ミステリの名手であり、ホラーや純文学なども手掛ける芦沢央(よう)さんのエッセイ連載。前回(参照:「自分がされて嫌なことは他人にしない」という教えは万能ではない)は、「人の名前を間違えてしまう」のを反省する話でした。今回は、なんと1万5000円もする高級なお粥を食べに行った話です。そんなお粥を食べて芦沢さんはいったい何を反省したのでしょうか……(編集部より)
最終回らしいテーマって何だ?
第18回までを書いたところで、「本にすることを考えると、そろそろ締めた方がよさそうだ」という話になった。
私が毎回、当初の依頼よりも長く書いてしまったせいで、既にかなりの分量があることが判明したからだ。
しかし、編集者から「18回をもっていったん打ち止めにしましょうか? あるいは、まだ反省すべき点があるということでしたら、もう1、2回書いていただいても……」とメールをもらって、これはどうしたものかと唸(うな)った。
反省すべき点はまだまだあるが、すべてを書こうと思ったら、とてもあと1、2回では収まらない。どこかで区切らなければならないとはいえ、最終回のつもりで書いたわけではない第18回を最後にするというのも、何となくさみしい。では、最終回らしいテーマを……と考え始めると、「そもそも反省会の最終回って何だ? 私のひとり反省会はこれからも続いていくのに?」と混乱してくる。
とりあえず、最近の反省すべき出来事は何だろうと考えてみたところ、先日同業者に誘われて、ひとり当たり1万5000円の高級粥を食べに行った話が浮かんだ。
誘われた際、お粥で1万5000円ってどういうこと!? と目を剥いたが、聞けば16人以上集めないと予約が取れない有名店なのだという。幹事は業界内でも顔が広い方々だ。この話に乗らなければ、私ではとても16人も集めることなどできないだろう。
私はすぐに〈なんかすごそうですね! 面白そうなんで参加しまーす!〉と返信してから、送られてきたお店に関するサイトを読み込んでいった。
――なるほど、お粥はお粥でも、A5和牛や車海老、あわび、ホタテ、名古屋コーチンなどの高級食材で出汁(だし)を取るという、ハイパー贅沢なお粥らしい。
普段は超適当な家庭料理ばかり(しかも第15回で書いた通り、自分ひとりの昼食は適当にカップ麺やコンビニ弁当で済ませてしまいがち)な人間にとっては、胃がびっくりしてしまわないか心配になるが、お粥ということは胃に優しそうでもある。
凡庸な感想を書きつけて満足しそうになる
インターネット上で調べてみると、いろいろな人がブログや記事で「お粥体験記」を書いていた。誰もがすべての食材の写真をアップした上で、ひとつひとつの具の味わい、そして出汁で最強になったお粥について解説している。
私は、いやがうえにも気持ちが高ぶっていくのを感じ、声をかけてもらえたことに感謝しながら当日お店へ向かったのだった。
お店に着くと、まずは自己紹介タイムが始まった。
メンバーは17人、出版関係者がメインだが、ジャンルがバラバラで私にとっては初対面な人も多かったため、誰が誰なのかを教えてもらえるのはありがたい。しかし、私は人前でしゃべるのは得意ではないので(第3回参照)、スピーチというほどではなく自分が何者かを言えばいいだけでも、緊張してしまう。
「主にミステリを書いています」くらいでいいかしら、と思っていたものの、他の人は著作や近況などを絡めながら軽妙な自己紹介をし始めた。
焦った私は、自分ももう少し何か言わなければならない気がして、
「最近、『あなたが正しくいられたとき』というタイトルの本を出したのですが、Xで検索するとレスバ(レスバトル、返信を送り合って相手を罵ったりマウントを取ったりする)ばかり出てきて困っています。そう言えば、去年出した本が『おまえレベルの話はしてない』というタイトルで、これもレスバがたくさん出てきてしまいました。レスバ系タイトルシリーズということで、よろしくお願いします」
などと、意味不明なことを言ってしまった(レスバ系タイトルシリーズって何だ……)。
食材紹介タイムが始まると、みんなが一斉に写真を撮った。私ももちろんスマートフォンを構える。店員さんがにこにこしながら蓋を開けると車海老が飛び出しそうになり、私は「うわ、生きてる!」と叫んだ。
「海老! この海老生きてますよ!」
「活き車海老です」
バカみたいに繰り返す私に、店員さんは我が意を得たりというようにうなずく。私は動揺しながら「生きてますね!」とまた同じ言葉を口にした。
次々に食材が現れ、私はすべてを写真に収めた。どれも美味しかったし、普段はなかなか知り合う機会がない方々と話せたのが楽しくて、2次会まで行ってから大満足で帰宅した。
だが、少しして、せっかくだし小説家らしくこの体験を文章で記録しておこうと考えて書き出したところで、私の「ひとり反省会」が始まった。自己紹介が上手くできなかったことについてではない。凡庸な感想を書きつけて満足しそうになっている自分に気づいたのだ。
それぞれの食材の味や香りや見た目を鮮やかに描写したい、その場にいて感じたことを的確に表現したい、と思って書いた言葉たちは、どれも実際に参加せずに想像で書いても出てきそうなものばかりだった。
活き車海老にびっくりして、この子、今から茹でられるのか……と少し憂鬱な気持ちになったことも、写真を撮らなければ1万5000円分の元を取れないような気がしたことも、みんなで卓を囲んで歓声を上げる構図そのものに心が弾んだことも、「情報を食べる」ことしかできない自分の舌と語彙力にがっかりしたことも、あまりにありふれた感覚で、「自分でなければ気づけない視点」のような斬新なものがひとつもなかった。
それなのに、ただそれらしいものが書けた、というだけで自分に及第点をつけそうになっていたのである。
自分の発想はそこまで特別なものではない、と認める
私が、自分の感覚や感性が特別ではないことを思い知ったのは、小説家としてデビューする数年前のことだった。
当時の私は、純文学の新人賞にばかり応募していた。自らのものの見方、考え方が特別なものであると思っていて、それを全力で書けば受け止めてもらえるものだと無邪気に信じていたのだ。
けれど、9年間、最高で3次選考まで進んだくらいで最終選考に残ることもなく、何かおかしいな……と自分の才能を疑い始めた頃、あるベストセラー作家のエンタメ作品を読んで衝撃を受けた。
その作品は、私がそのとき書いていた投稿作と同じテーマを扱っていた。しかも、私はテーマ一本で十分勝負できると考えていたのに対し、その作品は、ミステリのトリックや、キャラクターの面白さや、ストーリー展開の面白さなどという、いろんな要素を作品の中に注ぎ込んだ上で、同じテーマをアクセントとしてしか使っていなかった。
ここで初めて、私は自分が生のままのアイデアだけで勝負できる人間ではないのだと気づいた。私が思いつくようなことは他の人にも思いつくのだという自覚を持たなければ、スタートラインにすら立てないのだと。
そこから、私はどういう構成の物語にすればアイデアが生かせるか、そのために必要な技術は何かを考えるようになった。そうして書いた短編をエンタメの新人賞に応募したところ、最終選考に残り、それに励まされて次に書いた長編で新人賞を受賞した、というのがデビューまでの道のりだ。
しかし私は、何度でも自分の発想を過信してしまいそうになる。
思いつくと嬉しくなって、これさえあれば何とかなるとつい思ってしまう。いや、待てよ。これ本当に面白いか? 新しいか? それらしいというだけで満足していないか? と意識的に問いかけなければ、立ち止まることができない。
なぜなら、自分の発想自体はそこまで特別なものではない、と認めれば、自分が小説家としてやっていけるのか不安になるからだ。
この業界には、どんな人生を歩んでくればそんなことを思いつくのか、と呆然とさせられるような、化物みたいな発想力の同業者がたくさんいる。見たことのない景色を見せられるのも、知らない感情に出会わされるのも、読み手としてはもちろん震えるほどに嬉しいことだが、書き手としては打ちのめされる。
うらやましい、私にもその力が欲しい――でも、私は私としてしか生きられない。
ただ、小説の面白いところは、そんな私にも進める道があることだ。
私は、読み手に見たことのない景色を見せたり、知らない感情に出会わせたりすることはできないかもしれないが、読み手が忘れていた景色を思い起こさせたり、読み手自身が自覚していない感情を炙り出したりすることはできる。
私の感性や感覚が平凡だからこそ、私が自分の中にある記憶や感情を掘り起こし、分析し、増幅させ、それを最も効果的に提示する構成を練ることで、多くの読み手に届く物語を生み出しうる可能性があるのだ。
さあ、最終回らしく、前向きな感じになってきたぞ。
――と、ここで、再び警告音が鳴る。
はい、最終回らしい、という安直な思考の仕方が危ういですね。
やはり、私には、まだまだ「ひとり反省会」を続ける必要がありそうである。

