まだ「リスク管理」という言葉がなかった時代にも、成功を収める人々は、トラブルや失敗を巧みに回避する策を講じてきました。しかし、リスクを恐れすぎるとかえって……。私たちにリスクと向き合う術を解説する『 リスク、不確実性、人類の不覚 』から一部を抜粋、加筆のうえお届けします。

不確実性のもとで暮らす時代の意思決定

 歴史とは本当に難しいと思います。同時代に作成された文書である「一次資料」や遺跡の新たな発見や研究で、これまで考えられてきた「史実」が覆ることがよくあります。この点では、「将来のことはわからない」という意味で使う「不確実性」が、過去にも適用されます。

 例えば、これまでの関ケ原の戦いというと、そのイメージは、「東西両軍の伯仲した戦いだったのに、日和見(ひよりみ)していた小早川秀秋が家康の(東軍方での参戦を促す)『問い鉄砲』で裏切ることにより決着した」というものでした。

 ところが最近の研究では、「開戦の前には、すでに勝敗の趨勢(すうせい)は決していた」など、そのイメージも大きく変わりつつあり、今後の映画や大河ドラマはどう扱うのだろうと心配になります。

 イメージといえば、2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、三谷幸喜さんによる脚本の妙味から、源頼朝や義経、北条時政や義時らのイメージが変わったり、新たに作られたりして、ネット上でも話題になっています。

 「史実と違うのでは」といったコメントも見かけますが、そこはドラマですから面白ければいいのでは、と私などは思ってしまいます。ここが歴史物の難しいところです。

 「鎌倉殿の13人」を観て改めて思うのは、昔の人は、将来のことが一切わからない不確実性のもとで暮らし、その不安はいかばかりであったろうかということです。おそらく当時は、同時代のこともすぐにはわからない、また、あとになっても正確にはわからないような状況だったでしょう。

「不確実性」のもとで生き、武家政権を確立した源頼朝(鎌倉市・源氏山公園の銅像)(写真/shutterstock)
「不確実性」のもとで生き、武家政権を確立した源頼朝(鎌倉市・源氏山公園の銅像)(写真/shutterstock)
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 そうした中で、例えば頼朝が、平家打倒の旗揚げ(1180年)や木曽義仲の追討といった重要な意思決定をするには、神仏のご加護を願いつつ、周囲のアドバイスを参考にしながら、あとは「直感」に任せるしかありません。

 頼朝が願文を捧(ささ)げたり寄進したりした寺社は、関東地方(当時は坂東)を中心に数多くあります。鎌倉の鶴岡八幡宮はあまりにも有名です。また、北条氏や三浦氏などの有力武将に加え、鎌倉を本拠地にして以降、大江広元や三善康信など京都から下ってきた文官たちにも支えられます。

リスクに敏感で、周囲を次々に粛清

 その上で、ドラマでも描かれますが、頼朝が「直感」に任せて最終的な判断をしたのだろう、ということは容易に想像できます。当然、一般的に直感には、本人の性格、過去の経験や学習、周囲の状況、心理的なバイアスなど様々な要因が働きます。その結果としての頼朝の直感には、今日で言う「リスク管理」がよく働いているのが特徴です。

 たしかに平家に対する旗揚げは、イチかバチかの賭けのようなものです。しかし、以仁王(後白河法皇の皇子)と源頼政による平家打倒を目指した挙兵のあと、全国の源氏に対し平家の手が伸びてくることは必至の状況で、旗揚げする以外、ほかに選択肢はなかったようです。

 また、石橋山の戦いで惨敗した際は、当時は平家方で、のちに頼朝に従う梶原景時による「見て見ぬふり」などもあり、生き残って安房(房総半島先端部)に脱出できたことなど、幸運に助けられたのも事実です。だからこそ神社・仏閣を大事にしたと思われます。

 こういう命の危険に直面した経験があったからでしょう。富士川の戦いで平家軍に大勝利したあと、西進せずに足場である坂東を固めることに注力し、先に上京した木曽義仲が畿内西国の飢饉(ききん)や朝廷との軋轢(あつれき)で疲弊していく様子を見ながら、「後手」で必勝パターンをつかむなどしました。

 平家滅亡(1185年)に続いて、弟の義経を討ち、また義経をかくまったことを理由に奥州藤原氏も倒し(1189年)、全国の武家の棟梁(とうりょう)となります(征夷大将軍任官は1192年)。この間、平清盛の愚を繰り返さないよう、朝廷とはなるべく穏便に、しかし守護・地頭など、武家政権の「実」はしっかり獲得していきます。

 しかし、その過程で頼朝は、上総介広常はじめ有力御家人を粛清し、弟の範頼を流罪に処する(のちに死亡。殺害説も)など、身内を含め将来にわたる禍根を絶つ姿勢を鮮明にします。

 結果として、1199年52歳で亡くなったあと(死因は不明)、あまりに周囲を粛清しすぎたためか、源氏を積極的に支えようという機運は盛り上がらず、頼朝直系の将軍は、頼家、実朝と三代で滅びてしまいます。リスク管理が行き過ぎたと言うべきでしょうか。

源頼朝がこの地に移し信仰した鶴岡八幡宮。三代将軍実朝はここで公暁に暗殺された(写真/shutterstock)
源頼朝がこの地に移し信仰した鶴岡八幡宮。三代将軍実朝はここで公暁に暗殺された(写真/shutterstock)
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 この点、日本史上最も「リスク管理」に長(た)けていた武将は、徳川家康だと思われます。何といっても15代、260年余続く江戸幕府を築きましたから。

「まさか」が日常的に起こる時代、リスクとの向き合い方を解説

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植村修一著/日本経済新聞出版/定価1980円(税込み)