知っておきたい今井むつみさんの認知科学の広くて深い世界を、体系的に学べるように、えりすぐってお届けしていきます。今週は、新書大賞2024を受賞した『 言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか 』(今井むつみ、秋田喜美 著、中公新書)からの抜粋です。5回目は、言語習得における人間と動物の違いについて。チンパンジーの実験から見ていきます。

チンパンジー「アイ」の実験

 「すべての対象には名前がある」という気づきは、言語という記号体系を自分で構築していくための一歩を踏み出すための偉大な洞察であると2回目で述べた。ところで、この洞察にはその下にもう一つ大事な洞察が埋め込まれている。名前というのは、形式(ことばの音や文字)と対象の間の双方向の関係から成り立っているという洞察である。どういうことか。

 ある対象についてKUTSUということばの音を聞いたとしよう。子どもは、「くつ」と大人が呼ぶモノはKUTSUという音で表すことを覚える。「くつ」の一事例を見せられて、「これは何?」と問われたら、やがて「KUTSU」と答えられるようになる。同様に子どもは、黄色い甘い果物の名前が「BANANA」と呼ばれることを覚え、その果物を大人が指差して「これ何?」と聞いたら「BANANA」と答えることができるようになったとする。しかし、その子どもが、バナナ、リンゴ、ミカンが入っているボウルから「BANANA」を取ってと指示されたのに、リンゴを取ったりミカンを取ったりしたら、親はわけがわからず、ビックリするだろう。

 だが、ことばの形式と対象の間には双方向性の関係性があるという、人間にとって当たり前のことは、動物にとっては当たり前ではないのである。今井が何年も前に見た、ある動画を紹介したい。京都大学霊長類研究所(当時)の松沢哲郎教授とチンパンジー「アイ」の実験の動画だった。
 アイは訓練を受けて、異なる色の積み木にそれぞれ対応する記号(絵文字)を選ぶことができる。黄色の積み木なら△、赤の積み木なら◇、黒の積み木なら〇を選ぶという具合である。アイはこれをほぼ完璧にできるという。訓練のあと、時間が経ってもその対応づけの記憶は保持されていた。

 しかし、動画後半の展開は衝撃的だった。今度は、アイに、記号から色を選ぶよう指示した。黄色、赤、黒など、最初の訓練で用いた色の積み木を用意した。△を示したら異なる色の積み木から黄色い積み木、◇を見せたら赤い積み木、〇を見せたら黒い積み木を選べると、当然私たちは予想する。自分の子どもでそれができなかったらパニックになるかもしれない。だがアイは、訓練された方向での対応づけなら難なく正解できるのに、逆方向の対応づけ、つまり異なる記号にそれぞれ対応する積み木の色を選ぶことが、まったくできなかったのである。

 人間の子どもの言語の発達を研究する今井は、この事実に驚愕(きょうがく)し、興味を掻(か)き立てられた。普段文献をフォローしている人間の子どもの言語発達の分野で、このような事実を指摘する論文をそのときまで読んだことがなかった。実際、ヒトの幼児のことばの意味の推論を研究した実験は、ほとんどすべて、子どもにある対象を指差して「ネケ」という新奇なことばを教えた場合、子どもが「ネケ」という“ことば”を理解したかどうかを確かめるために、その対象とそれとは異なるモノを一緒に見せ、「ネケはどれ?」と聞く方法が標準的であった。
 しかし、この実験の方法は、AはXであると教えたときに、子どもが同時に逆方向も学習できており、XはAであると「教わる」ことを想定しているのだ。つまり、この黄色い積み木はKIIROであると教えたとき、KIIROという音は黄色い積み木を指すとか、この赤くて丸い果物はRINGOであると教えたとき、その逆のRINGOという音は赤くて丸い果物なのだと思いこむことを想定している。この逆方向への一般化こそが、特定の音が対象の名前なのだという理解を支えているとも言える。

 だが、よくよく考えてみると、この一般化は“論理的には”正しくない。「AならばX」は、「XならばA」と同じではない。このことは、「ペンギンならば鳥である」が正しくても、「鳥ならばペンギンである」は正しくならないことからすぐわかることだ。
 アイが「黄色い積み木は△、赤い積み木は◇」と学習しても、「△は黄色い積み木、◇は赤い積み木」と選べないのは、論理的にはまったく正しいのである。
 対象→記号の対応づけを学習したら、記号→対象の対応づけも同時に学習する。人間が言語を学ぶときに当然だと思われるこの想定は、論理的には正しくない過剰一般化なのである。

非論理的な推論

 「AならばX」を「XならばA」に過剰一般化することは、人間には日常的に頻繁に見られることである。以下は、私たちがとくに「推論」だという感覚も持たずに行っている推論である。

 太郎は、仕事が早く終わったら、飲み会に参加すると言った。太郎は飲み会に来た。よって太郎は仕事が早く終わったに違いない。

 外を見たら道路が濡(ぬ)れていた。気づかないうちに雨が降ったに違いない。

 上の二つの例は「間違い」だとは思わないだろう。しかし、これは論理学では「後件肯定の誤謬(ごびゅう)」と呼ばれる「論理の誤り」なのである。太郎が飲み会に来たのは、仕事が終わったためとは限らず、飲み会の出席者と会う必要があったためかもしれないし、気分を変えて英気を養うためだったかもしれない。地面が濡れていたのも、可能性は薄いが放水車が水を撒(ま)いたのかもしれない。
 後件肯定が誤謬であることは、次の例を見るとわかりやすい。

 英雄は色を好む。Xは色を好む。だから、Xは英雄である。

 英雄色を好むというのは有名な格言である。しかしXが色を好むからといって、Xが英雄とは限らない。英雄でない色ごのみの人物がたくさんいることを私たちは知っている。
 そして、これとまったく同じ論理形式のこのような例はどうだろう。

 新型コロナに罹患(りかん)すると、喉が痛くなり、発熱することが多い。今、私は喉が痛くて熱がある。だから私は新型コロナにかかっている。

 喉が痛くなる病気は新型コロナだけではない。インフルエンザかもしれないし、他の病気で同じ症状が出ることも十分ありうる。しかし多くの人は、新型コロナが流行しているときにこのような症状が出たら、当然のように自分もコロナ感染をしたのではないかと疑うだろう。
 そもそも病気の診断は、たいていの場合、症状からその原因(病名)を遡及的に推論するアブダクション推論である。もちろん現代医学では病名を確定するためにさまざまなテストを行う。しかし、第6章で述べたように、医師が最初に病気について症状から予測ができなければ、何のテストを行うかを決めることができないのである。

 原因と結果をひっくり返す。人間の子どもは、幼少時からこのような論理を逆転させた思考を行う。そしてこれは、大人でもよくあることである。たとえば、いつも店の前に長い行列がある店があると、(「おいしいから混んでいる」ではなく)「混んでいる“から”おいしい」と考え、つられて自分も列に並んでしまう。これと関係するのが、必要条件と十分条件をひっくり返すバイアスだ。筆者たちは大学生を教えているが、「8割の出席が単位取得の必要条件」と伝えると、多くの学生は「8割出席すれば単位がもらえる」と思うのである。