学校教育は「生産性が高い人材」を生み出しているのか。「経済学の書棚」第21回後編は、学力低下への危機感に端を発する40年にわたる分析をまとめた『学力と幸福の経済学』、論理性を養ううえで重視される数学の効用を説く『数学思考のエッセンス』、テクノロジーが労働者の仕事をどう変えるかを探り、学校教育の役割も問う『The Work of the Future』を取り上げる。
前編
「生産性を高めるには? 『人的資本』の理論と応用が学べる本」
日本の学校教育の問題点を論じる本
人材の土台を作るのは学校教育である。日本や米国の学校教育は、人的資本理論が想定する「生産性が高い人材」を生み出しているだろうか。
西村和雄・八木匡編著『 学力と幸福の経済学 』(日本経済新聞出版/2024年4月刊)は、人的資本理論の視点を軸に、日本の学校教育の現状や問題点を、米国との比較を交えながら論じた本。
編著者の1人、西村氏の専門は経済動学。経済成長を考えるうえで教育の効果を無視するわけにはいかないと判断し、教育をテーマとする実証研究に取り組んできた。
教育に関する論文を書くようになったきっかけは『分数ができない大学生 21世紀の日本が危ない』(共著/東洋経済新報社/1999年6月刊)の出版だが、教育に関する基礎研究を始めたのは1983年ごろだ。大学生の学力低下を告発した同書の問題意識を、『学力と幸福の経済学』でも前面に出している。
ゆとり教育が引き起こした学力低下
学力低下を引き起こした大きな原因は、1980年代初めに導入された「ゆとり教育」だとみている。序章「少数科目入試の罪と罰」では、米国と日本の対照的な動きを紹介する。
1980年代初頭の米国では、学生の学力低下、学習時間の少なさ、教師の質の低さに対する危機感が広がった。以来、子供の数学と理科の学力向上に力を入れ、90年代末には効果が表れてきた。
ところが、この間の日本は逆に授業時間を減らし、基礎科目と周辺科目の区別を曖昧にした。英語の教科書の文法的要素を大幅に縮小し、数学や理科の内容を削減したのである。
偏差値教育、詰め込み教育、ペーパーテスト偏重、受験技術偏重といった語句が喧伝(けんでん)され、結果として学生の基礎学力の低下を招いているという。
「個性重視の教育」にも問題がある。現状の受験制度は、それぞれの大学が様々な個性をもった学生を、同じ教室で教育する方向に進んでいる。これでは、授業をしようにも学生間の学力レベルが違いすぎてやりようがなくなると苦言を呈する。
これに続く第Ⅰ部「学力低下の実態」では、大学生に対する学力調査の結果を基に、文系学生の数学力の劣化や、理系学生の学力低下をデータで裏付けた。
文系学生の数学力調査を実施したのは1998~99年度、理系学生の数学力調査は99~2000年度である。同書によると、現在、多くの理工系学部では、高校レベルの数学・理科の補習授業を行わざるを得なくなっている。講義内容、レベルも20年前と比べて非常に落ち、学部教育に支障をきたしている。20年前の調査時点より事態はさらに深刻になっているようだ。
西村氏は「数学を学ぶ最大の意味は、論理性を養う訓練にある。問題解決能力は論理的思考によって培われる」と主張している。
数学・物理の重要性を強調
第Ⅱ部「学校教育は予想以上に人生を左右する」では、人的資本理論を応用し、「数学ができる人の所得は高い」、「高い教育費が少子化を加速」、「理系出身者では物理を得意とする人の所得が高い」、「入試制度の多様化は優秀な労働者を生み出せなかった」といった仮説を打ち出している。
第Ⅲ部「幸福度を高める家庭教育とは」では、幼児教育に焦点を当て、「社会的成功をもたらす4つの躾(しつけ)」、「子育てのタイプと子供の達成度」、「子供を伸ばす褒め方、𠮟り方」といった興味深いテーマを取り上げている。いずれも、学術研究・調査の裏付けを伴う仮説であり、子育て世代の参考になるだろう。
第Ⅳ部「思考と行動のメカニズムを解明する」は、個人の能力や特性と職場との関係がテーマ。第14章「思考タイプの違いは仕事・学習の能力形成に影響する」では、「空間認知能力」、「イメージ能力」、「言語能力」と職業選択との関係について論じている。
西村氏らが基礎学力の中核として重視する「数学力」とは具体的に何を指すのだろうか。少し本筋から離れるが、一般の人向けに数学の効用を説く本を紹介しよう。
数学者のオリヴァー・ジョンソン著『 数学思考のエッセンス 実装するための12講 』(水谷淳訳/みすず書房/2024年6月刊)は、数学者の目で世界を理解する手助けをするための本だ。
数学者たちは物事の仕組みに関する何らかのモデルを頭の中に持っている。モデルは持ち合わせているデータを説明したり、まだ起こっていない状況に関する予測を立てたりするのに役立つという。
数学の思考法を言葉で解説
同書は数学の考え方を身につけ、数を正しく理解するための心構えを説く本であり、方程式やギリシャ文字は使わず、図を使って様々な数学の概念を説明している。
位相図、エントロピー、期待値、指数関数、正規曲線、大数の法則、中心極限定理、フェルミ推定、ランダムなど、日常生活の中で耳にしても、深く意味を考えずに通り過ぎがちな概念の意味を、具体的な事例を挙げながら丁寧に解説している。
言葉だけで説明しているために、かえって理解しづらい記述も見られるが、著者の意図はよく伝わってくる。巻末には簡単な用語解説の一覧もあり、参考になる。
著者は、数学のツールキットを身につければ、世界の変化の根底にある構造的な原理を理解し、その伝えられ方を支配するランダムさと不確かさを認識し、正しい情報と噓の情報を区別できるようになると唱えている。
本筋に戻ろう。人的資本理論の発祥の地である米国では、学校教育は有効に機能しているのだろうか。
デヴィッド・オーター、デヴィッド・A・ミンデル、エリザベス・B・レイノルズ著『 The Work of the Future AI時代の「よい仕事」を創る 』(月谷真紀訳/慶応義塾大学出版会/2023年9月刊)は、マサチューセッツ工科大学が2018年に立ち上げたタスクフォースによる調査報告書(原著の出版は2021年)である。調査チームのメンバーは50人を超え、経済学、経営学、政治学、機械工学、電子工学をはじめ、様々な分野の研究者が参加した。調査チームは、テクノロジーの進歩が労働者の仕事をどう変えるかを探った。報告書の一部を要約しよう。
イノベーションは新しい職業を誕生させ、新たな専門知識の需要を生み出し、やりがいのある仕事の機会を作るが、米国の労働市場は古い制度のままにとどまり、イノベーションに対応できなくなっている。新たなテクノロジーによる生産性の向上の成果が所得の最上位層に偏って分配され、「持てる者」と「持たざる者」の溝が広がっている。
現在、ロボット工学や人工知能(AI)がめざましく進歩しているが、技術変化の重大な影響は徐々に現れるという事実は重要だ。インターネットや携帯電話などのテクノロジーが登場してから、ビジネスや労働者に広く影響を与えるまで数十年単位の時差を観察できる。ロボット工学やAIなどの影響が広がるまでの間に「ゲームのルール」を設定する法律、政策、規範、組織、企業を現代化し、米国の労働市場の制度を刷新する必要がある。急速に変化する経済の中で労働者がうまくやっていくために彼らをどう訓練するか。
小中学校、職業訓練校、大学、生涯にわたる成人向けの訓練プログラムなど、あらゆるライフステージに優れた技能プログラムを用意し、力をつけさせなければならない。
米国特有の労働者向け訓練システムに欠点はあるが、長所もある。労働者に多数の入り口を設け、キャリアパスを変更したい、あるいはレイオフされ新しい仕事を見つけなければならない場合に対応している。既存の教育・訓練制度に投資し、生涯にわたってスキル開発を利用しやすく魅力的でコスト効果が高いものにする新たな訓練モデルを創らなければならない。
教育・訓練と労働市場の改革を提言
第7章「結論と政策提言」では、低賃金・低学歴労働者の上昇移動を加速するための民間セクターの訓練投資の促進、コミュニティカレッジの学位取得率の引き上げ、訓練を提供する革新的な手法とツールの開発と実地試験への投資といった、教育・訓練の改善策を列挙している。
提言は、最低賃金の実質価値の引き上げ、失業保険給付の改革、労働法の強化・修正など多岐にわたる。米国向けの提言ではあるが、日本でも効果を発揮しそうな項目も多い。
技術進歩によって国は豊かになっても自分の暮らしが脅かされるのではないか、と恐れる米国人があまりにも多い。米国のイノベーションの驚異的な歴史を牽引(けんいん)してきたのは恐怖や諦念ではなく、可能性を信じる強い気持ちだった。テクノロジーと制度の両方にイノベーションが必要だと力説し、報告書を締めくくっている。
「貧困との戦い」の中で生まれた人的資本理論が、格差拡大の道具になっている現状を変えるためには何が必要なのか。人的資本理論を奉じる研究者たちは、できるだけ多くの人々が充実した教育を受け、豊かな生活を送れるように念じている。
写真/スタジオキャスパー
ゆとり教育・少数科目入試がもたらしたもの、文科系大学生・理科系大学生の学力、子どもが成功する子育ての型――。教育の迷走に危機感を抱き、40年以上にわたって行ってきた様々な因果関係の調査・分析をもとに、日本人の教育と学力の関係、幸福感、しつけの効果などを解明する画期的な調査・研究の集大成。
西村和雄、八木匡編著/日本経済新聞出版/3960円(税込み)




