人間の行動と判断を形成する倫理的な考察に、より大きな関心を払えば経済学はさらに豊かな実りを生むとし、主流派経済学の限界を指摘してきたノーベル経済学賞受賞者、アマルティア・セン。インド史上最悪といわれるベンガル大飢饉(ききん)を目の当たりにし、なすすべもなかったのが原点だ。「経済学の書棚」第4回前編は、経済学による社会全体の幸福追求を突き詰める知的探求の軌跡『アマルティア・セン回顧録 上・下』『アマルティア・セン講義 経済学と倫理学』を紹介する。
学者や思想家の輪の中で育つ
1998年、アマルティア・セン(1933~)がノーベル経済学賞を受賞すると、経済学界からは驚きの声が上がった。潜在能力(ケイパビリティ)、権原(エンタイトルメント)といった概念を自説の中心に据え、主流派経済学の分析手法の限界を鋭く指摘してきたセンの姿勢をノーベル賞の選考委員会が公式に容認したと解釈できるからだ。セン自身はどう考えているのだろうか。
センは『 アマルティア・セン回顧録 上・下 』(東郷えりか訳/勁草書房/2022年12月刊)で、ノーベル文学賞を受賞した詩人・思想家のラビンドラナート・タゴールが設立したシャンティニケトン・スクール、コルカタ・プレジデンシー・カレッジ(現コルカタ大学)、英ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジでの学生生活や、講師として教鞭(きょうべん)をとり始めた時期を中心に、どんな学者や思想家の影響を受けながら自らの思想を育んだのかを述懐している。
センはインドの名門一族の出身で、生活水準が極めて高かったわけではないが、生活には困らず、名だたる学者や思想家に囲まれて育った。センの父、アシュトシュ・センはダッカ大学(ダッカは当時インドの都市、現在はバングラデシュの首都)で化学を教え、1936~39年にはビルマ(現ミャンマー)のマンダレー農業大学の客員教授を務めた。母方の祖父、キティモホン・センはサンスクリットとインド哲学の学者でタゴールの友人だった。タゴールはセンの母に、「ありきたりの名前を踏襲するのはつまらないので、新しい名前をつけてはどうか」と提案し、アマルティア(サンスクリット語で不死身を意味する)に決まった。
1941年から10年間学んだシャンティニケトン・スクールは戸外での授業が特徴の進歩的な共学校で、アジアやアフリカの様々な地域の文化など広範な内容をカリキュラムに組み込んでいた。当時のインドの学校教育全般に見られた文化的な保守主義とは対照的に多様性をたたえていた。理性と自由に対する信念がタゴールの教育に関する考え方の根底にあり、すべての人への徹底的な教育が一国の発展のために最も重要な要素だと主張した。「その後の歳月において私の思考にタゴールがどれほど根底から影響をおよぼすかについては思いもよらなかった」
よみがえるベンガル大飢饉の記憶
1943年春、校内に精神錯乱状態らしい男が入り込んできた。飢えが長引き、精神に影響が及んだらしい。まもなく、飢餓から逃れようとしてコルカタへ向かう人々の流れは悲惨な激流と化した。コルカタでは生活困窮者を支援するための準備がなされているという噂があったからだ。噂は誇張されたものだったが、同年9月までに10万人ほどの困窮者が大都市へ向かう長旅の途中でシャンティニケトンを通過したとセンらは推測した。
「助けを求めて、子供からも大人の男女からも聞こえつづけた泣き叫ぶ声が、77年を経た今日でも私の耳にこだまする」。200万~300万人が犠牲になった「ベンガル大飢饉」に接したセンは飢饉の再発を防ぐ努力をしようと決意したが、先生の一人にそれを伝えると、野心を褒めてくれたものの、飢饉の撲滅はほぼ不可能だと言った。その30年後、経済学者として飢饉を部分的にでも防ぐ上で役立つ解決策を見いだそうと分析を始めたとき、そのときの落胆させられた会話を思い出したという。
1945年、マハートマー・ガーンディーが来校したとき、センはサイン帳を持って会いに行った。飾り気のないサインをした後、ガーンディーは「自分の周囲で見たことにたいして批判的になったことがこれまであるか」と尋ね、センは「ある」と答えた。
人生を変えたアローの社会的選択理論
1951年、経済学と数学を一緒に学ぶためにプレジデンシー・カレッジに入学した。貧しく不衡平なインド、自分の周囲にある不正義がまかり通る国とはまるで異なる、新しいインドのために尽くしたい。インドを立て直す作業では、経済学の知識は不可欠だと考えた。
入学して間もない頃、米経済学者、ケネス・アローが社会的選択理論の先駆的な研究を発表した。「その後の人生の大半を通じて私の研究の方向を変えることになった」。アローは「不可能性定理」で、独裁制以外の社会的選択メカニズムからは一貫性のある社会的決定は生まれないと証明した。人々の間に、民主的な一貫性などあり得ないのだとの見方が広がったが、センはまったく納得せず、「否定の否定」の必要性があると自分を説得した。
10代の頃からカール・マルクスの思想には多大な関心を持っていたが、プレジデンシー・カレッジの授業ではあまり論じられていなかった。マルクスの思想から着想を得たと主張する共産党政権の権威主義的な実践を根拠にマルクスを非難するのは公平ではない。彼は選択の自由の重要性を非常によく理解していた。アイデアと物質的状況の双方向の関係を強調したマルクスを唯物論者と見なすのは誤解だと擁護するが、マルクス主義者になるまで心をそそられてはいなかったと綴(つづ)っている。センにとって思想の源泉は他にもあまりに多数あり、そのすべてがマルクス主義の信条とは一致しなかったためだ。
学派間の争いにはうんざり
1953年から在籍したトリニティ・カレッジでは、モーリス・ドッブ、ピエロ・スラッファ、デニス・ロバートソンらの知遇を得る。ジョーン・ロビンソン(連載第1回「 ジョーン・ロビンソン 最強の女性経済学者は何に挑んだのか 」参照)の指導も受けるが、主流派経済学を敵視する姿勢には共感できず、学術面での絆は生まれなかった、と振り返っている。
センは経済学を、異なった手法を受け入れる余地のある統合された学問だと考えるようになっていた。状況次第で異なった重要性があり、独特の分析ツールを生産的に利用し、多様な疑問を公平に評価できる。若い頃から経済学の様々な手法にかかわり、アダム・スミス、カール・マルクス、ジョン・スチュアート・ミル、ジョン・メイナード・ケインズ、ジョン・ヒックス、ポール・サミュエルソン、ケネス・アローらの理論を研究してきた。「古いケンブリッジで明確に線引きされた学派のあいだで、周到に準備された非難の応酬を聞かされることにはうんざりしていた」
センは、1986年の米カリフォルニア大学バークレー校における講義録を基にした著書『 アマルティア・セン講義 経済学と倫理学 』(アマルティア・セン著/徳永澄憲、松本保美、青山治城訳/ちくま学芸文庫/2016年12月刊)でこうした考え方を明確に示している。
同書によると、経済学には倫理学と工学の2つの起源がある。倫理学と結び付いた伝統はアリストテレスにまでさかのぼる。このアプローチには、「人はいかに生きるべきか」という広義の問いにかかわる人間行動の動機の問題、社会的成果の判断の問題という、経済学の基礎となる2つの核心的な問題が存在する。
一方、実証的な問題を主眼にする工学的アプローチはいくつかの異なる流れに端を発している。センは2つの起源はそれぞれ一定の説得力を持っていると評価した上で、過去の経済学者たちはいずれか一方に比重を置く傾向はあるにせよ、両者のバランスを取っていたと指摘する。ところが、近代経済学が発展するとともに倫理的アプローチの重要性は大幅に低下した。人間の行動と判断を形成する倫理的な考察により大きな関心を払えば、経済学はさらに大きな実りを生むことができると強調している。工学的アプローチに傾倒しがちな主流派経済学を全否定するのではなく、倫理的アプローチとの融合が必要だと訴えているのである。
写真/スタジオキャスパー