私たちの生活の中には選択する機会があふれています。携帯電話の契約や保険、住宅ローンなど悩ましい個人の選択だけでなく、なかには地球温暖化や臓器提供者(ドナー)不足など大きな問題につながるような政府や自治体の選択もあります。果たしてその「選択」は本当に最適なのでしょうか? 行動経済学の研究でノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラー氏と米ハーバード大学ロースクール教授のキャス・サンスティーン氏による著書 『NUDGE 実践 行動経済学 完全版』 から一部を抜粋し、よりよい選択を「する」そして、よりよい選択を「させる」ための「ナッジ」の考え方を紹介します。3回目は、「自分をナッジするためのメンタルアカウンティング(心の会計)」について。
ついお金を使いすぎてしまう人に効果的なナッジとは?
前回お話した目覚まし時計や友人と賭けをするナッジは、人がセルフコントロール問題を解決するために使う外部装置である。この問題に対処するもう一つのアプローチは、内的統制システム、いわゆる「メンタルアカウンティング(心の会計)」をとりいれることだ。
メンタルアカウンティングとは、人びとが家計の予算を立て、それを管理して、うまく処理するために使うシステムである(暗黙のうちに使われているときもある)。私たちのほとんど全員が知らず知らずのうちに、心のなかでこの枠組みを使っている。
メンタルアカウンティングの概念を鮮やかに説明する例がある。オンラインで公開されている ジーン・ハックマンとダスティン・ホフマンのやりとり がそれだ。
2人は貧しい下積み時代からの友人で、ハックマンはその昔、ホフマンのアパートを訪ねていたときに「金を貸してくれないか」と頼まれたという。ハックマンはお金を貸すことにしたのだが、その後で2人が台所に入っていくと、調理台にはガラスの瓶(びん)がいくつか並んでいて、ある瓶には「家賃」、別の瓶には「娯楽」といった具合にラベルが貼られて、なかにはお金が入っている瓶もあった。ガラス瓶にこれだけたくさんお金があるのに、「なぜお金を借りる必要があるのか」とハックマンは聞いた。するとホフマンは空っぽの「食費」瓶を指さしたのだった。
経済学の理論によれば、お金は代替可能である。実際、お金にラベルは貼られていないし、家賃の瓶の20ドルで、食費の瓶の20ドルとまったく同じ量の食品を買える。
しかし、家計は代替可能性に反するメンタルアカウンティングの仕組みをとりいれている。この理由は組織と同じで支出をコントロールするためだ。ほとんどの組織はさまざまな活動ごとに予算を組んでいる。組織で働いたことのある人なら、該当する勘定科目がすでに底を突いているせいで、フラストレーションがたまった経験があるはずだ。別の勘定にはお金が残っていても、まるでダスティン・ホフマンの台所にある家賃の瓶に入っているお金のように扱われる。つまり、家計レベルでは、代替可能性はあちこちで破られている。
どんなにケチな人でもあぶく銭は使ってしまう
このメンタルアカウンティングの非常に独創的な例の一つに、われわれの知人であるファイナンスの教授が編み出したものがある。この教授は毎年初めにユナイテッドウェイという地元の慈善団体にある金額を寄付しようと決める。その後、スピード違反のキップを切られるといったなにか悪いことがあった場合には、心のなかでユナイテッドウェイへの寄付から罰金を差し引く。これが金銭面でちょっとした不幸に見舞われる場合に備えた、一種の「心のなかの保険」となる。
メンタルアカウンティングの実例はカジノにもあり、その行動を言い表すギャンブル用語まである。夕方早い時間にギャンブルで運よく一発当てた人を観察してみよう。この人はきっと、儲けたお金はあるポケットに入れて、その夜の軍資金としてもってきていたお金(これもまたメンタルアカウンティングである)は別のポケットに分けて入れる。ギャンブル用語でカジノは「ハウス」といわれるため、この儲けたばかりのお金は「ハウスマネー」と呼ばれる。
勝ったばかりのお金を賭けることは「ハウスのお金でギャンブルする」といい、どういうわけか、それ以外の種類のお金とはまるで別のものであるかのように扱われる。人はハウスマネーとみなすお金だとより積極的に賭けることが実験で確認されている。
これと同じ心理は、ギャンブルとは無縁の人にも影響を与える。人は投資で儲かると(たとえば株式市場で)、その「賞金」で一発当てようとする。
一つの例として、メンタルアカウンティングは1990年代の株価の高騰に一役買っている。たくさんの人が「自分はここ数年間に手に入れた利益だけを使っているのだから」と言い聞かせて、どんどんリスクをとりにいった。その数年後には、不動産投機でも同じことが起きた。同じように、人はずっと貯めてきたお金を使うときより、思いがけない収入があったときのほうが、贅沢な高額の買い物をして散財することがずっと多い。それは貯金を全部使ってよいときでさえそうなのだ。
メンタルアカウンティングが重要な意味をもつのは、家計と同様にそれぞれの勘定には代替可能性がないものとされているからである。
「貯金が楽しくなる」ある工夫
ダスティン・ホフマン(そしてその親の世代)が使った空き瓶は、現代経済ではほとんど姿を消している(ただし、一部の貧しい国ではまだ残っている)。
しかし、多くの世帯はいまも勘定をさまざまな用途に分けている。子どもの教育資金、バケーション費用、もしものときのお金、老後の資金といった具合だ。心のなかで仕分けするのではなく、文字どおり口座を分けているケースが多い。どの勘定も神聖なものなので、借り入れと貸し付けを同時にするなど、一見すると奇妙な行動をとってしまうこともある。
もちろん、お金を貯められなくて困っている人ばかりではない。お金をうまく使えない人だっているのだ! それも度を越せば「守銭奴(しゅせんど)」と呼ばれるようになるが、ふつうの人でさえ、「自分は人生を十分に楽しんでいないのではないか」と感じることがある。
われわれの友人であるデニスは、巧(たく)みなメンタルアカウンティング戦略を使って、この問題に対処した。デニスはある時点で社会保障給付を受け始めたが、本人も妻も、まだフルタイムで働いていた。デニスは長年にわたってかなりのお金を貯めていて(雇用主が強制加入の十分な退職金積み立てプランを提供していることが一因である)、「健康なうちにいま楽しんでいること(とくにパリへのグルメ旅行)を、お金を気にせずにできるようにしたい」と考えた。
そこで、社会保障給付を貯めるための特別な貯蓄用口座をつくり、そこに社会保障小切手をそのまま入金した。そしてこの口座に入っているお金を「お楽しみ勘定」として仕訳した。最近ではその勘定から電動アシスト自転車を買ったそうだ。
メンタルアカウンティングの効果を得るには
このようにメンタルアカウンティングを使うと、人生はもっと楽しくなり、もっと安定させることが可能である。また、私たち1人ひとりがメンタルアカウンティングをとりいれれば、より大きな効果が期待できる。神聖不可侵に近い「もしものときのお金」勘定と「教養娯楽費」勘定の両方をつくっておくと、多くの人が恩恵を受けるのではないか。
そして、このメンタルアカウンティングを理解することは、公共政策を向上させることにもつながるだろう。政府がメンタルアカウンティングの概念を理解すれば、それを政策にも活用できる。
(訳:遠藤真美)
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リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン(著)、遠藤真美(訳)/日経BP/2530円(税込み)