高度経済成長期の日本を支えた昭和の職業は、自動化やITの普及によってどんなふうに変わっていったのか。“昭和の当たり前”として記憶に残る場面を取り上げる。豊富な写真やイラスト、マンガで激動の100年を振り返り、現在や未来につながる原点を明らかにする日経ムック『昭和100年 令和に活きる日本の強さ』から抜粋・再構成した。
農村部から都市部への集団就職
「今回の取材の企画を見て真っ先に思い浮かんだのが、2005年に公開されて大ヒットした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』でした。東京の下町にある自動車修理工場で働く、青森から集団就職してきた少女が準主役で登場します。舞台は昭和33年(1958)の東京の下町で、そこに暮らす人々の生活や当時の世相がよく分かる映画でした。原作の漫画では、その準主役は青年で、工場で働いています。当時は集団就職でブルーカラーの職に就く人が大勢いました」と、東京大学名誉教授の伊藤元重氏は言う。
農村部から都市部への集団就職そのものは、実は戦前からあった。しかし、広く知られるようになったのは、1950年代半ばから70年代半ば。つまり昭和30年代から40年代にかけての高度経済成長期における集団就職だ。春先になると東京の上野駅をはじめ大都会のターミナル駅では、多くの町工場が自社ののぼりを掲げて就職者を出迎えるのが、毎年恒例の風物詩になっていた。中学校卒の若い労働者を指す「金の卵」という言葉も生まれた。
「農村部の農家の次男、三男坊は家を継げず、就職して自立することが求められました。でも、地方の農村部の就職先は限られ、賃金も安い。一方、都市部の下請け町工場では好景気で仕事が増えて、それこそ猫の手も借りたいくらいでした。その両者がウィン-ウィンの形でマッチングしたのが集団就職だったのです」
しかし、高度経済成長期が終わりを迎えて安定成長期に入ると、町工場の仕事は以前のようには増えず、一方で若者の進学率も高くなっていく。そうしたなかで、次第に集団就職でブルーカラーの職に就く若者の姿が消えていったのだ。鹿児島県内の集団就職を研究した資料を見ると、昭和49年3月24日に最後の中学卒集団就職列車が出ている。
愛煙家と一緒に姿を消した「たばこ屋」
『JT全国たばこ喫煙者率調査』の最終報告となった平成30年(2018)の成人男性の喫煙率は27.8%。しかし、1回目の調査を行った昭和40年(1965)における成人男性の喫煙率はなんと3倍の82.3%だったのである。ほとんどの成人男性が、仕事の合間や酒席での一服を嗜(たしな)んでいたのだ。
「そんな愛煙家の皆さんが自分好みのたばこを購入していたのが、どんな町中にも必ずと言っていいくらいにあった『たばこ屋さん』でした。自宅の一角を店舗にして、お客が来ると小さなガラス窓を開け、代金と引き換えにたばこを渡してくれました」
しかし、国民の健康志向の高まりや、経営者の高齢化が進んだことから、大半の町中でたばこ屋を見かけなくなってしまう。財務省の『たばこ小売販売業経営実態調査(2013年版)』によると、たばこを小売販売する店舗の経営者の77.9%が60歳以上の高齢者で、80歳以上だけ見ても16.9%を占めていた。一方、たばこ従事者数が0人という店舗が全体の41.8%で、有人販売をやめて自動販売機に代替したことが読み取れるのだ。
「もう1つ考えられるのが、たばこ専業店からコンビニエンスストアへの業態転換です。もともと自分の土地で商売をしていて、以前からのお得意さんも持っています。フランチャイズに加盟して姿を変えることで生き残りを図るケースが、実際に数多く見られました」
前出の経営実態調査における営業形態は、コンビニエンスストアが18.3%、専業店が18.6%で拮抗していた。それが『たばこ小売販売業調査(2019年版)』では、前者39.3%、後者5.1%へ激変しており、この間に業態転換が進んだものと思われる。
高級サービスの象徴、エレベーターガール
「昭和の時代、そこにいるのが当たり前だったものの1つが百貨店のエレベーターガールです。高級なサービス提供の象徴的な存在でしたが、今では東京の日本橋高島屋S.C.本館くらいでしかお目にかかれません」と伊藤氏は言う。実際に日本橋高島屋を訪ねると、吹き抜けホール奥にある米国・オーチス社製のレトロで美しい蛇腹の扉を、創建時から変わらずエレベーターガールが手動で開け閉めし、各階の案内もしてくれる。同店での正式な役職名は「顧客案内サービス係」だそうだ。
日本で初めてエレベーターガールが誕生したのが、昭和4年に本館が開店した東京の松坂屋上野店。当時最新のエレベーター10基の運転を任され、「昇降機ガールが日本にもできた」「婦人職業の進出」と新聞が報じている。戦後は他の百貨店や企業ビル、そして昭和33年開業の東京タワーでもエレベーターガールがお目見えした。しかし、1990年以降の平成不況の荒波のなかで、人件費削減でエレベーターは自動化され、その姿を消していく。
「でも高級なサービスの提供が、百貨店からなくなったわけではありません。優良顧客を相手にした外商部門が昔からあって、ある百貨店で高級時計の限定販売会をしたら、1000万円以上する超高級時計が3日間で100本も売れたそうです。高級なサービスの提供は今も健在です」
北千里駅にお目見えした世界初の自動改札機
大半のビジネスパーソンが通勤で利用する電車。乗り降りする駅の改札通路には昭和の時代だと駅員がいて、通勤定期券を確認したり、「改札鋏(ばさみ)」と呼ばれる道具を使って使用済みを示す切れ込みを入れたりしていた。「その改札鋏を『カチカチ』とリズミカルに鳴らしている駅員のことを『駅の切符切り』と呼んでいましたが、彼らが姿を消して久しい。今では、大半の改札通路に自動改札機が設置されています」と伊藤氏は話す。
実は、自動改札機が世界で初めて設置されたのは、京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)の北千里駅で昭和42年(1967)のこと。開発が進んでいた千里ニュータウンの玄関口となる駅で、3年後に開催される予定の大阪万博の会場にも近かった。日本を代表する駅として、自動改札機が先駆けて設置されたのだ。
自動改札機を開発したのはまだ中小部品メーカーだった頃の立石電機(現・オムロン)だったが、昭和36年に偽札発見機の開発に成功して注目されていた。そして、近畿日本鉄道が立ち上げていた自動改札機開発の研究会に参加しながら、実験機の試作に乗り出す。しかし、1分間に60~80人の利用客を連続してさばくためには、切符や定期券を0.6秒で通す必要があるなど難問が山積。途中で近鉄は撤退したものの、立石電機の挑戦は続き、見事に開発成功へこぎ着けたのである。
取材・文/伊藤博之
日本経済新聞出版編/日本経済新聞出版/1980円(税込み)


