『 「風の谷」という希望 残すに値する未来をつくる 』(英治出版)は、『イシューからはじめよ』『シン・ニホン』で知られる安宅和人さんが書き下ろした、1000ページ近い大著だ。本書では、都市以外の場所に「風の谷」をつくるための構想が、森と流域、基盤インフラ(道、水、ごみ処理)、エネルギー、ヘルスケア、教育、食と農、生活空間など、空間を支える大半の領域から議論されている。安宅さんインタビュー1回目は、「風の谷プロジェクト」立ち上げの経緯と本書執筆の苦労について聞いた。
瞑想中に「風の谷」が降りてきた
2025年7月に『「風の谷」という希望 残すに値する未来をつくる』(英治出版)という本を出版しました。索引や出典・参考文献も含めると1000ページ近い大著ですが、なぜ、この本を執筆するに至ったかをお話ししたいと思います。
2017年に鎌倉の建長寺で開かれた「コクリ!プロジェクト」の討議に参加したのがきっかけでした。「コクリ」はコ・クリエーションの略で、「共創」というプロセスを使って、地域や社会に大転換を起こそうとする研究コミュニティです。創始者であるリクルートの三田愛さんと、旧知の太田直樹さん(内閣官房参与)に「社会変革に関わるような人が集まるイベントなので、いらっしゃいませんか」と誘われました。でも、最初は「いや、いいです」と断りました。
当時かなり多くの社会変革を仕掛けており、もうどうにもキャパ的に厳しかったからです。僕は2013年春のデータサイエンティスト協会(DS協会)立ち上げに始まり、そこからこの社会のデータ×AI(人工知能)化とは何か、どのような人材が必要になるのかの啓蒙、その意味合いを踏まえた社会の革新を引き起こすべく、長らく働きかけてきました。その当時は本当に国や経団連(日本経済団体連合会)関連の仕事が多く、パツパツだったのです(*)。
できることを自分なりに仕掛けているので放っておいてほしいと言ったのですが、お二人の熱烈なお誘いがあり、120名ほどの変革系の人が日本各地から集う場に顔を出しました。そこでは自分の心の内面を探るセッションが多面的に行われ、会の最後に瞑想(めいそう)的な時間がありました。そのときふと、「都市にしか人が住めない未来はいやだ」という強い思いと、同時に「風の谷」という言葉が降りてきたのです。
その後、強く何らかの考えが浮かんだ人10名あまりが手を上げ共有し合うセッションがあり、僕はその一人でした。4人が共鳴してきてくださり、随分と議論が盛り上がりました。その後、僕の周りにいる面白そうな人で興味を持ってくれそうな方々にコツコツと呼びかけて、最初10人ぐらいで議論が始まりました。そして2017年12月25日、風の谷の活動が正式にスタートしました。
このままでは「都市しか人の住めない未来」になる
では、「風の谷」とは、どんなプロジエクトなのか。
このままいけば、「都市にしか人が住めない未来」がやってきます。おそらく数十年後、主要国では都市に人口の9割が集中し、広大で豊かな自然と歴史のある場所の大半に人が住めなくなってしまう。ちなみに日本は最初に9割を超した国の一つです。都市への人口集中は半ば必然だが、人が住めるのは都市だけになってしまい、人類の歴史を育んできた自然豊かな疎(そ)な空間が捨てられてしまう未来は受け入れられない。歴史と自然のある疎空間が生き残れる、残すに値する未来をつくる。そのために解決すべき課題を整理し、解決の方向性を見いだし、数百年、少なくとも200年以上続く運動論の最初の型を立ち上げる――というのが、風の谷プロジェクトの趣旨です。

こう言うと、「地方再生ですか」と言われるのですが、違います。地方ではなく、東京や京都のような都会すら多く持つ疎空間を僕らは対象としています。「風の谷」は今までなかった構想なので、人に説明するのは難しい。僕らが最初につくった「風の谷の憲章」を一部紹介しましょう。
- よいコミュニティである以前に、よい場所である。ただし、結果的によいコミュニティが生まれることは歓迎する。
- 人間が自然と共存する場所である。ただし、そのために最新テクノロジーを使い倒す。
- その土地の素材を活かした美しい場所である。ただし、美しさはその土地土地でまったく異なる。
- 水の音、鳥の声、森の息吹…自然を五感で感じられる場所である。ただし、砂漠でもかまわない。
- 既存の村を立て直すのではなく、廃村を利用してゼロからつくる。ただし、完全な廃村である必要はない。
- 「風の谷」に決まった答えはない。やりながら創りだしていくもの。そのためには行き詰ってもあきらめずにしつこくやる。ただし、無理はしない。
- 「風の谷」を1つ創ることで、世界で1000の「風の谷」が生まれる可能性がある。ただし、世界に同じ「風の谷」は存在しない。
- 「風の谷」は観光地ではない。ただし、観光客が来ることを拒まない。
一般社団法人 残すに値する未来HP(https://aworthytomorrow.org/charter/)より
この「ただし」が続く文体を僕らは「風の谷文法」と呼んでいます。考えの遊びとユーモアがない教条的なスタイルでは「風の谷(“谷”)」はつくれないと僕らが思っているからです。僕たちがつくろうとしている「谷」は現時点では存在せず、一面的な正解はありません。
ここ8年間ほど、僕はこの風の谷プロジェクトに僕の人生の余剰時間を最大限投下しています。僕は慶應義塾大学SFC(湘南藤沢キャンパス)教授、LINEヤフーのシニアストラテジスト、DS協会の運営とスキル定義、政府委員などさまざまな仕事をしていますが、その自分が仕事以外で使える時間の相当部分をこのプロジェクトに投入しています。
「谷」をつくるには全体的なデザイン、森や水、インフラ、食と農、エネルギー…と多岐にわたる分野が関係してきます。「餅は餅屋」です。さまざまな分野で問題意識に深く共感する方々、僕の学生の多くにも加わってもらい、各班に分かれ検討を進めています。
各領域でゼロから考え直す
この8年間、毎晩のように10個はある各班のメンバーと議論を重ね、その成果は数百を超える検討結果になりました。でも後から入ってきたメンバーには「どのプロジェクトがどこまで進んでいるのか」、そもそもどういう検討が行われてきて、どのような見立てに現在なっているのか分かりにくい。関わる学生はどんどんと入れ替わります。
また、各班のメンバーは自分の領域だけで手いっぱいになりがちですが、各班の課題は全部つながっています。いつかこの膨大な成果を全体的に見渡し、つなぎ合わせる形で1冊の本にしなくてはならない。そういう問題意識が僕らコアメンバーの中では長らくありました。しかし、そのような全体を書く人間がいるとすると、おそらく自分しかいない。――とは分かっていながらも、あまりの検討の多様性と、総合性、各分野の専門性の高さのために、なかなか手を付けることができませんでした。
2023年の年末の6周年の場の議論を受け、翌日から一念発起したものの、実際の執筆は実に大変でした。風の谷プロジェクトはほぼ各領域でゼロベースに近い形で物事を考えている、「どこにも存在しない思考の集合体」。目の前の課題を解けないから、ゼロから解き直そうとしてきました。
それを形にするため、17カ月間、一日も休むことなく、朝昼夜、隙間という隙間をすべて投入して、本書を書き上げました。まず全体像すらどうまとめていいのかよく分からない。タテ糸というべき個別の領域も極めて専門性が高いだけでなく、既存の学問分野とも切り分け方がまったく異なる。おそらく我々のように基盤インフラ、社会インフラを捉え、都市ではなく疎空間を主語に考えている人はいないはずです。
1つの章を分析し直し、まとめ、言葉を磨き込むたびに地獄を見て、書き終えては「ああ、終わった」と思い、「また次の壁か」と言葉を失う。その繰り返しで、これが書き上がるまでは死ねないという気持ちで全15章を書き上げました。
これまでの検討に基づけば、「風の谷」づくりはどのような空間でも100年はかかります。遠い未来から見たときに、あれが始まりだったんだ、と思われるそんな起点となることを目指しています。疎空間は日本だけの話ではなく、世界中が抱えている問題。だから本書もいずれ翻訳されることを前提に書きました。海外での出版パートナーも見えていませんが、翻訳も頑張らねばです。
取材・文/三浦香代子 構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集) 写真/鈴木愛子

