その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は岡嶋裕史さんの 『思考からの逃走』 です。
【まえがき】
「AIの社会への浸透が進んでいます」
このフレーズを読んで、詳しい方ほど「本当かなあ?」と眉に唾をつけたと思う。AIなんておいそれと実現できるものではないからだ。
実際、ひどい「AI」もある。私の研究室に置いてある扇風機は、扇風機が自称するところによればAI内蔵なのだが、強・中・弱の風速管理と首振り管理をしているだけにしか見えない。機械学習やディープラーニングを駆使しなくても、実現可能だろう。
もちろん、強いAI、弱いAIなどの議論もあり、いまいわれている「AI」は過去に喧伝された人間の置き換えや対等な存在としての人工知能とは様相を異にするものだ。
そもそもの定義や到達地点が変わってしまったのだから、「AI」に関する言説は注意深く取り扱わなければならない。
でも、それをさっ引いて考えても、やっぱりAIの普及は恐ろしいくらい急速に進んでいると思う。有益だからだ。
私たちは情報システムによる自動翻訳を、ちょっと小馬鹿にしてきた。いかにも機械っぽい、ろくでもない翻訳結果を出力してくるからだ。
文字の自動識別プログラムも軽んじてきた。それが数字の8とアルファベットのBをよく取り違えることを知っていたからだ。
適職判定システムは、占いくらいにしか思っていなかった。私は就職活動の時期に、「あなたは哲学者に向いている」と高らかに託宣された経験があるのだが、何をどう解釈しても向いていない職業の一つではないかと思う。
しかし、ある時期を境に、一度は人を失望させたこれらのしくみが、異常に精度を上げてきたのである。
自動翻訳はかなりまともな対訳を吐き出すようになった。海外旅行でちょっと道を尋ねるくらいなら、語学力もポケット辞書も不要なくらいだ。海外からの迷惑メールは、稚拙な日本語で見るも無惨な代物だったが、自動翻訳の精度が上がって騙される人が増えた。
文字認識や発話認識、画像認識は天の高みにまで駆け上がった。いまやAIは山に慣れた人さえ間違えることがあるといわれるシイタケとツキヨタケを弁別し、画像診断において医師と同等の精度で癌細胞を発見する。
連続稼働できる時間や、疲労を知らない点を考慮すれば、ある視点では人間を越えたといっても過言ではないだろう。
やはり、AI、AIと世間が騒がしいのには、裏打ちされた理由があるのだ。すごいからこそ、期待され、口の端にのぼり。すごいからこそ真似をされ、とんでもなく微妙な、名ばかりAIのサービスが人をがっかりさせる。
私たちはこの狂騒に巻き込まれ、いつしか「AIが人間を超えて、この世界の主たる存在になるのはいつだろう」、「AIに仕事を奪われ、職を失ってしまうのではないか」といったことばかりを気にし、話題にするようになった。
当然、これらは気になる事柄だ。それを成さしめている要素技術にも興味がわく。
だが、いま喫緊に思考を巡らせ、議論しておかなければならないのは、ひょっとしたら別のことなのではないだろうか。
先ほどの例でいえば、適職判定AIはかなりの精度で「辞めないですむ就職先」を当てられるようになってきている。私の勤める大学では、学生は正解の確認や答え合わせが好きなようで、就職先が本当にそこで良いかの点検や時には就職先を決めてもらうために研究室を訪れるが、もうその視線の先はAIに向かっている。
これを、「微笑ましいなあ、自分で決めるのが不安なんだろうなあ」、「そこまでして失敗がないように対策しなきゃいけないのか、せちがらい世の中でかわいそうだなあ」と見るのは簡単だ。
でも、この根底にはもっと大きな問題が暗渠のように伏流していると思うのだ。
AIの判断が頼りになるものになった結果、特に物心ついた頃からAIに触れてきた世代にとって、AIに判断を委ねることはごく当たり前のことになった。
それを主体性がないと責めるのは、きっと筋違いだろう。自分より優れたものがあれば、それに仕事を委譲してきた、外部化してきたのが人間の歴史だ。それゆえに、人類の社会はこれだけ発展してきたといえる。
力仕事を重機に任せたり、記憶に筆記具を活用したりすることを良しとせず、「そんなのは堕落だから、すべて自分の腕一本で生きていくんだ」などとやっていたら、いまでも人間は旧石器時代のような暮らしをしていたことだろう。使えるものは何でも利用するのが自然で、効率的だ。
まして、失敗に厳しい社会のありようや経済的な余裕のなさにさらされている年代であれば、失敗しない助言者としてのAIはとても頼もしく見えるだろう。
だが、「AIに判断を任せる」のは、これまで繰り返してきた外部化、たとえば走る力の外部化(自動車)や覚えておく力の外部化(メモやストレージ)とは位相が異なる。それは、人間の核心的な能力である思考の外部化だ。
行き過ぎたアウトソーシングによってコアコンピタンス(中核競争力)を失った企業が迷走し、やがて衰えていくように、ある瞬間を切り取っていくら効率的・合理的に見えたとしても、自らの核になるべき力を手放してしまったら、やはり人の力も衰退し、その存在意義さえ失ってしまうのではないか。そう憂慮している。
本書では、AIに判断や決心を託すことに躊躇がない学生の事例を皮切りに、外部化を重ねると何が起こるのか、AIを提供する企業は何を企てているのか、社会のAI化で到来するといわれている監視社会は実際には何が悪いのか、私たちに残された選択肢は何か、といった主題について述べていく。「考えを手放すこと」について、考えていきたい。
【目次】