2024年11月に行われた米国大統領選挙は、メディアによる大方の予想とは異なり、ドナルド・トランプの圧勝となった。経済アナリストの安田佐和子さんが選ぶ「トランプ2.0」を考察するための本、2冊目は『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』。副大統領に就任したJ・D・バンスによるベストセラー自伝で、白人貧困層の置かれている状況がよく分かる。

副大統領のベストセラー自伝

 前回「 安田佐和子 人々の絶望が『トランプ圧勝』をもたらした 」、トランプ現象の根底には格差に絶望している人たちの不満があるとお話ししました。元FOXのニュース・キャスターであるタッカー・カールソンは、「『格差』のためアメリカの『家族』は崩壊し、労働者階級は貧困のため結婚さえできない。絶望から薬物乱用まで起きている。富裕層のエリートたちは労働者を踏み台にして繁栄を享受し、労働者の苦境には見て見ぬふりをする『すさまじい怠慢ぶりだ』」と非難します(『それでもなぜ、トランプは支持されるのか アメリカ地殻変動の思想史』会田弘継著/東洋経済新報社)。

 2冊目の『 ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち 』(J・D・ヴァンス著/関根光宏、山田文訳/光文社未来ライブラリー)は、トランプ第2期政権で副大統領になったJ・D・バンスが2016年に書いたベストセラー自伝で、タイトルは「田舎者の哀歌」という意味です。

『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』(J・D・ヴァンス著)。画像クリックでAmazonページへ
『ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち』(J・D・ヴァンス著)。画像クリックでAmazonページへ

 バンスは「ラストベルト(さびついた工業地帯)」と呼ばれる、オハイオ州ミドルタウンと、アパラチアの山麓の町ケンタッキー州ジャクソンで育ちました。両親は離婚、バンスの家族には薬物中毒の母、次々と変わる父親、祖父母がいました。本書を読むと、製造業が衰退していった地域の暮らしがいかにひどいものか、親の離婚が子どもにどんな影響を及ぼすかがよく分かります。

 地域の経済が衰退し、家庭が貧困に陥ってしまうと、そこから抜け出すのは極めて難しくなります。新しい職を求めて移動しようにも、持ち家の資産価値が下がり、ローンだけが残ってしまい、引っ越すことができません。こうした姿はその昔、米国南部で奴隷として働いていた黒人の姿とも重なります。

 親は日々の生活で精いっぱい、子どもに「勉強しろ」と言ったり、将来を考えさせたりする余裕はまったくありませんでした。バンスは「私は白人に違いないが、自分がアメリカ北東部のいわゆる『WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)』に属する人間と思ったことはない」と書いています。

 ミドルタウンは、アームコという鉄鋼メーカーの企業城下町でした。1980年代末、アームコは川崎製鉄と合併してAKスチールとなりましたが、グローバル化の波に勝てず、衰退していきました。

 ミドルタウンでは公立高校の学生の20%が中退し、州外の大学に進学する人はほぼゼロ。町の人たちは、成功する人間は2種類しかいないと思っていたそうです。1つ目は運が良くて、コネのある裕福な家庭の出身。生まれた瞬間から成功が約束された人。2つ目は能力のある人間。生まれつき賢く、挑戦さえすれば失敗するはずのない人。でも、ミドルタウンには1つ目のタイプはまずいないと誰もが思っていたそうです。

 バンスは10代のときに社会政策やワーキングプアに関する本を片っ端から読み、ラストベルトから脱出できる者は、「裕福」か「教育レベルが高い」か「人間関係に恵まれている」人だと悟りました。

海兵隊入隊が転機に

 バンスが選んだ道は、高校卒業後、海兵隊に入ることでした。海兵隊では入隊者は「何も知らないことが前提」とされており、金銭管理や健康などについても学ぶ機会がありました。

 本書にはバンスが車を購入したときのエピソードが出てきます。海兵隊では上官が仕事だけではなく生活面もチェックします。バンスは、BMWが欲しかったのですが、年長の隊員の指導によって実用性の高い日本車を買うことになります。

 「ローンが組めるだけでもラッキー」と、ディーラーと21%金利のローンを契約しようとしたところ、お目付け役が怒り出し、海軍信用組合に相見積もりを取るよう命じました。その指示に従ったところ、海軍信用組合のローン金利はディーラーの半分以下でした。このようにしてバンスは戦略的に考えることを学び、「自信がついた」と振り返ります。

 その後、バンスはイラクに派兵され、除隊後はオハイオ州立大学、イェール大学ロースクールで学び、弁護士、ベンチャー投資家となります。

「バンスの祖母は民主党支持者でしたが、福祉に頼る人々を苦々しく思っていた節があります」と話す安田佐和子さん
「バンスの祖母は民主党支持者でしたが、福祉に頼る人々を苦々しく思っていた節があります」と話す安田佐和子さん

 ロースクールといえばバラク・オバマ元米大統領もハーバード大学のロースクールを卒業していますが、バンスは自分が大人になるまで接してきた周囲の人たちとオバマとの間には、「まったく共通点がなかった」と言っています。

 オバマはアイビーリーグの大学を2つ卒業するという完璧すぎる学歴(バンスの高校の同級生でアイビーリーグに進学した者は1人もいない)を誇り、大都会のシカゴに住み、能力主義は自分のためにあるという自信のもとに立身出世を果たしてきました。白人の労働者階級はそうしたエリートとまったく共通点がなく、「米国の能力主義は自分たちのためにあるものではない」と思うに至ります。生活苦への不満は政府や社会へ向かい、その不満の受け皿となったのが、トランプでした。

 米大統領選は直接選挙ではなく、単純に過半数票を獲得した候補者が勝利するわけではありません。各州に割り当てられ、有権者それぞれが望む候補者に投票する「選挙人」を選ぶ、間接選挙となります。こうした仕組みにより、激戦州が命運を握ることとなり、ペンシルベニア、ミシガン、ウィスコンシンなど、ラストベルトの一角が特に重要視されます。一部の日米の有識者は、日々の暮らしに追われ、グローバル化から取り残されたラストベルトの有権者の投票行動が選挙結果を左右するとして、疑問を投げかけます。しかし、絶妙に民意を反映した制度とも言えるのではないでしょうか。

社会関係資本の大切さ

 貧困家庭で生まれ育ったバンスが成功を収めることができたのは、祖母のおかげでした。祖母は「懸命に働くことが大切」「神は自ら助くるものを助く」と信じ、バンスに「自分に可能性がないと思ってはいけない」「お前は自分のやりたいことを何でもやれる」と言い聞かせました。

 個人的な話で恐縮ですが、私自身、子どものころに記者など文章を書く仕事を生業にしたいと感じるようになったのは、本の虫だった父親の影響が大きいのです。佐和子という名前も、有吉佐和子先生からいただいたと聞いています。また、母親はまさにバンスの祖母のように、私に愛情を降り注ぎ、自信を植え付けてくれました。

 バンスにとって、祖母は経済学で言う「社会関係資本」でした。社会関係資本とは、周囲の人や組織間とのネットワークのことで、経済的な価値があるとされています。社会関係資本があるかないかで、その人の人生は大きく変わってしまうのです。

 例えば、バンスはミドルタウンにいた頃、職探しといえば「履歴書を送って返事を待つ」ものと思っていました。しかし、イェール大学の学生たちは「親に相談して、紹介状を書いてもらう」方法を知っていました。ラストベルトの人たちは生活が貧しいだけでなく、人的ネットワークの面でも取り残されていたのです。バンス自身はその後、社会関係資本をフル活用し、副大統領に上り詰めたと言えるでしょう。

 本書は米国の白人貧困層の生々しい実態を知ることができるとともに、貧困から抜け出すために、社会関係資本がいかに大事かということを教えてくれる一冊です。

文/三浦香代子 取材・構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集)  写真/小野さやか