冨山和彦氏がダイエーやカネボウの再建を手がけた産業再生機構時代、座右の書としたのが『君主論』だった。そしてさまざまなステークホルダーと対峙するにあたって、政治家と付き合う上での「秘密の教え」を明かしてくれたのが、小泉純一郎元首相であった。今回は『 シン・君主論――202X年、リーダーのための教科書 』より、冨山氏が真の意味でのマキャベリストと称する小泉元首相のエピソードを抜粋してお届けする。

マキャベリにならった産業再生機構時代

 私が『君主論』を初めて読んだのは今から約30年前、米国スタンフォード大学のMBAコースに留学中のことだった。行動組織論の課題図書に指定されていたため、英語版を手に取ったのが出会いである。
 読み始めてすぐは正直退屈に感じたが、途中から俄然(がぜん)面白くなり、夢中で読み進めた。
 その後、2003年に産業再生機構のCOO(最高執行責任者)に就任した際に、日本語版を改めて読み直した。

 この本を再び手に取ったのは、マキャベリが論じたリーダーと近い状況で職務を遂行しなければいけなくなったからだ。

 産業再生機構は政府によって設立された組織であり、国家の権力構造の中で民間企業を再建するという立ち位置だ。
 よって当該企業の経営陣や銀行だけでなく、政治家とも関わらざるを得ないし、国の施策である以上は主権者である一般国民も意識しなければいけない。
 一般的な事業経営では関与することがないステークホルダーに囲まれ、上も下も左も右もややこしい状況の中で実務トップの役割を果たすには、自分を取り巻く人たちの心理をつかまなければ厳しいだろう。

 そんな心境から『君主論』を再読したのだった。
 ビジネススクール時代は授業の教材として読んだが、今は自分も当事者なのだと思うと本気度が違う。マキャベリの一言一句と真剣に向き合って読み返したのを覚えている。

 そして実際の仕事でも、マキャベリの教えは大いに役立った。

 前述の通り、産業再生機構のステークホルダーは多岐にわたり、それぞれに立場が異なる。
 よって各方面から色々な人が自分の利益を守るためにポジショントークを仕掛けてくるのだが、私は人間のリアリズムを観察し続けたマキャベリにならい、相手の言葉の後ろに何があるのかを常に考えた。

 人間は普段、相対している人物の正面しか見えていない。しかしその人の後ろに回ってみると、実は意外なものを背負っているかもしれない。
 最初は自分と対立する意見に思えても、相手の言葉を表裏から多面的に眺めることで、お互いの間にある共通の利益や協調できる部分が見えてくる。

政治家にとって、何より大切なものとは?

 例えば政治家の介入を受けたときも、まずは言葉の裏にあるものをじっと観察した。
 すると相手が抱える事情もつかめてくる。

 政治家にとって何より大事なのは、選挙に勝つことだ。
 自分が落選すれば事務所は解散し、秘書のクビを切らなければならない。ある意味、零細企業が倒産に瀕(ひん)するようなものだ。選挙に強い人ならまだしも、当落線上にいる政治家は、なんとしても次の選挙で勝とうと必死になる。

 この利害構造さえ把握できれば、こちらも誰がどのような行動をするか予想がつく。

 政治家が介入しても、地元における相手の立ち位置を理解し、その人の顔を潰さないように工夫しながら物事を進めれば、「選挙にマイナスにならなければいい」と納得することがほとんどだ。
 そのために私が主義主張を曲げる必要はなく、相手が大事にしているものを守れるように配慮すれば話は済む。

 人間はそれぞれに「このためなら動く」という動機付けやインセンティブを持っている。それが理解できれば、自分と相手の利害が一致する地点を見つけて、折り合いをつけられるものだ。

 企業再生の過程で労働組合と交渉する場面なら、1人でも多くの雇用を守ることが相手のインセンティブであることをまずは理解する。会社が破産すれば全員が雇用を失うのだから、経営を立て直すことは、産業再生機構と組合の双方にとって共通のゴールとなる。
 あるいは最悪の場合、会社という箱は潰しても事業だけは救い出し、他の箱を見つけて雇用者ごと引き取ってもらえば、組合側の利益は守られる。

 こうして利害の一致点を探っていけば、どんなにタフな交渉でも、両者が同じ目的に向けて進んでいくことが可能となる。

 企業再生のようにシビアでハードな局面ほど、人間の生々しい本音や素顔が出てくるものだ。だからこそマキャベリスティックに人間を洞察することが重要となる。

 そのことを私は痛感すると同時に、君主論的アプローチで行けばこの職務をやり遂げられるという自信もついた。その後、IGPIを立ち上げて現在に至るまで、『君主論』からの学びは組織と人を動かす上で私のベースとなっている。

2005年10月、当時の小泉純一郎首相は郵政民営化法案を成立させた(写真:ロイター/アフロ)
2005年10月、当時の小泉純一郎首相は郵政民営化法案を成立させた(写真:ロイター/アフロ)

冷徹な洞察力を備えた小泉元首相

 小泉純一郎元首相は、産業再生機構が設立された当時の政権トップであり、私もしばしば間近で接する機会があった。
 郵政選挙で勝利を収めるまでのプロセスを眺めつつ、この人物はまさに「局面」において徹底したマキャベリストだと感服したものだ。

 小泉内閣が発足したのは、1994年の公職選挙法改正によって衆議院選挙が小選挙区比例代表並立制に移行してから、しばらく経った時期だった。
 1人だけを選ぶ小選挙区制では、与党の顔である総理大臣が国民の心をつかめるかどうかで、勝負がほぼ決まってしまう。小泉氏はその本質を理解し、政治家は何をインセンティブとして動くのか、人々の投票行動は何に動機付けられるのかを、常に冷徹に洞察している印象があった。

 実は前述した「政治家はすべてにおいて選挙に勝つことを優先する」という裏事情を私に教えてくれたのは、小泉氏である。

 国の政策で誕生した産業再生機構のCOOに就任したものの、こちらは永田町では素人だ。そんな私に小泉氏が「冨山さん、これだけは押さえておくといい」とアドバイスしたのが先の内容だった。
 いわく、政治家にとって落選とは、経営者にとっての倒産と同じである。だから落選を回避するためならなんでもする。約束なんて平気で破るし、裏切りもする。だから政治家と付き合うときは、そこをよく観察した方がいい。

 そして、この言葉は真実だった。

 私は産業再生機構に在籍した4年間で、かなり深く政治と関わることになったが、政治家たちは本当に小泉氏が言った通りに動くのである。
 特に選挙が弱い議員は、テレビで言っていることと地元でやっていることが180度違うほどで、次の選挙で当選するためならなりふり構わない。

 産業再生機構の仕事は、各地域における利害関係を無視して進めることはできない。
 ダイエーの再建では店舗を閉め、カネボウの再建では工場を閉めなければいけなかったが、小売や生産拠点の撤退は地域経済に直結するので、交渉の過程で必ず政治家が出てくる。
 地元選出の国会議員に始まり、知事、市長、町長と、与野党関係なく次から次へと登場しては、地元の利益を守るように口々に訴える。

 それもこれも、すべては自分が次の選挙で勝つためである。その様子を目の当たりにしながら、首相が言っていたのはこういうことかと腹落ちする思いだった。

日経ビジネス電子版 2022年2月17日付の記事を転載]

乱世の今こそ、古典に学べ!

 多くのリーダーが座右の書として挙げるマキャベリの『君主論』。そのエッセンスを現代のビジネスに当てはめつつ、解説するのが本書だ。きれいごとではすまされない再生・改革の修羅場をくぐり抜けてきた2人が、その経験をもとにリアルに語る。

冨山和彦、木村尚敬(著)、日経BP、1760円(税込み)