1987年の社会情勢を踏まえて成立した労働基準法改正について議論が活発化する中、ワークライフバランスや労働生産性の見直しなど、改めて日本人の働き方が注目を集めています。デンマーク在住のジャーナリストで『第3の時間 デンマークで学んだ、短く働き、人生を豊かに変える時間術』(ダイヤモンド社)著者の井上陽子さんと、スウェーデン大手銀行SEBのシニア・データサイエンティストで『子育ても仕事もうまくいく 無理しすぎないスウェーデン人』(日経BP)著者の佐藤吉宗さんに、北欧の残業しない社会のつくりかたについて語っていただきました。

午後4時台の帰宅ラッシュアワーに衝撃
日経BOOKプラス編集(以下、──) 日本ではいま、労働基準法改正の議論が進んでいます。2026年の通常国会への法案提出は見送りとなりましたが、今後実現すれば1987年以来の改正となり、労働時間の規制緩和や多様な働き方への対応が注目されています。井上さん、佐藤さん、お二人の著書では「残業しない社会」が大きなテーマとなっていますが、今回はどのようにそうした社会がつくられたかを教えてください。 まずはお二人の自己紹介からお願いいたします。
ジャーナリスト・井上陽子さん(以下、井上) 私は日本では読売新聞に記者として入社し、社会部で国土交通省、環境省などを担当した後、ワシントン支局で特派員を務めました。2015年、夫の母国であるデンマークに移住し、現在は10歳と6歳の子どもを育てています。
スウェーデン大手銀行SEBのシニア・データサイエンティスト・佐藤吉宗さん(以下、佐藤) 私は京都大学在学中の00年、交換留学生としてスウェーデンに渡り、経済学の博士号を取得した後、ポスドク研究員や、AIコンサルティング企業などで働き、現在はSEBで勤務しています。スウェーデンで知り合った日本人の妻とともに7歳と10カ月の子ども2人を育てています。
高市首相就任時「働いて働いて~」という発言が話題になりましたが、どのように思われましたか。
井上 個人的には分かるな、と思いました。私自身も新聞社に入社した時には男性記者が圧倒的に多く、「そんな男社会に入れていただいて、ありがたい」と。男性と同じように働き、男性以上の成果を上げることで私の価値を示そうと思っていました。高市首相も相当な男社会を生き抜いてきて、「これまでの男性首相以上のパフォーマンスを出します」という姿勢を示す必要があったのではとお察しします。

ジャーナリスト、コミュニケーション・アドバイザー
佐藤 やはり、「いかに自分が頑張っているところを見せるか」が日本の文化では一つの美徳になっていると感じました。もちろん首相ですから仕事が山のようにあるのは当然ですが、そこをうまく権限委譲していけば、「働いて働いて働かなくても」仕事は回っていくのでは…と思いました。
井上 長時間働くことが美徳、という日本の文化は根強いですよね。私はデンマークを初めて訪れた日、「午後4時台の帰宅ラッシュアワー」に出くわして、びっくりしました。もう、お母さん、お父さん、どんな仕事の人でも早く帰るという社会を見たときに、「日本との違いは何なのだろう」と。一番の違いは「週37時間労働」が基本で、残業がほとんどないことだと思います。
佐藤 スウェーデンでは子どもを保育園に迎えに行くため、午後3時に退社する人もいます。社内ミーティングは遅くとも4時までに終えるのが暗黙の了解です。基本的に残業はないので、5時を過ぎると社内は空っぽになります。
井上 デンマークで午後4時以降に会議を設定すると、めちゃくちゃ嫌がられます。もしくは「よっぽど重要な会議なんでしょうね」という認識です。
私は「4時台の帰宅ラッシュ」に衝撃を受け、「なぜ、デンマークには残業という文化が根付かなかったのか」という取材をはじめました。実は1950年の時点ではデンマークのほうが日本よりも労働時間が長かったのです。しかし、その後、日本は高度経済成長があり、80年代にはリゲインのCMでおなじみの「24時間働けますか」の時代に突入します。当時は「ジャパン アズ ナンバーワン」と賞賛され、アメリカのビジネススクールでも日本企業がケーススタディに使われたりしていました。そんな時代に、どうしてデンマークの人たちは「自分たちも残業して頑張ろう」とはならなかったのか。
いくつか答えがあるのですが、1つは80年代のデンマークの深刻な失業率です。労働時間を伸ばすよりも、まずは失業者を仕事に就かせることが大事だった。もう1つは女性の労働参加が60~70年代に進んでいたので、すでに「家事や育児を夫婦間で分担する」という文化ができており、長時間労働がなじまなかった。2人とも長時間労働をしていたら、「誰が子どもを迎えに行くの?」という話になりますから。さらに、「労働組合が強かった」という面もあります。
佐藤 スウェーデンも「労働組合が強かった」のは大きいですね。また70年代、80年代は主に医療や介護の分野で女性の雇用が拡大した時期でもあります。それまで家庭にいることが多く、家事を担っていた女性を労働力として取り込むとなると、残業があっては家庭が回らなくなる。そのため「残業」という文化が根付かなかったのだと思います。

デンマークの人々が大事にする「8-8-8」の考え方
井上 デンマークではもう1つの理由として自由時間を大事にする考え方が浸透していました。1日を「8時間の労働」「8時間の自由時間」「8時間の休息」に分けるという考え方で、「8-8-8」とも呼ばれます。
このコンセプトは、8時間労働を求める1890年代の労働運動のスローガンが元になっています。それまでの労働者の一日とは、働くことと、そこからの回復という、労働と休息の2分割だったわけですが、そこに「自由時間」という新しい考え方が加わり、「労働、自由時間、休息」の3分割になったそうです。
日本で新聞記者をしていた頃の私はまさに「1日2分割」の生き方をしていたわけですが、確かにデンマークの人たちにとって、自由時間はすごく大きな意味を持っています。仕事後には友人と過ごしたり、趣味の時間を楽しんだりするだけではなく、幼稚園の保護者が集まって「給食のオーガニック食材率を何パーセントにするか」といった話し合いをしたり、子どものサッカークラブのコーチをしたりしています。
ちなみに「8-8-8」という概念はみんなに浸透しているんですか。
井上 「8-8-8」という言葉そのものを知っているのは6割ぐらいでしょうか。ただ、言葉を知らなくても、自然とそういう生き方をしています。
佐藤 スウェーデンもクラブ活動が盛んです。日本と違うのは学校や企業単位のクラブではなく、地域ごとにサッカーやオリエンテーリングなどのスポーツクラブがあるところ。仕事が終わった夕方5時、6時になると人が集まってきて、それがさまざまなバックグランウンドや仕事を持つ人との交流の場ともなっています。
そのクラブは子どもも参加できるのですか。
佐藤 大人向けのクラブと子ども向けのクラブがそれぞれあります。
日本では部活が教員の過重な負担になっていることが大きな問題になっています。
井上 デンマークでは学校の部活というものがないので、先生が部活の指導をすることもないんですよ。学校の先生は授業が終わったら、必要な業務がない限り、すぐに帰ります。もう午後2時台とかに帰っちゃう。
佐藤 スウェーデンも同じですね。小学校2年生の息子の場合、遅くとも授業は午後2時に終わり、その後は同じ学校の施設が学童保育のために使われます。学童のためにわざわざ移動する必要がないので安心です。先生たちは翌日の準備をしたり、週に1回保護者向けのレポートを書いたりしていますが、3時頃までには帰宅しているようです。
学童はみんなが利用しているのですか。
佐藤 そうですね。基本的にみなさん共働きだし、ほとんどの子どもが利用しています。1クラス25人ですが、学童の教育士は、学校での授業でも担任のアシスタントとして、クラスに入ってくれているので、子どもたちの様子もよく分かっています。例えば算数の授業でつまずいている時なども、丁寧にサポートしてくれます。
井上 デンマークも学童利用率はほぼ100%ですね。やっぱり学校が2時ごろに終わってしまうので。お迎え時間のピークは4時ぐらいです。
保育園も5時までなんですが、日本だと「お金を払っているんだから、預けられるギリギリまで使おう」と思ってしまいがちですよね。デンマークの保育園では、4時30分ぐらいになると残っている子が1人か2人ぐらいで、子どもからも「もっと早く迎えに来て」と言われます。5時ギリギリに迎えにいったら、先生から怒られます(笑)。北欧に残業がないのは「延長保育がない」ことも大きいですね。
取材・文/三浦香代子、藤中潤(日経クロスウーマン編集部)構成/市川史樹(日経BOOKプラス編集)

