2024年のノーベル物理学賞は、ジェフリー・ヒントン氏とジョン・ホップフィールド氏に決まった。ヒントン氏が開発したAlexNet(アレックスネット)は、何が画期的だったのか? 世界中の頭脳と資金がAI研究に大量投入されるきっかけとなった一大ブレイクスルーを、ヒントンと共にグーグルのAI研究を推し進めたスレイマン(ディープマインド共同創業者、マイクロソフトAIのCEO)が解説。『THE COMING WAVE AIを封じ込めよ』(ムスタファ・スレイマン、マイケル・バスカー著、上杉隼人訳)から抜粋・再構成してお届けする。
ディープラーニングを復活させたヒントンの画期的成果
AIは来たるべき波の中心にある。だが、1955年に初めて「人工知能」という用語が登場した時から、実現は遠い先のことだとよく思われていた。
たとえばコンピュータビジョン(物体や情景を認識するコンピュータ)の開発は予想よりも時間がかかった。1966年、伝説的なコンピュータ科学者マービン・ミンスキーは、夏休み中の大学院生をアルバイトで雇い、初期の画像認識システムを開発しようとした。休み明けまでには画期的な成果が出ると考えていたが、楽観的すぎた。
それから半世紀。ブレイクスルーを成し遂げたのは、2012年に登場したAlexNet(アレックスネット)であった。AlexNetは昔から知られていた技術、ディープラーニング(深層学習)を復活させた。ディープラーニングは今日のAIの基礎となり、AIを大きく発展させ、私たちディープマインドにとっても不可欠なものとなった。
ディープラーニングは、人間の神経細胞を模してモデル化したニューラルネットワークを使用する。簡単に言うと、このニューラルネットワークは、大量のデータで「訓練」することで「学習」する。
AlexNetは画像データで訓練された。画像を1ピクセルごとにR(赤)、G(緑)、B(青)の値に置き換え、その結果得られる数値配列をニューラルネットワークに入力する。ニューラルネットワークの中で「ニューロン」はほかのニューロンと次々につながっているのだが、つながる通り道には重みが付けられており、その重みに応じて入力値が変化する。この重みはニューロン間の関係性の程度にほぼ対応している。ニューラルネットワークの各層が入力値を次の層に送ることで、徐々に抽象的な解析が可能になる。
この後、バックプロパゲーション(誤差逆伝播法)と呼ばれる手法により各層の重みを調整し、ニューラルネットワークを改善する。この手法はニューラルネットワークの出力値と正解との誤差を求め、それを出力側から入力側に向かって逆伝播させることで重みを修正するものだ。これを繰り返し、重みを何度も修正することで、ニューラルネットワークの性能が徐々に向上する。
ピクセル単位の認識から始まり、線や輪郭、外形、最終的には各シーンのオブジェクト全体を学習する。これがディープラーニングの簡単な説明だ。業界で長らく軽視されていたこのすばらしい手法が、コンピュータビジョンの道を開き、AIの世界を席巻した。
世界中の頭脳と資金がAI研究に投入される契機に
AlexNetは伝説的な研究者ジェフリー・ヒントンと、彼の2人の教え子、アレックス・クリジェフスキーとイリヤ・サツキバーによってトロント大学で開発された。
3人は大規模な画像認識技術コンテストILSVRC(ImageNet Large Scale Visual Recognition Challenge)に参加した。年に一度のこの大会は、スタンフォード大学のフェイフェイ・リー(李飛飛)教授が立案したもので、画像を正しく認識して分類するというシンプルなゴールをめざす。毎年参加チームはそれぞれ最高のモデルで競い合ったが、前年大会のモデルから1ポイント程度しか精度が改善しないのが常だった。
2012年、AlexNetは前回優勝者に10ポイントの差を付けた。わずかな進歩に思えるだろうが、AI研究者にとっては飛躍的な進歩で、お遊びのような研究デモと、現実世界に多大な影響を与える間際のブレイクスルーくらいの違いがあるのだ。その年の大会は興奮に包まれた。ヒントンらの研究論文は、AI研究史において最も引用された論文のひとつになった。
ディープラーニングのおかげで、コンピュータビジョンは今や至るところで活用されている。1秒当たりフルハイビジョン画面21個分、つまり約25億ピクセル相当もの画像データを入力することで、現実世界の混雑した車道を認識することができるようになり、SUVでスムーズに走行できるようになった。
今やスマホですら物体や情景を認識し、ビデオ通話で背景をぼかすことができる。コンピュータビジョンはほかにも各方面で自律化を推し進めている。たとえばアマゾンのレジなしスーパー、テスラのオートパイロット、目の不自由な人向け誘導ツール、工場における産業用ロボットの制御などだ。
ボルチモアから北京に至るまで都市部の監視カメラは増えており、その顔認識システムにも活用されている。Xbox、スマートドアベル、空港のゲートにも、センサーやカメラの中に組み込まれている。ドローンの飛行を制御し、フェイスブックの不適切なコンテンツを警告し、診断できる病気の幅も広がっている。
ディープマインドで私のチームが開発したシステムは、世界の屈指の眼科医と変わらぬ精度でOCT検査画像を分析し、目の病気を診断できるまでになった。
AlexNetのブレイクスルーを受けて、AIは一気に政府や企業や学界で最優先の重要研究になった。グーグルはヒントン、クリジェフスキー、サツキバーの3人を招き入れた。さらにDQN(Deep Q-Network)を開発したばかりのディープマインドを買収し、プロダクトのすべてで「AIファースト」戦略に切り替えた。米中の主要テック企業は、機械学習を研究開発の中心に据えた。
AI研究の成果と特許は急増した。1987年に「NeurIPS」で発表された学術論文はわずか90本だったが、2020年代には約2000本に膨れ上がり、AI分野の有力な国際学会となった。最近6年間で、論文数はディープラーニングに関するものだけでも6倍になっている。機械学習全体では10倍だ。
ディープラーニングの急速な発展により、学術機関、民間企業、国有企業のAI研究に対し、数十億ドルもの研究費が投入された。2010年代に入るとAIはかつてないほど活況を呈し、熱狂的とも言える状態になった。AIがトップニュースになり、AIの可能性は日々広がっている。
21世紀にAIが重要な役割を果たすというのは、もはや浮世離れした一部の学者の途方もない考えなどではなく、確かになった。

AIが世界を飲み込みつつある
AIはすでに本格導入されている。どこを見てもソフトウエアが世界を飲み込み、膨大な量のデータの収集・分析の道が開かれている。現在、そうしたデータはAIシステムの学習に活用され、生活のほぼあらゆる分野において、より効率的で正確なプロダクトの開発に使われている。AIは以前よりもアクセスしやすくなり、利用しやすくなっている。
メタが提供するPyTorch(パイトーチ)やオープンAIのAPIといったツールやインフラは、専門家以外にも最先端の機械学習能力を与えてくれる。5Gとユビキタス接続は、常時接続状態の膨大なユーザベースを生み出している。
もはやAIはデモ段階ではなく、実用段階にある。数年後には人間と普通に話し、論理的に考え、人間と同じ世界で実際に行動するようにさえなるだろう。AIの感覚システムの精度はいずれ人間と同程度のものになる。超知能(スーパーインテリジェンス)とまではいかないが、非常に強力なシステムを生み出す。AIは人間の社会構造と切っても切り離せない存在になるのだ。
私はここ10年、最新のAI技術の実用化に多くの時間を割いてきた。グーグルの10億ドル規模のデータセンターをAI制御で冷却するシステムを開発し、エネルギー利用を40%削減した。音声合成技術WaveNet(ウェーブネット)は100言語以上を自然に読み上げるシステムで、ほぼすべてのグーグル製品に搭載された。スマホのバッテリー寿命を管理する画期的なアルゴリズムのほか、現在のスマホで使われているアプリも数多く開発した。
AIは「新興」段階ではない。日常的に利用される製品、サービス、デバイスに組み込まれている。生活のあらゆる分野で、数多くの応用例が10 年前には考えられなかった技術に依存している。難病の治療薬発見、水道管の漏水検知、交通管制、クリーンエネルギー源となる核融合反応の制御、輸送経路の最適化、持続可能な多目的建材の設計支援といったことに活用されている。自動車、トラック、トラクターの運転にも利用されており、将来的にはより安全で効率的な交通インフラが構築されるかもしれない。送電網や水道では、限られた資源への需要が高まる中で効率的な運用を実現している。
AIシステムは小売業の倉庫を管理し、電子メールの文面や気に入りそうな曲を提案し、詐欺を検知し、小説を書き、珍しい病気を診断し、気候変動の影響をシミュレートする。AIは店舗、学校、病院、オフィス、裁判所、家庭で重要な役割を担っている。あなたはすでに1日に何度もAIとやりとりしている。やがてその回数はさらに増え、どこにいようが、もっと効率的でスピーディで便利でスムーズな体験が実現する。
AIはすでに私たちとともにある。だが、本領が発揮されるのはこれからだ。
ムスタファ・スレイマン、マイケル・バスカー著/上杉隼人訳/日本経済新聞出版/2420円(税込み)
