人間の潜在能力を自説の中心に据えたノーベル経済学賞受賞者、アマルティア・セン。多くの研究者に刺激を与え、新たな研究の源になっている。第4回後編は、センが一般読者向けに執筆した『不平等の再検討』と、人間の行動動機には人間性に基礎を置いた動機があり、その側面が人間を非営利部門に関わらせているとみる『ヒューマノミクス 人間性経済学の探究』、センの理論を応用したウェルビーイングモデルを提唱する『ウェルビーイングな社会をつくる』を紹介する。
前編「
ノーベル経済学賞、アマルティア・センの思想を育んだもの
」
潜在能力アプローチとは何か
アマルティア・センは経済学の多様な研究に感銘を受けつつ、社会の構成員がどれだけ健全な暮らしを送れているかを直接評価し、社会全体の厚生を総合的に捉える厚生経済学と、社会的選択理論への関心を持ち続けた。経済学界では、厚生経済学や社会的選択理論は発展する可能性が乏しい分野とみられていたが、センは粘り強く研究を続ける。
前回紹介した『 アマルティア・セン回顧録 上・下 』(東郷えりか訳/勁草書房/2022年12月刊)の記述は主に1960年代までで終わっている。センは、飢餓が発生する原因を解明した研究(1981年)や、伝統的な厚生経済学や社会的選択理論に代わる「潜在能力アプローチ」(1985年)などその後の研究の軌跡と概要を、一般読者向けに執筆した『 不平等の再検討 潜在能力と自由 』(アマルティア・セン著/池本幸生、野上裕生、佐藤仁訳/岩波現代文庫/2018年10月刊)で詳しく解説している。
同書によると、潜在能力は様々なタイプの生活を送るという個人の自由を反映した機能の集合として表せる。機能は「適切な栄養を得ているか」、「健康状態にあるか」、「避けられる病気にかかっていないか」、「早死にしていないか」といった基本的なものから、「幸福であるか」、「自尊心を持っているか」、「社会生活に参加しているか」など多岐にわたる。福祉(生活の質・良さ)や、福祉を追求する自由を潜在能力の視点から評価する手法が潜在能力アプローチだ。潜在能力アプローチは平均余命、教育、所得の3つの指標からなる国際連合開発計画(UNDP)の人間開発指数(HDI)として結実し、世界全体に広がっている。
学界にも大きな影響を与えている。先人たちの思想や研究を吸収しながら独自の思想や理論を生み出してきたセンは自らも多くの研究者に刺激を与え、新たな研究の源になっている。岡部光明・慶応義塾大学名誉教授は『 ヒューマノミクス 人間性経済学の探究 』(日本評論社/2022年5月刊)でセンに言及している。同書は、岡部氏の前著『 人間性と経済学 社会科学の新しいパラダイムをめざして 』(日本評論社/2017年2月刊)で提示した見解を深め、発展させた書である。
岡部氏は単純な人間像(唯物主義、利己主義、個人主義)を前提とする主流派経済学に異議を唱え、心理学や文化人類学など多くの関連分野では人間は社会性(利他性、つながり感覚、倫理観など)を持つ存在だと理解されていると指摘する。現代経済学はそうした人間像を取り込む必要があるが、社会性を持つ存在という人間観は、実は経済学の創始者、アダム・スミスの人間観であると強調する。
同書によると、アダム・スミスは人間とはどのような存在であるかにつき、2つの重要な認識を持っていた。1つ目は、人間は利己心だけではなく、より幅広い要素(利他性やつながりといった人間性)を併せ持つ存在だという認識であり、2つ目は、人間は誰でも日常生活にいまだあらわれていない潜在能力を持つ存在だという認識である。
市場、政府、コミュニティの3部門モデル
岡部氏は1つ目の認識に着目し、従来の市場、政府からなる2部門モデルに代わり、市場、政府、コミュニティ(共同体)からなる新たな3部門モデルの導入を提唱する。コミュニティの典型例は非営利団体や非政府組織だ。コミュニティには多様な行動規範が存在し、信頼や評判を重視する。人間の行動動機には利己主義、合理主義だけでなく、人間性に基礎を置いた動機があり、その側面が人間を非営利部門に関わらせているとみている。
後者の認識を高く評価し、現代に発展させるのに大きな貢献をしたのがセンだ。センは「スミスが、階級、ジェンダー、人種、国籍の壁を軽々と飛び越えて人間の潜在能力は等しいと見なし、天与の才能や能力に本質的な差異を認めなかったことは注目に値する」と指摘した。岡部氏は「潜在能力論が前提とする人間は、固定的なホモ・エコノミクス(利己的・合理的に行動する経済的人間)ではなく、潜在性に富む存在としての人間であり、その平等性を前提にしている。その点ではセンは、アリストテレス、スミス、マルクスなどの人間観を継承している」と解説している。
草郷孝好・関西大学教授は『 ウェルビーイングな社会をつくる 循環型共生社会をめざす実践 』(明石書店/2022年7月刊)で、従来の「経済成長モデル」は経済格差と分断を引き起こしてきたと指摘し、「循環型共生社会」の実現を訴える。循環型共生社会をつくるためには、経済成長モデルから「ウェルビーイングモデル」への転換が必要だと主張している。
センの理論を応用したモデル
ウェルビーイングとは、すべてが満たされた状態を指す。心と体の健康だけではなく、社会生活の面でも満たされた状態である。草郷氏は「社会的に満たされる状態とは、社会の中で孤立せずに他者とよい関係を持ち、自分の居場所や役割を持てる状態を指す」と説明する。
ウェルビーイングモデルは、環境や地域をモデルの外部(外生要因)と見なす経済成長モデルとは異なり、環境や地域をモデルの内部(内生要因)に位置付ける。経済成長モデルは経済的な利益を最優先するが、ウェルビーイングモデルは、環境や地域の視点から適切な経済発展の実現を探り、経済、環境、社会の3つの側面からウェルビーイングの高い社会の実現を目指す。
草郷氏はこのモデルを支える大黒柱はセンの潜在能力アプローチだと補足する。誰もが自分の持つ素質や可能性に気づき、それを伸ばしていくことによって充足度の高い生き方を自ら選択できる自由が、センにとって「真の自由」であり、新自由主義者が説く自由とはまったく相いれない意味だという。そして、誰もが真の自由を保障される社会こそ、よりよい生き方を選択できるウェルビーイングの高い社会だと強調している。
特定の学派にとらわれず、自らの問題意識に真摯に向き合いながら成果を生み出してきたセンの著作は、「人はいかに生きるべきか」という問いを読者に突き付けてくる。
写真/スタジオキャスパー