30年以上にわたるアゼルバイジャンとアルメニアの紛争はトルコとロシアの代理戦争。この紛争は半導体と大いに関係があった――。日増しにきな臭くなる国際情勢の中で、各国は国家の存亡をかけて半導体の争奪戦を繰り広げている。なぜ半導体がアルメニアを翻弄するのかを解明する。『2030 半導体の地政学[増補版] 戦略物資を支配するのは誰か』(太田泰彦著/日本経済新聞出版)から抜粋・再構成してお届けする。

一つの「国家」が消えた

 2023年9月28日のことだった。ロシアとトルコに挟まれたコーカサス地方で、一つの「国家」の消滅が決まった。アルツァフ共和国である。

 この共和国の名を知る日本人はそう多くはいないだろう。アゼルバイジャンの領土の内側にあるが、敵対するアルメニア人が実効支配していた地域のことだ。西側に位置するアルメニアから見れば、飛び地ということになる。

 1991年にアルメニア系の住民がアゼルバイジャンからの独立を一方的に宣言し、アルツァフ共和国を名乗った。首都はステパナケルトにあり、一院制の議会を持つ大統領制の民主主義の「国家」だ。括弧書きで「国家」と記したのは、国際的には未承認で、アゼルバイジャンの一部と見なされてきたからだ。

 公式な地図の名称でいえばナゴルノ・カラバフ地方という。“本国”のアルメニアとは幅5キロメートルほどのラチン回廊という陸路でつながっている。面積は東京都の約1.5倍。人口は12万人にすぎない。この日、アルツァフ共和国の大統領が、翌年1月1日にすべての行政機関を解散すると発表した。

 イスラム教シーア派が主流のアゼルバイジャンと、キリスト教のアルメニアの紛争は米ソ冷戦時代の1980年代から続いていたが、23年9月19日に始まった軍事衝突でアゼルバイジャン側が一方的に勝利したことで、共和国であり続けることを断念したというわけだ。

 ここでなぜコーカサスの話題を持ち出したかといえば、アゼルバイジャンとアルメニアの紛争が実は半導体と大いに関係があるからだ。

アゼルバイジャンとアルメニアが争ったナゴルノ・カラバフ地方(写真:scaliger/stock.adobe.com)
アゼルバイジャンとアルメニアが争ったナゴルノ・カラバフ地方(写真:scaliger/stock.adobe.com)
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隠れたIT国家

 黒海とカスピ海に挟まれたコーカサスは、異なる言語、文化、宗教を持つ50以上の民族集団が入り組み、「地球上で最も多様な地域」といわれる。東西と南北の交易路が交差するシルクロードの要衝であり、有史以来、大国の侵略と紛争が絶えたことはない。

 日本から遠いため、イメージがわきにくく、グローバル経済とは縁遠いようにも見えるが、実は半導体の地政学を考えるうえで、このコーカサス地域は無視できない。旧ソ連で電子・電機産業を担当していたアルメニア共和国がここにあるからだ。

 コーカサスには3つの独立国と、3つの事実上の独立国、11の非独立の自治区がある。独立国家として国際的に承認されているのはジョージア、アゼルバイジャン、アルメニアの3カ国である。

 アルメニアは隠れたIT国家だ。石油・ガスなど天然資源が豊富なアゼルバイジャンや、物流ハブとして地の利があるジョージアと違い、アルメニアは地理的に恵まれているとはいえない。このため、過去も現在もロシアへの経済的な依存が大きく、冷戦時代にはソ連の計画経済によってIT産業が育成された。政策の後押しで情報工学が発達し、「ソ連のシリコンバレー」と呼ばれた時期もある。

 1955年に数学者のセルゲイ・メルゲルヤンが中心となって首都エレバンに設立した「コンピューター研究所」が中核的な役割を担っている。最盛期には約1万人のエンジニア、研究者を抱えていたとされ、59年に真空管を使ったコンピューターの開発に成功した。

 さらに64年には半導体によるコンピューターを完成させている。米国のIBMに対抗するコンピューターを開発しようと、ソ連がアルメニアの研究所の尻を叩いた成果である。

 こうしてソ連の各国に電子機器を供給する役割を担うようになった。特にソ連の軍用電子機器は、その3分の1がアルメニアで開発、生産されていたという記録が残っている。冷戦の遺産を受け継いで、首都エレバンには半導体産業の基盤があり、現在でも少なくとも1カ所の半導体工場が稼働しているとみられる。人口300万人弱の小国でありながら、IT分野の雇用数は1万7000人に及び、企業数は2019年時点で約650社、スタートアップ企業を含めると約800社ある。

 世界銀行が2020年1月に公表した報告書によれば、アルメニアのIT製品の年間輸出額は09年の9400万ドルから17年には2億1200万ドルに増え、2倍以上の伸びを見せた。報告書が「アルメニアのIT産業はグローバル・バリューチェーンに組み込まれつつある」と指摘しているほどだ。

「秘境」を襲った異変

 その半導体の秘境ともいえるアルメニアで、いま地政学的な異変が起きている。

 20年9月末に隣国のアゼルバイジャンとの間で武力衝突が起き、アルメニア側の発表によると1200人もの死者が出たのだ。アゼルバイジャン領内だがアルメニアが実効支配しているナゴルノ・カラバフ地域の領有権をめぐり、両国の敵対感情が爆発した結果だった。

アルメニアの首都エレバン(Jack38/Wirestock/stock.adobe.com)
アルメニアの首都エレバン(Jack38/Wirestock/stock.adobe.com)
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 そもそもアルメニアとアゼルバイジャンは、歴史的に犬猿の仲である。アルメニアは世界最古のキリスト教国であり、アゼルバイジャンはイスラム教シーア派の国だ。アゼルバイジャンの主要民族であるアゼル人はトルコ系であり、アゼルバイジャンとトルコは一心同体といっていい。そして、アルメニア人は、第一次世界大戦期に、トルコの前身であるオスマン帝国による大量虐殺によって150万人の同胞が犠牲になった過去を忘れていない。

 両国は88年から94年まで激しい戦争状態にあり、94年にロシアの調停でようやく停戦合意にこぎつけた経緯がある。とはいえ、根っこにある民族対立が解消するはずはなく、現在に至るまで一触即発の状態が続いていた。

 両国の対立を舞台裏から眺めれば、アルメニアの陰にいるのはロシア。アゼルバイジャンを支えるのはトルコである。アルメニアにはロシア軍の基地があり、武器供与も受けている。トルコはシリア人傭兵を前線に送り込み、ドローンを使った攻撃も仕掛けたとされる。

 20年9月の武力衝突は、ロシアとトルコの代理戦争の色彩も帯びる。両国は黒海とボスポラス海峡の制海権をめぐり、16世紀から戦いを繰り返してきた。ロシアは黒海のクリミア半島の軍事拠点から、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡を通って、地中海に抜けることができる。

 このときの勝敗を決めたのは、アゼルバイジャン側が投入した偵察・自爆ドローンである。アゼルバイジャンを支援した隣国のトルコ軍が、国境の向こう側からドローンを飛ばし、自然の要塞であるはずの山岳地帯で攻撃対象をピンポイントで爆破したからだ。

 アルメニアの後ろ盾だったロシア製のドローンは、飛ぶことすらできなかったといわれている。その理由の一つは搭載された半導体の性能の差だ。イスラエルが飛ばしたとみられるドローン兵器は、イスラエル製のチップを搭載し、正確に目標を爆撃したとされる。ロシア製のアルメニア戦車部隊は歯が立たなかった。ここでも戦闘の影の主役は半導体だった。

 コーカサスはロシアの南下政策の要だ。対するトルコは、米欧の軍事同盟、北大西洋条約機構(NATO)の加盟国である。

 コーカサスを舞台とした民族対立に終わりは見えない。ロシアにとっては、同盟国であるアルメニアのIT産業が、手中に収めておきたい貴重な資産であるのは間違いない。20年の武力衝突を機に、さらに影響力を強める動きに出るだろう。

 一方、アルメニアの立場からすれば、主に米国からの直接投資で成り立つ国内のIT産業が、国家の自立を保つ頼りとなる。アルメニアを外から応援するのが、米ワシントンで強力なロビー活動を繰り広げるディアスポラ(移民)だ。

 米国のトランプ政権は一時アゼルバイジャンを援助する姿勢も見せたが、20年10月にアルメニアと連携していると語った。衝突が起きた直後に「この紛争を監視している」とも述べ、状況次第では米国が介入する可能性を示唆している。

 バイデンは21年4月に、米大統領として初めて、トルコの前身オスマン帝国によるアルメニア人の大量虐殺を歴史的事実として認める声明を出した。米国はアルメニア人を支持するという意思表明だ。

 舞台裏のプレーヤーは、これだけではない。トルコの陰にいるイスラエルはアゼルバイジャンを軍事的に支え、偵察ドローン、自爆ドローンなどの高度な兵器を供与したようだ。米国政府がとるべきコーカサス政策の方向をめぐり、ワシントンではユダヤ人とアルメニア人によるロビイング競争が激しさを増している。デジタル・シルクロード構想を掲げ、中央アジア、東欧への影響力を高めようとしている中国も、黙って見てはいないだろう。

日増しにきな臭くなる国際情勢のなかで、各国は国家の存亡をかけて半導体の争奪戦を繰り広げている。その先に現れるのは、いったいどんな世界なのか。技術覇権をめぐる国家間のゲームを読み解き、日本の将来を展望したロングセラーの増補改訂版。

太田泰彦著/日本経済新聞出版/1980円(税込み)