2021年12月、ドイツを16年間率いたメルケル首相が引退した。功罪あれどもメルケル首相が「EUの象徴」であったことに疑いの余地はない。我々は彼女の16年をどう評価し、また未来をどう展望すべきなのか。EU本部勤務経験があり、関連著書を多数持つ唐鎌大輔氏の新著 『アフター・メルケル 「最強」の次にあるもの』 (日本経済新聞出版)から一部を抜粋、再編集して解説する。連載第1回では、メルケル政権の16年間で欧州大陸にはドイツを中心に「縦」「横」「斜め」の3つの亀裂が生じたことを紹介する。アフター・メルケル時代の為政者はこれを修復していくことができるのか。
16年で生じた「縦」「横」「斜め」、3つの亀裂
2021年12月、ドイツ、いやEUを16年間率いたメルケル首相が正式に引退した。メルケル首相にとって最後となる2021年10月22日のEU首脳会議でフォンデアライエン欧州委員長は「メルケルなきEU」を「エッフェル塔のないパリ」とたとえた。
功罪あれどもメルケル首相がEUの象徴であったことに疑いの余地はない。過去16年に関して言及すべき論点は数多く、その長寿の背景にメルケル首相の卓抜した能力があったのは確かだろう。しかし、前任であるシュレーダー政権の構造改革で形作られた「地力の強さ」が寄与した部分も決して忘れられてはならないと筆者は考えている。
今回の連載はメルケル時代に焦点を当てるため詳細な議論は割愛するが、16年間もの年月において政治・外交はともかく経済の上ではほとんど大きな失点がなかった背景に、シュレーダー改革によってドイツ経済のコスト(経済分析上では単位労働コストが象徴的)が抑制され、「欧州の病人」と呼ばれた状況から脱却する足掛かりが用意されていたことは無視できない。この点については、第2回の連載で議論したいと思う。
いずれにせよ、メルケル政権の16年を振り返る際、改めて「シュレーダーの果実」に学ぼうとする姿勢は重要だと筆者は考えている。
その上でメルケル時代を総括するとすれば、やはりその治世の多くが「危機」と形容されていたことが思い返され、その過程で他国・他者との軋轢(あつれき)がクローズアップされることが多かったことも想起される。具体的にメルケル首相が経験した危機は3つある。それは欧州債務危機(2009~13年)、欧州難民危機(2015~16年)、そしてパンデミック危機(2020~21年現在)だ。16年の約半分が危機対応だったことが目を引く。
ゆえに、メルケル政権が次世代に遺(のこ)す何かがあるとすれば――それが後世にとっての「果実」にせよ、「負債」にせよ――やはり危機にちなんだ産物になってきやすいと思う。議論すべき論点は多いが、危機と共に歩んだメルケル首相の16年間で、欧州大陸にはドイツを中心に「縦」「横」「斜め」の3つ亀裂が走ったという事実が特筆されるように思う。今回はこれを簡単に紹介させていただきたい。
アフター・メルケル時代の始まりを告げた「縦」の亀裂
まず「縦」の亀裂とは、言い換えれば東西対立だ。2015年9月に勃発した欧州難民危機以降、難民受け入れを巡ってドイツと東欧諸国(ポーランド、ハンガリー、チェコなど)の間には深い溝ができた。また、難民問題を受けてEU不信を強めた東欧では、政府による司法や報道への露骨な介入が横行するなど、強権的な政権が誕生するに至っている。これが行政府たる欧州委員会の頭を悩ませる状況も生じている。
後述するように、「縦」の亀裂はメルケル首相の政策運営に直接起因する部分が大きいことは否めず、メルケル政権の残した「負債」のひとつであるようにも思える。
2015年9月、メルケル政権が突如、難民・移民の無制限受け入れ政策という決断を下し、EUは大きな混乱に陥った。とりわけ、ドイツが「受け入れる」と言ったことで、「通り道」として難民が大量流入することになったハンガリーを筆頭とする東欧諸国やドイツの隣国であるオーストリアは不快感を隠さなかった。多くの難民の希望する最終目的地がドイツだとしても、万単位の人間が移動する中でハンガリーやオーストリアに居座る者も現れる。当然予想された展開である。

ハンガリーのオルバン首相は、こうしたドイツの挙動を「道徳的帝国主義だ」と糾弾し、このフレーズは大きく報じられた。強硬な言動が注目されやすいオルバン首相には「過激な右翼主義者」という印象が付いてまわるが、当時の主張は筋が通っていたようにみえた。普通に考えれば、治安や安全保障の観点から主権国家が身元照会も不十分なまま難民を無制限に受け入れるほうが異常である。
ドイツの主要政党の支持率推移をみると、メルケル首相の所属するCDU/CSU(キリスト教民主・社会同盟)の支持率は2015年9月を境にはっきり低下傾向に転じている。その後、2017年9月の総選挙でCDU/CSUは惨敗を喫し、続く地方選でも連敗を重ねた結果、2018年10月にメルケル首相は政治家引退まで表明することになる。この事実を踏まえれば、「縦」の亀裂を決定的なものにした2015年9月の決断こそが、実質的な「アフター・メルケル時代の始まり」を告げる号砲だったように思える。
「ドイツ一強」を確かにした「横」の亀裂
次に「横」の亀裂とは南北対立である。緊縮路線を巡ってギリシャを筆頭とする南欧とドイツの折り合いが悪くなったことは周知の通りであり、多くの説明を要しないだろう。もとより存在した南北の経済格差を増幅させたのが欧州債務危機だった。
EUの構造上、もともとそうした構図にはあったが、債務危機を経てドイツはますます債権者然とするようになった。お金を「貸す側」と「借りる側」では当然、発言力に格差が生まれる。欧州債務危機の最中、メルケル首相は南欧救済に慎重な姿勢を貫き、「マダム・ノン(ノーと言う女)」の異名まで取るようになった。それは南欧を中心とする加盟国がドイツをどう思っているかを端的に示すものであり、まさに「横」の亀裂を象徴する言いまわしだ。また、危機の影響を受けてもともと割安だった単一通貨ユーロはさらに弱くなり、それがドイツ経済の追い風となった。
こうしてみると、欧州債務危機はドイツが債権者として政治的発言力を強化し、一段と割安な通貨を獲得する契機になったと考えられ、メルケル政権の長寿を理解する上では必要不可欠なパーツであったように思える。
欧州債務危機では南欧以外のEU加盟国の経済も大きく傷つき、EU史上、極めて重大なショックだったと考えられるが、ドイツだけは盤石さを保った結果、「ドイツ一強」の構図が鮮明になった。この点は基礎的経済指標の整理を含めて連載第2回で議論したい。いずれにせよ「横」の亀裂と引き換えに、メルケル政権下のドイツは政治・経済的に力強さを増したと筆者は理解している。
EU運営を巡って「斜め」の亀裂も
最後に紹介するのが「斜め」の亀裂であり、これはEUの運営方式に関するものだ。EUの意思決定は基本的に加盟国で協議が持たれるが、実際は事前にドイツやフランスといった大国主導で大枠が整っていることが多い。これに対し裕福な沿岸諸国が反旗を翻す動きが、近年目立ち始めている。必ずしも「斜め」に含まれない国もあるが、構成国を囲めば、ドイツの頭上で斜めに線引きされるようなイメージになる。
とりわけ2018年3月にはオランダを中心とした小国連合が「新ハンザ同盟」と名乗り、共同声明を発表、大国主導の意思決定を批判している。新ハンザ同盟を構成する8カ国の名目GDPを合計してもドイツの7割に満たないが、EU(27カ国ベース)の2割弱を占める。厳密には16.5%を占め、これはフランス(17.4%)と肉薄する(図表1)。結託すれば相応に無視できない勢力と言える。
新ハンザ同盟は、これまで経済政策に関してドイツと歩調をそろえてきたオランダやフィンランドといった優等生に類する加盟国を軸に構成されていることが興味深い。
大国主導への不満は以前よりあったと思われるが、英国がEUを去るタイミングで新ハンザ同盟が声をあげたのは「英国なきEU」「メルケルなきEU」でドイツ・フランスの2大国に抗しきれるバランサーが必要との思惑があったのかもしれない。新ハンザ同盟は「政治分野を意識した広範囲の権限委譲には反対」との立場を示すが、それはかねて英国がEUの中で強調してきた論陣でもある。近年ではこの「斜め」の亀裂に属する国が中心となって、パンデミック下で緊急かつ必要に迫られた欧州復興基金の設立を阻害したことも記憶に新しい。
新ハンザ同盟の国々は、経済規模に迫力はなくとも、政治的・経済的に歴とした先進国の一角であり、EUにとっても頼りにしたい国々である。その意味で、大小対立によってEUの「コアな部分」に亀裂が生じているとも言える。こうした亀裂を修復し、乗り越えるためのリーダーシップがとれるのは、やはりドイツだけなのだろう。メルケル首相ほどの政治資源を持たないアフター・メルケル時代の為政者は、まずはこれ以上の亀裂を増やさないことに注力することが求められるだろう。
[日経ビジネス電子版 2022年1月7日付の記事を転載]
女帝が遺(のこ)した「果実」と「負債」を次の政権はどう受け継ぐのか?
16年にわたり政治リーダーとして君臨したメルケル。この間にドイツ経済は輝きを取り戻したが、一方で、欧州難民問題に象徴されるEU内での孤立、米国(トランプ政権)との微妙な軋轢(あつれき)、中国との接近など、その将来を危ぶむ様々な芽も生み出してきた。
欧州委員会経済金融総局にてEU経済見通しの作成などに携わった経験を持つ、日本を代表するマーケット・エコノミストが、メルケル引退をドイツという一国家のみならず、EU史における一つの節目と捉え、過去を総括し、現状を整理した上で、未来を展望する。
唐鎌大輔(著) 日本経済新聞出版 2640円(税込み)