経済成長を左右する大きな要因の一つは「人材」である。「経済学の書棚」第21回前編は、経済に貢献する人材をいかに育成するかを研究する人的資本の理論と応用を丁寧に解説した『人的資本の論理』、人的資本を養う教育をテーマとする教育経済学の理論と実証、政策や制度への実践を解説した『概説 教育経済学』を紹介する。
人的資本の理論と応用を分かりやすく解説
世界各国の経済成長を左右する大きな要因の一つは「人材」である。経済学には、経済に貢献する人材をいかに育成するかを研究する「人的資本理論」と呼ばれる分野があり、米国を中心に発展を続けている。今回は人的資本理論とは何かを学べる本や、日本や米国での教育の現状に警鐘を鳴らす本などを取り上げた。
小野浩著『 人的資本の論理 人間行動の経済学的アプローチ 』(日本経済新聞出版/2024年4月刊)は、人的資本の理論と応用を丁寧に分かりやすく解説した本。
小野氏は、人的資本理論の発展に貢献し、1992年にノーベル経済学賞を受賞したゲーリー・ベッカー氏の指導を受けた研究者だ。93年にベッカー氏と出会ってから、30年以上にわたって人的資本理論を核とした実証研究に取り組んできたという。
同書によると、人的資本とは人間の持つ能力、才能、知識、体力を指す。人は生産能力を有する資本であり、投資によって能力は伸び、成長すると考える。企業が高収益を求めて金融や生産設備に投資するように、人も人的資本に投資して生産能力を高め、収益を上げることができる。
人間を「資本」と捉える発想そのものにアレルギー反応を示す人もいるかもしれないが、とりあえず、人的資本理論の世界に足を踏み入れてみよう。
ベッカー氏は、人間の合理性を議論の出発点とする「新古典派経済学」の総本山となった米シカゴ大学に籍を置いた研究者であり、人的資本理論はその流れを汲(く)んでいる。
人的資本への投資と便益を比較
人間は人的資本への投資コストと投資から得られる便益を考慮し、収益を最大にするような選択をする。教育・訓練、健康管理などへの出費を人的資本への投資として捉えるのだ。
同書第Ⅰ部「理論・基礎編」では、人的資本への投資が所得の増加をもたらす関係を示す「人的資本の生産関数」の基礎を解説したうえで、労働市場や賃金決定の分析に論を進めていく。
賃金はどのように決まるのか。労働市場における供給側(個人の要因)、需要側(企業の要因)、両者のマッチングプロセスの3つの要因を挙げ、賃金は供給要因と需要要因の両方によって決まると説明している。ただし、供給要因の方が需要要因よりも説明力が高く、供給要因の中でも人的資本の説明変数は、ずば抜けて説明力が高いと強調している。
その一方で、人的資本理論のライバルと目されるマイケル・スペンス氏の「シグナリング理論」、ジョージ・アカロフ氏の「ギフト交換理論」にも触れている。
シグナリング理論によると、企業は採用時に志願者の能力を正確に把握できないため、能力を代替するシグナルとして学歴を使う。情報の完全性を前提とする人的資本理論とは異なり、情報の不完全性を出発点とする。
ギフト交換理論では、企業が労働者に高い賃金を贈与すると、労働者は企業から信頼され、大切にされているというシグナルとして受け止める。その結果、企業に対する義務・義理が高まり、生産性が高まる。企業は労働者の高い生産性に応じて高い賃金を払うとみる人的資本理論とは対称的に、高い賃金設定が高い生産性を導き出すと考えるのだ。
人的資本と密接な関係にある「社会関係資本」の解説にも紙幅を割いている。社会関係資本とは、人々や組織間の相互の信頼やネットワークなど、社会的なつながりや関係性によって形成される資本・資源を指す。社会学から生まれた概念である。
社会学者の間には、経済学が想定する、社会的な環境やコンテクストを無視して人間が独立して行動する世界を批判する声もある。小野氏はこうした批判も紹介したうえで、人的資本と社会関係資本には共通点があり、補完性があると主張している。
人的資本理論の紹介にとどまらず、ライバル理論や、社会学者からの批判もバランスよく取り上げている点が同書の特徴だ。
第Ⅱ部「理論から応用へ」では、人的資本理論を応用し、人生の「成功の方程式」、日本型人事制度、学歴の問題を読み解いていく。
第Ⅲ部「ミクロからマクロへ」では、人的資本理論の視点から、少子化問題、日本の「失われた30年」の根幹にある課題を浮き彫りにしている。
人材を「費用」と見なす日本企業
最終章に当たる第12章「なぜ人的資本への投資が必要なのか?」では、人的資本という概念が日本で定着しない理由を解明している。詳細は省くが、「失われた30年で、人材は資産としてではなく費用として捉える傾向が強まり、人材投資が疎(おろそ)かになった」ことを第1の理由として挙げる。
日本政府は近年、企業に賃上げを求めてきたが、現代の日本経済に求められているのは賃上げではなく、生産性向上であると唱えている。新古典派経済学では、労働者の生産性向上が企業の付加価値を高める結果として賃金が上昇すると考える。したがって、生産性向上を伴わない賃上げは持続できず、人材投資を伴わない賃上げは生産性向上に結びつかないと強調している。
松塚ゆかり著『 概説 教育経済学 』(日本評論社/2022年8月刊)は教育経済学の展開を概観し、理論と実証、政策や制度への実践を幅広く解説した書である。
同書によると、教育経済学とは、経済学で有用性が確認された理論、概念、分析手法を用いて教育あるいは学習、訓練などの営みに関わる政策、制度、実践、課題などを明らかにし、説明しようとする学問だ。私たちが教育に費やせる時間もお金も機会も有限であり、その範囲内で教育を受け学習をする。その場に参加する機会の在り方、費用の構造、資源の配分、教育や学習の経済的・社会的な効果や影響を主に定量的な手法で解明する。
同書ではまず、教育経済学が発展してきた経緯を紹介する。1960年代の草創期は「貧困との戦い」が大きなテーマであり、貧困層の教育機会の向上と格差是正が、学問の目的だった。人的資本理論が生まれたのはこの時期である。
1970~80年代には「国民の基礎学力の向上による経済力の強化」、90年代は「技術革新に対応する高度教育の推進」、2000年以降は「世界的に通用する人的資本の開発」へと目的が変遷するが、「教育投資は所得の向上や経済力の強化につながる」という仮説を前提にしている点は一貫している。
教育経済学には長い歴史があるが、世界全体を見わたすと教育経済学が大学の正課科目として定着しているとは言い難いという。人的資本理論では、教育投資が所得に及ぼす影響に着目するが、教育を経済的観点から語ることへの違和感があるためだと松塚氏は分析する。教育の経済効果はあくまでも結果として発生するものであり、経済効果を上げるための教育という前提には立たない。「教育の経済効果は教育経済学の重要な一部ではあるもののすべてではない」とも指摘している。
経済効果だけではない教育の効果
同書では本論に入る前に、教育経済学のテーマを整理している。
最初のテーマは「教育の効果」。雇用や収入といった経済的な効果に加え、社会的な効果も分析の対象とする。社会的な効果には、民主主義的な思考形成、多様性の尊重、自然や環境に対する配慮など定量化が難しい効果も含まれている。
これに続き、教育と労働市場、教育管理と学校運営、教育の機会と選択、教育の国際化、教育財政と幅広いテーマを挙げ、本論で順に解説している。
人的資本理論は「教育と労働市場」を分析する有力な理論であり、第3章「教育と労働市場1:人的資本論」では基本概念や人的資本の推計方法を詳しく取り上げている。
人的資本理論に対する反論や批判にも目を向けている。第4章「教育と労働市場2:人的資本論で説明できないこと」では、マイケル・スペンス氏の「シグナリング理論」や教育の効果が順当に機能しない「教育過剰」の問題に言及している。
格差を拡大させない教育を
最終章の第12章「これからの教育経済学―まとめにかえて」では、学習と教育の機会が国境を越える中で、資金に基づく格差、能力に基づく格差、その両方に基づく格差が地域内及び地域間で拡大することが予想されるとの認識を示している。
教育経済学は1960年代に貧困者の救済を目的に勃興したが、90年代に入ると教育はむしろ格差を拡大させる装置として機能するようになったのは皮肉な結果だと松塚氏はみる。教育経済学は今、教育が介在する地球規模の格差の構造を明らかにし、教育、人材開発、経済発展の連続性を再考して、格差を生まない、あるいは拡大させない持続可能な教育と経済との関係構築に貢献する役割を担っていると述べ、教育経済学の本来の目的に回帰するよう求めている。
(後編に続く)
写真/スタジオキャスパー
シグナリング、社会関係資本、成功の方程式、陳腐化、日本型人事制度、失われた30年、家族の経済学、少子化――。第一人者が基本的な考え方からミクロ・マクロの応用まで幅広く解説。
小野浩著/日本経済新聞出版/3960円(税込み)



