースキャンプは人間サイドにある。
 言語のあり方と人間の思考という二つの基地を行ったり来たりしながら、言語学、認知心理学、脳神経科学など、異なる学問分野をまたいで世界のオノマトペ研究者たちが行ってきた膨大な研究の成果を二人で俯瞰(ふかん)的に見つめ、いっしょに考えていけば、「記号接地問題」「言語習得」「言語進化」「言語の本質」という言語研究の本丸に迫っていけるのではないか。そう考えて本書の執筆を始めた。もう5年以上も前のことである。複数の著者が共同執筆する本では、章を分担して別々に書くことが多いが、本書は、二人の筆者が思考のキャッチボールをしながら、言語という高い山に挑戦すべく、すべての章をいっしょに執筆した。
 読者には、ぜひ筆者たちの「言語の本質とは何か」を理解するための探究の旅に同道していただきたい。