作家デビューから10年以上が経過しても出版社のパーティに慣れないという芦沢央(よう)さん。前回(参照:ミステリ作家が挑む「文学賞パーティ」という名の奇妙なゲーム)は、なぜパーティに行くと挙動不審な人間になってしまうのか、を考察しました。今回は、その芦沢さんがパーティと同様に苦手、というよりも大嫌いだという「スピーチ」について。(編集部より)

(イラスト=くぼ あやこ)
(イラスト=くぼ あやこ)

スピーチは特殊な能力なのだ

 スピーチなどというシステムを考えた人は、USBを挿す際に必ず向きを間違えて手間取る呪いにかかってほしい。

 いいですか。人には向き不向きというものがあるんですよ。苦手なことから逃げていたんじゃ成長しない? でもその成長、本当にその人に必要なんですか? 仕事の業務内容的に、どうしても大勢の前で気の利いたことを言う能力が不可欠なんですか? 小中高大と様々な場面で人前でしゃべらされ、自分は人前でしゃべるのは苦手だし精神的負荷が高すぎるなと判断した結果、できるだけそうした機会がなさそうな職に就いた人間にも?

 ……と、いきなりダル絡みをしたくなるくらい、私はスピーチが苦手だ。

 おそらく、このエッセイ連載の読者は、比較的スピーチをする機会がある人が多いだろう。中には、スピーチが得意だという人も、好きだという人もいるかもしれない。

 そういう人のことは、純粋に尊敬する。本当にすごい。大勢の人間の目と耳に晒されても、臆することなく話すべき内容を忘れることもなく、その場の空気に応じて機転を利かせながら話をまとめられるというのは、もはや特殊能力なのではないかと思う。

 そう、特殊な能力なのだ。万人に持てるものではない。度胸、記憶力、ユーモア、頭の回転の速さすべてを兼ね備えなければならないなんて、もうスピーチだけに特化した専門職じゃなきゃおかしくないか?

 熱くなってしまったが、私も新入社員の頃には何度かスピーチをやらされたことがある。

 内定をもらった段階で、「入社前の忘年会と入社式と歓迎会でスピーチをしてもらう」とのお達しがあった。当時は、「え、じゃあ内定辞退したい……」とさえ思ったものの、辞退したところで他に行くところがあるわけでもなく、そもそもどの会社に就職しようと結局スピーチはやらされる可能性が高い。

練習に練習を重ね、セーフティネットも用意

 私は半泣きになりながら、スピーチ原稿を作り始めた。3回とも同じ相手の前でやらなければならないということは、3種類用意する必要がある。

 社会人の先輩である父親に相談したが、「スピーチなんてものは短いほど喜ばれるんだよ」と言うだけで、中身は自分で考えろとそっけない。しかも、「最初の印象ってのは大事だからな」とプレッシャーだけはかけてくる。

 原稿自体は、それほど苦労することもなく、自分で言うのも何だがそれなりのものが作れた(それぞれでどんな話をしたのかは覚えていないが、たしかどれか一つでは名前を覚えてもらうことを裏テーマにして、自分の名前の由来にまつわるエピソードを交えて仕事への意気込みを語ったはずだ)。

 問題は、それをカンペを見ずに大勢の前で話さなければならないということだった。私は昔から緊張しがちで、幼稚園や小学校の頃にも発表会や学芸会のたびに行きたくないと駄々をこねて親を困らせてきたタイプだ。時間をかけて構成を考えられる書き言葉の方がはるかに性に合っているからこそ、話し言葉に不全感を覚える機会が多く、話せば話すほど話すのが苦手になるという悪循環があった。

 私は用意した原稿を読み上げて時間を計り、何度も調整した上で丸暗記することにした。鏡を前にそらで言えるまで繰り返し、当時は実家暮らしだったので最終的には親にも聞いてもらって練習した。引っかかりがちなパラグラフの1文字目だけを手のひらに書いておくことで、途中でパニックになった場合に備え、盛大に噛んだ場合、頭が真っ白になった場合、どこまで言ったかわからなくなった場合の対策も練った。

 壇上でどうにもならなくなったら、用意してきた原稿が頭の中で飛んでしまったことを正直に白状するしかない。「自分の未熟さと向き合う機会を入社前(あるいは入社してすぐ)にいただけたことがありがたい」と何となくそれっぽい感じに繋げて「今後精進していきますので、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」と締めてごまかせば、3回あるスピーチの内1回だけなら新入社員のスピーチとしてはギリギリ許されるだろう。

 そう考えてセーフティネットを用意したことで緊張しすぎずに済んだからか、何とか無事に丸暗記した原稿を披露し終えた。

 だが、そのせいで、式であった他のことは何ひとつ覚えていない。スピーチが始まるまでは延々と原稿を心の中で唱え続けていたし、終わってからはほとんど放心状態だった。

 もう二度とスピーチなんてやりたくない……というのが理由ではないが、その後私は会社を辞め、小説家になった。

 念願の「書き言葉」で生きていける世界である。

10分前にいきなり「スピーチお願いします」

 私が受賞した新人賞は、当時は贈賞式なるものはなく(今はある)、会社の会議室で社長から「おめでとう」と言われて賞状と賞金の目録をもらうだけだった。小説家の仕事の中でも、編集者との打ち合わせでは話し言葉を使わなくてはならないが、話題は基本的に小説のことだ。私は雑談は苦手であるものの、小説の話なら(それが自作へのダメ出しであっても)いくらでも楽しくし続けられる小説オタクなので問題はない。

 出版社のパーティに出れば、スピーチをしている先輩作家の姿を見かけることはあったが、完全に他人事というか、テレビで有名人を観ているような感覚で楽しんでいた。心情としてはイベントに潜り込んだファンの気分だ。私はただ観客として楽しんでいればいい。

 しかしデビューして10年経つ頃から、雲行きが怪しくなり始めた。

 歳やデビュー年が近かったりして、個人的に親しくしている同業者が賞を獲るようになり、贈賞式の二次会に参加すると編集者から「この後スピーチをお願いします」と言われるようになってしまったのだ。

 自分が受賞してスピーチをさせられるのなら、まだいい。スピーチが必要になることはわかっているから、事前に準備してこられる。しかし、親しい同業者へのお祝いスピーチは、二次会が始まってから、スピーチタイムの10分くらい前にいきなり頼まれる。

 「無理です……」と言いたくなるものの、ここで断れば別のニュアンスが生まれてしまう。大抵の場合、私がまだ受賞できていない賞のお祝いなのだ。私はただスピーチなるものが苦手でしょうがないだけなのに、「あいつは自分が獲れないからってお祝いスピーチを断ったらしいぞ」ということになりかねない。

 結局「ああ、はあ」という返事なのかため息なのかわからない反応をしてしまい、編集者が「では、また後ほどお名前をお呼びしますので」とテキパキ言って去っていく。待ってくれ……まだ心の準備も原稿の準備もできてないんだ……

 その後、スピーチの時間が来るまでは、誰の会話もほとんど耳に入ってこない。食べ物も飲み物も喉を通らない。なんでもっと早く言ってくれないんだ、と思うが、もっと早く言われていたら、ずっとスピーチのことしか考えられなくなってしまっていただろうから、よかったのかもしれない。いや、やっぱりよくない。何を話せばいいんだ……

 とりあえず受賞作の感想を言おうと考える。けれど私は、感想をまとめようとしたら1時間はかかる人間だ。しかも手元に本がない。何カ月も前に読んだ話だから、登場人物の名前や感動したフレーズが本当に正確なのかも不安になってくる。こんなことなら直前に読み返してくればよかった。もう遅い。「めちゃくちゃ面白かったです」しか言えない。それ、本当に読んだ? いや、ちゃんと読んでいるんです……

 次に、お祝いを伝える相手とのエピソードを話そうかと考える。しかし今度は、どこまでが公に話していい内容なのかわからなくなってくる。個人的な話を勝手に公開してしまっていいのか? 迷惑がかかったりしないか?

 では、こういう作品が受賞するのは同業者としても励みになることだ、とその賞の意義みたいな話をするのはどうだろう。うーん、あまりに漠然としすぎている。こういう作品ってどういう作品だ。どう励みになるのか。やはり受賞作の感想も具体的に言わなければならない。思い出せ、思い出せ――

「犯人の精神状態」はスピーチで体験できる

 この辺りで、スピーチタイムが始まってしまう。先に行われる選考委員のスピーチも聞かなければならない。自分のスピーチさえなければ、心底楽しんで聞いている話だ。でも、これから自分もスピーチするのだと思うと、何かヒントはないかという思考がノイズになって上手く聞くことができない。しかも、私がうっすら考えていた内容をもっとちゃんとした形で先に言われてしまう。なるほど、そう言えばよかったのか。感動するが、真似するわけにはいかない。どうしよう……動悸が激しくなり、口の中がやたらと渇く。周りの声がくぐもり、視界が暗く狭くなっていく。

 そして思考がまとまらないまま私の順番が回ってきて、破れかぶれにスピーチをすることになる。

 「言おうと思っていたことを先に◯◯先生に言われてしまい、話すことがなくなって困っています」と正直に言ってしまい、失礼だったかもと慌てて「私が上手く言語化できずにいたことを完璧にまとめられていて、さすがだと思いました」と付け加え、おいおい何のためのスピーチだ、スピーチの講評でもする気か、というセルフツッコミが脳内で聞こえてきてさらにパニックになる。結局、受賞作の感想と個人的な交流エピソードと賞の意義みたいな話がごちゃ混ぜな上にすべて中途半端な話をし、マイクのスイッチを切りながら自分が消えたくなる。

 着席してすぐに、「ひとり反省会」が始まる。言うべきことをちゃんと言えなかった気がする。そのくせ、余計なことまで言ってしまった自覚だけがある。テンパっていたから記憶が曖昧だ。何かやらかしていないか心配すぎる。だけど思い出したくもないから深追いできない。

 「スピーチよかったよ」と声をかけられる。あれ、意外にちゃんとできていたということだろうか。ちょっとだけ気持ちが浮上するが、その後すぐ「めっちゃ笑った」と続けられて顔が引きつる。おかしい、笑いを取りに行った記憶はないぞ……

 小説家がこんなにスピーチさせられる職業だなんて、完全なる誤算だった。もはや詐欺だ。新人賞の募集要項に明記しておいてほしい。

 私はミステリで犯人の視点を書く際、スピーチのときの自分を思い出す。

 一線を越えて罪へと踏み出してしまうときの異常な精神状態、犯行が露見しそうになったときの身体感覚――よくSNSなどで「小説家は自分が経験したことしか書けないか」という議題が上がるが、少なくとも私に殺人事件を書かせるのに殺人を経験させる必要はない。スピーチをやらせるだけで十分である。

 ダメだ、こんなことを書くと無駄にスピーチをやらされる回数が増えるかもしれない。本当にやめてください! 前フリとかじゃないんで! ポケットにティッシュを入れたままの服を洗濯機へ入れてしまう呪いをかけますよ!

 ……編集者はこんな呪いくらいじゃ動じない気がする。私に呪いをかける力がないことが悔やまれる。スピーチ撲滅委員会でも設立するか。いや、そんなもの作ったらスピーチを撲滅する必要性についてスピーチさせられることになる。私は書き言葉の世界で生きていたい。仕方がないから、スピーチが嫌すぎて殺人を犯してしまう人の話でも書くか……

日経ビジネス電子版 2026年1月8日付の記事を転載]