前回の記事 「藤野英人 『子どももおとなも、同時代人』という考え方」 では、相手が子どもでも「同時代人」として水平な目線で対話を心がけているというお話をしました。
そもそもなぜ僕がこのポリシーを獲得するに至ったのか。その背景にある幼い頃の読書体験について、今回はお話ししたいと思います。
振り返れば、僕は10代の頃から「理不尽な上下関係」を強いられるのが大嫌いでした。
中学時代のシャーペン事件
特に中学時代には、学校生活の隅々にまで張り巡らされた「教師の言うことは絶対であり、教師の命に生徒は従うべきである」という暗黙のルールに疑問を持ち、反発していました。
エピソードを挙げればキリがありませんが、例えば「シャーペン事件」。
僕が通っていた中学校には「シャーペン使用禁止」という謎の校則がありました。職員室に行き、先生に禁止の理由を尋ねたところ、「シャーペンを分解する生徒がいて、授業のジャマになるからだ」という回答が返ってきました。
中学生の藤野少年は「先生、その理由には納得がいきません」と反論しました。「すぐに芯が減って削らなければいけない鉛筆よりもシャーペンのほうが大量の筆記には向いていて、勉強に集中できると思います。それに、もう一つ言わせてもらえば、シャーペンを分解したくなる隙を与えるような退屈な授業にこそ問題があります」。
先生は血相を変えて激怒しました。よほど動転したのでしょうか、「お前、今言ったことを職員会で言えるのか!」と責め立てられました。僕のほうは冷静でしたから、「本当のことだから言えます」と返したところ、後日の職員会に呼ばれて同じことを言わされました。そしたら、今度は校長先生が「生意気だ!」と激怒。パーン! と頬を引っぱたかれました。ひどいですよね。令和の今ならSNSで大問題になっていたかもしれません。
さらには「しばらく反省せよ」と、水の入ったバケツを両手に持って廊下に立たされるという、もはや漫画でしか見られない仕打ちがオマケについてきました。
1時間ほどして、「気持ちを入れ替えたか?」と聞かれたとき、考えは何も変わっていませんでしたが、熱心に通っていたピアノのレッスンが迫っていたので「習い事に行きたいので、気持ちを変えました」と言ったら解放されました。
教師の立場からすると、非常に生意気で扱いづらい生徒だったでしょうね。
しかしながら僕は成績がすこぶる良く、学年トップを維持していたので、反抗的な態度をとってもなんとなく許される場面が少なくありませんでした。その「許されている感じ」も不公平で不当な扱いだと感じていました。
「宿題」とも闘い続けた藤野少年
また、「宿題問題」ともずっと闘っていました。同じ宿題がすべての生徒に一律に出されることにも納得がいかず、断固として「宿題は提出しない」という主張をしていたのです。なぜなら、僕にとって宿題は全部分かりきっている内容ばかりで、その気になれば即答できるものばかり。それよりも、自分が必要だと考える課題を見つけて取り組みたいのだという主張でした。
ほとんどの先生は理解してくれなかったのですが、一人だけ、若い女性の先生が「そう言われてみたらそうだね」と受け入れてくれて、宿題にかける時間だけ統一したうえで、生徒各自で自由に課題を設定してよいという新しい形のホームワークへと切り替えてくれました。
アイデアが採用されたことはうれしかったのですが、後日、その先生が「私が考えた先進的指導です」と自分の手柄として語っている記事が地元の新聞に掲載されているのを見たときにはびっくりしました。せめて「ある生徒からの相談がきっかけで」と一言あればよかったのですが、なんだか嘘をつかれたような気分になったのを覚えています。
そんなささやかな出来事の積み重ねで、「大人だからって完璧でエライとは限らない」という価値観が、僕の中で育まれていったのだと思います。
何より僕が嫌悪したのは、「有無を言わさず、同じルールを当てはめる」という強制力でした。これは今も変わりません。
なぜここまで、多様性に対する受容力に敏感になったのか。今思えば、小学生時代のちょっと特殊な読書体験が、その理由になったのかもしれません。
厳格だった父は教育熱心で、息子である僕に本をたくさん買いそろえて読ませてくれました。
名作文学が教えてくれたフラットな目線
小学3年生から6年生にかけて、古今東西の名作文学を200冊ほど、それも2、3周繰り返して読んだのです。トルストイ、ドストエフスキーなどロシア文学から、夏目漱石、志賀直哉、紫式部、吉田兼好まで。『暗夜行路』なんて、小学生にはなかなか想像力が追いつかないディープな大人の世界なわけですが。
とにかく様々な国、文化の文学を読んだ経験から、「この世界は多様である。それが世界の自然である」という実感を得たのでしょう。
ある文化では正義とされる行為が、別の文化では悪となることもある。悪党と呼ばれる人間にも、本人なりの言い分がある。世界は一律に白黒つけられるものではないことを、古今東西の文学から教わったのです。
また、僕にとって文学は、社会に対する健全な批判精神を養う教科書でもありました。
権力、金、美醜といった一面の評価によって偏る社会構造の矛盾を暴き出して、それに固執することがいかに無意味であるかを描く。画一的な体制主義にメスを入れて「縦を壊して水平にする」――まさにフラットな目線を読者に与えるのが、文学の持つ力なのだと僕は思うのです。
読書で得た水平志向が、起業の原点に
子ども時代の読書体験で得た「水平志向」は、投資信託を通じて社会を変えていこうと起業を決意したときの思いにも通じます。
一部の産業に集まり過ぎていたお金の流れを変えて、より未来を明るく変えてくれそうな小さな成長企業を支援したい。「レオス・キャピタルワークス」という社名の「レオス」とは、古代ギリシャ語で「流れ」という意味なんです。
起業してこの春でちょうど20年。ここまで試練ばかりでしたが、約1兆円を運用できる会社にまで成長しました。
水入りバケツを持って耐えるしかなかった藤野少年に、少しは世の中を変えられる大人になったぞと報告したいですね。
取材・文/宮本恵理子 構成/長野洋子(日経BOOKプラス編集部) 写真/洞澤佐智子