健康維持や老後に向けた資産形成などのための仕組みを設計し、望ましい選択をそっと人々に促す「ナッジ」。2017年にノーベル経済学賞を受賞した米シカゴ大学経営大学院の行動経済学者、リチャード・セイラー教授らが生み出した考え方だ。この概念を世に広めた共著『実践 行動経済学』(09年、日経BP)を大幅に改訂した 『NUDGE 実践 行動経済学 完全版』 (日経BP)がこのほど発売された。インタビューに応じた同教授は「人間は非合理的で、しばしば選択を誤るものだという考え方が経済学界で認められるまで40年かかった」と回顧。ナッジは善意に基づくべきだとの原則を強調した。(聞き手は広野彩子=日経ビジネス副編集長)

「ナッジ」が最初に世に出たのは2008年。以来、行動経済学に基づくこの概念が注目され、今や世界中の国や組織で活用されています。

リチャード・セイラー米シカゴ大学経営大学院教授(以下セイラー氏):共著『実践 行動経済学』が世界各地でベストセラーになったことでナッジという言葉が広まりました。共著者であるキャス・サンスティーン氏(米ハーバード大学法科大学院教授)と私にとって、認知が広がるのは大変ありがたいことです。

 私たちの基本的なアプローチは、人々がやりたいと思うことを、より簡単にできるよう仕組みを設計することです。ナッジは、人々が自分たちの暮らしを良くする選択に導くよう、民間の組織や政府が取り組むべきことです。

リチャード・セイラー(Richard Thaler)
リチャード・セイラー(Richard Thaler)
米シカゴ大学経営大学院教授
1945年米ニュージャージー州生まれ。74年米ロチェスター大学で経済学の博士号取得(Ph.D.)。米コーネル大学、米マサチューセッツ工科大学(MIT)経営大学院などを経て95年から現職。行動経済学の研究で2017年にノーベル経済学賞を受賞した。著書に『行動経済学の逆襲』(遠藤真美訳、早川書房)、『セイラー教授の行動経済学入門』(篠原勝訳、ダイヤモンド社)、『NUDGE 実践 行動経済学 完全版』(キャス・サンスティーン共著、遠藤真美訳、日経BP)などがある(写真:陶山勉、以下同)

「王様は裸だ」と叫び続けた

かつて経済学では「人間は合理的で、自分の利益が最大にできるような選択や行動ができる」ことが前提とされていました。セイラー教授はそれに「ノー」を突きつける形になりました。人間は不合理で、しばしば最適な選択をしないことがあるという考え方は学界ではなかなか認められなかったそうですね。

セイラー氏:アンデルセン童話では、1人の少年だけが「王様は裸だ」と真実を語りました。他のみんなは何も言わず、何も着ていない王様の服を称賛した。とても危険です。歴史上、人々が群集心理に従うことで、非常に悪い結果を招いたことはたくさんあります。時には小さな子供が「ノー」と言い続けなければならない状況があるのです。

 私は経済学界でまさに童話の少年のような存在でした。伝統的な経済学者が言うには、人間は非常に合理的で感情的でなく、とても頭が良い間違えない存在でした。それに対して、私は「いや、人間は(不合理で感情的でよく間違える)ただの人間だ」と指摘したのです。詩人のあいだみつをさんが言った「にんげんだもの」なのです。

 約40年前、私がそうした論文を書き始めたとき、経済学者たちは私のことを頭がおかしくなったと思ったようで、実に不評でした。自分は童話の少年のようだとよく思ったものです。もしかしたら自分のほうに問題があるのかと考えたりもしました。

 ほかの全員が王様の服を褒めていたら、ひょっとして私だけ何か問題があるのだろうかと考えてしまうでしょう? そうでなければ、自分以外の全員に何か問題があるのか、と。認められるまでにとても長い時間がかりました。

 40年の間に経済学は様変わりしました。行動経済学の分野で仕事をしている若い経済学者がたくさんいます。真実を叫ぶ小さな少年が増えたのです。とはいえ、ナッジは行動経済学がカバーする考え方のほんの一部です。現在世界中、何百もの国や都市で(ナッジの社会実装に取り組む)いわゆる「ナッジユニット」が活動しています。あまりに多すぎて、それぞれが何をしているのか私にはもはや把握しきれません。

世界で最初のナッジユニットは10年に英国で設立された「行動インサイトチーム(BIT)」です。自動車税の支払い手続きを済ませた後に臓器ドナー(提供者)への参加登録を促すという取り組みでした。

セイラー氏:数週間前、ロンドンに出張し、ちょうど英国のナッジユニットを訪問したところですが、その後も大変うまくいっているようです。

 ナッジには「選択アーキテクチャー」、つまりナッジするためのツールをつくる設計者が必要です。国にはそれぞれ固有の法律があり、立法府、行政府や裁判所の意思決定で、誰が何をすべきかについて経済学者の意見を聞く人はまずいません。

ナッジは善意に基づくべきだ

 事前に危険があることを知らせておき、あとは好きにさせればよしとするのがナッジです。それは善意に基づいているべきです。もちろん、ナッジですべての問題を解決できるわけではありません。時には厳しい制限を課さなければいけない政策課題もありますから。

 私たちは新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)を経験しましたが、日本は米国よりはるかに厳しいルールに従っていました。どの国も(対処の仕方が)違っていたのです。政府は自国でどのような政策が最善か決定するために存在しています。どの政策がベストかはいまだに分かっていません。

 (行動の自由と感染抑制には)トレードオフの関係があります。アジアの多くの地域では、人々の自由はより少ない代わり、病気にかかる人も亡くなる人も少なかったと思われます。しかし、適切なトレードオフが何かについては経済学者が決めることではありません。大統領や首相はそれを決めるために選ばれるのです。

 ともかく私たちにできることは、政府がどのような政策を採用しても使えるツールをつくり、手助けをすることだけです。

事前に危険があることを知らせておき、あとは好きにさせればよしとするのがナッジです。それは善意に基づいているべきです
事前に危険があることを知らせておき、あとは好きにさせればよしとするのがナッジです。それは善意に基づいているべきです

企業もナッジをビジネスに活用できないか興味を持っているでしょう。これはセイラー教授から見て良いことでしょうか。

セイラー氏:今回、インタビューの時間を思い出すためのリマインダーを自分宛に送りましたが、これはセルフナッジです。アシスタントもリマインダーを私に送信してくれました。ナッジが、まずはそうした自己管理ツールとして使われるのが、私たちの望みです。

 朝、時間通りに起きられるように目覚まし時計をセットする、クレジットカードの支払いを忘れないように、銀行口座からの自動引き落としを活用する――。このように、私たちは多くを記憶する必要がない世界を望んでいるのです。

 ナッジをビジネスに応用しようとする動きは非常に活発です。私の知る限り米アマゾン・ドット・コムは約400人の経済学者を抱えていて、利用者がウェブサイトにアクセスするたび、彼らがその行動データを使って実験しているのです。稼ぐためであり、かつ、より良いサービスを提供するためでもあります。

 そしてそのこと自体に問題はありません。それによって良いサービスを提供できているからこそ、多くの消費者から支持されているわけです。

 しかし私たちは、人の行動を変えるためのあらゆる努力を「ナッジ」と呼びたくはありません。もしあるお店が、歯磨き粉や電化製品をもっとたくさん買ってもらう最適な方法を見つけるための実験をしたとしたら……それは「善意のナッジ」ではなく、「稼ぐためだけのナッジ」です。しかも消費者の利益になるとは限りません。

 良いことではない目的にもナッジは使えてしまいます。だから、私はいつも本にサインを求められると、「Nudge for good(善意のナッジを)」とサインすることにしているのです。

ブレグジットは悪い見本

 たとえ本人は善意からであっても、それが良いナッジであるとは限りません。例えば、英国がEU(欧州連合)から離脱したブレクジットという出来事がありました。個人的には、あれは非常に悪い政治判断だったと思います。ブレクジットのキャンペーンを展開した人たちは、行動経済学に基づいたある言葉を思いつき、使ったのです。「Take Back Control(主導権を取り戻せ)」です。

 人は基本的に負けず嫌いで、失うことを嫌います。「取り戻す」という言葉を使うと、何かを失ったという意味になります。また人はコントロールすることが好きですから、「Take Back Control」という3つの単語で伝えると、我々は(EUのせいで)何かをコントロールする力を失ったので、政策変更でそれを取り戻そうという理解になる。

 ブレクジットのキャンペーンは実に非論理的だったと思います。ブレクジット以後、英国が以前より自己管理できるようになったわけではありません。むしろEU加盟国のパスポートではなくなったため、(英国と欧州大陸を隔てる)海峡を渡った先で長い行列に並ばなければならなくなりました。悪気がなくても、このようなことは起こってしまうのです。

 Take Back Controlというキャッチフレーズをつくった人は、行動経済学の考え方をよく知っていたし、本人は正しい政策だと考えて使ったのだと思います。ただ、いずれにせよ、その人はそのフレーズを必ずしも人々にとって有益とはいえない目的のため使ったことは間違いありません。

たとえ本人は善意からであっても、良いナッジとは限りません。英国がEU(欧州連合)から離脱した「ブレクジット」は非常に悪い政治判断だったと思います
たとえ本人は善意からであっても、良いナッジとは限りません。英国がEU(欧州連合)から離脱した「ブレクジット」は非常に悪い政治判断だったと思います

二酸化炭素(CO2)の排出削減など地球環境の保護には、人々の行動変容を促す必要があります。ナッジを使うべきでしょうか。

セイラー氏:気候変動問題をナッジだけで解決することはできません。問題が大きすぎるからです。気候変動対策で一番大事なのは、(炭素税の)額をきちんと設定することです。世界中のすべての経済学者が、ある種のカーボンプライシングをすべきだという意見でおおむね一致しています。問題は、そう考えているのが経済学者だけだということです。炭素税は政策として極めて不人気なのです。

 米国では最近、国民に電気自動車(EV)や太陽光発電などを奨励する法案がバイデン政権下で可決されました。しかし補助金の話はあっても、税金については一切言及がありません。燃料をたくさん使う車には税金をかけられるし、燃料を使わない車には補助金を出せる。しかし、片方(補助金)のほうがより政治的に実現可能性が高いからです。

 炭素税の金額が適正である必要があります。大きな変化は、産業全体で起こさなければなりません。消費者の行動変容も確かに重要ですが、今やどう発電し、どう物を動かしていくかが肝です。製品や食料をどう輸送するのか。企業は料金に反応します。クリーンな方法より汚染する方法のほうがコストがかかるなら、企業も重い腰を上げるでしょう。

 とはいえ、ナッジ的な政策を展開する余地はあります。例えば、ピーク時に電気料金が高くなる設定にする。米カリフォルニア州で猛暑が続き、電力会社が十分に供給できるかどうか心配になったとき、地域の全員に「緊急事態です。サーモスタットの温度設定を上げ、エアコンの使用を控えましょう」というテキストメッセージを送ったところ、うまくいきました。

 あえて人々に注意喚起して「みんなが同じ不安定な状況にありますよ」と伝えたわけですね。電気が止まるのは誰だって嫌です。皆が数時間程度なら少し不愉快な思いをしてもいい、と言えたら一晩中停電することはなくなるわけです。停電よりましです。

「スラッジ」をなくそう

改訂版の書籍には、ナッジを良くない目的に使う「スラッジ」という言葉を新たに盛り込んでいます。もともとは「汚泥」などを意味する言葉です。例えば公的な事務手続きは、いつも時間がかかり煩雑になりがちです。このことが手続きさせないスラッジとして機能しているようにも見えます。

セイラー氏:スラッジと呼ばれるものの多くは、実は単にデザインが悪いだけなのです。いろいろな事情で必要以上に複雑になっている部分もあるでしょう。

 子供に靴ひもの結び方を教えようとしたら、何をするのかゼロから思い出さなければならないのと同じことです。覚えてしまえばあとは、何も考えなくてもできるようになります。しかし最初に子供に説明するためには、ある意味もう一度手順を思い出さなければならない。

 ソフトウエアやユーザーインターフェースをデザインする人たちもこれと同じです。彼らはスマートフォンの画面をなぞると何が起こるかを知っています。しかしこれを誰もが知っていると考えてしまう。

 新しいスマホを手に入れたら、常に新しいことを覚えなければなりませんが、その移行を最も容易にできた企業が成功しています。米アップルの製品は使いやすいので、ビジネスもうまくいっていますね。

 制度設計を担当する人たちは、人が何かしようとしている姿をしっかり観察すべきです。ソフトウエアをつくる人は、使う人が最初から使い方を分かるのが当然だと思いがちです。しかし、ユーザーの立場に立ってみれば、決してそうではないのです。

ナッジはもうアップデートしない

日本の「ナッジ」ファンにメッセージをお願いします。

セイラー氏:『NUDGE 実践 行動経済学 完全版』を書くことになったのは、新型コロナのせいです。原書の出版社から20年の3月か2月ごろだったでしょうか、新しい紹介文を書けないかと打診されたのがきっかけです。

 その後、数カ月間、家の中で何もしない時期がかなりあり、調子に乗ってしまったのです。まるで住宅リフォームのわなです。少しだけ直すつもりだったのが、あれもこれもと直したくなるという(笑)。

 だからナッジに関しては、今回の本で最終版だと思えました。もう私は「王様は裸だ」と孤独に叫ばなければいけない子供ではなくなった。だから、後世に残るような本になるような書き方をするんだと決めました。ナッジについての考察は、今回で終わりです。

ナッジに次ぐ新しい言葉を生み出したいといった構想はありますか?

セイラー氏:可能性は否定しません。お約束はできませんが……。

 オリジナルの『実践 行動経済学』を知っている方が今回の改訂版を読むと、意外と新ネタが多いことに気付くでしょう。新しいトピックを本当にたくさん盛り込みました。 日本はもちろん世界中の読者を強く意識して改訂作業をしました。

 オリジナル版を書いたときは、これほど世界中でヒットするとは思っておらず、米国の事例中心の内容でした。改訂版では世界中で読まれる本になるよう努力しました。

日経ビジネス電子版 2022年12月1日付の記事を転載]

「よりよい選択」を後押しする「使える」経済学

サブスクリプション(定額課金)サービスを解約し忘れた、高い保険料を払い続けている…あなたのその選択、本当に最適ですか? 選択をまちがうと生じる“損”はナッジの活用で防げます。
ナッジの第一人者でノーベル経済学賞を受賞したセイラー教授の代表作『実践 行動経済学』が、「最新の話題」を盛り込み、より「役に立つ」かたちになってリニューアル!
「行動経済学」最高の入門書で人生にナッジを取り入れよう。

リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン(著)、遠藤真美(訳)/日経BP/2530円(税込み)