その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日はボブ・ウッドワード(著)、伏見威蕃(訳)の『 FEAR 恐怖の男 トランプ政権の真実(新装版) 』。「プロローグ」と「登場人物」をお届けします。
【プロローグ】
トランプが大統領に就任してから八カ月が過ぎた二〇一七年九月初旬、ゴールドマン・サックスの元社長兼COOで、大統領の経済政策の首席顧問である国家経済会議(NEC)委員長をつとめるゲーリー・コーンが、大統領執務室(オーバル・オフィス)のレゾリュート・デスク(大統領の執務机)に用心深く近づいた。
ゴールドマン・サックスに二七年間勤めたコーンは、身長一九〇センチ、禿頭で、押しが強く、自信たっぷりだった。顧客たちが数十億ドルの富を築くのを手伝い、自分も数億ドル稼いでいた。コーンはオーバル・オフィスに立ち入る特権があり、トランプもそれを認めていた。
デスクには、韓国大統領宛の大統領親書の草稿一枚が置いてあった。米韓自由貿易協定(KORUS)を破棄する、という内容だった。
コーンは驚愕した。何カ月も前からトランプは、米韓の経済関係と軍事同盟のみならず、もっとも重要な機密(トップ・シークレット)(最高度の秘密区分。以下の区分は「極秘」と「秘」)の情報活動と情報収集能力の基盤をなしているこの協定を撤回すると脅していた。
一九五〇年代に結ばれた防衛条約のもとで、アメリカは韓国に兵力二万八五〇〇人の米軍を駐留させ、国家機密に属する特別アクセス・プログラム(SAP)を行なってきた。特別アクセス・プログラムによって暗号名が付されるような情報機関や軍の高度な国家機密を韓国から得られる。北朝鮮の大陸間弾道ミサイルは、いまや核弾頭を搭載できるようになり、アメリカ本土を射程に収めている可能性がある。北朝鮮がミサイルを発射したら、三八分でロサンゼルスに到達する。
特別アクセス・プログラムによって、アメリカは北朝鮮の弾道ミサイル発射を七秒以内に探知できる。アラスカの基地の情報収集能力では、探知に一五分かかる──驚異的な時間短縮だ。
北朝鮮のミサイル発射を七秒以内に探知できれば、米軍にはミサイルを撃ち落とす時間がある。したがって、この特別アクセス・プログラムは、アメリカ政府の最重要秘密作戦であるといえる。それに、韓国に米軍を駐留させることは、アメリカの国家安全保障の要だった。
韓国経済にとって不可欠なKORUSの破棄は、米韓関係そのものを瓦解させかねない。トランプが、アメリカの安全保障には欠くことのできない重要な情報資産を失う危険を冒そうとしていることが、コーンには信じられなかった。
韓国との貿易赤字が年間一八〇億ドルに達し、在韓米軍の駐留費用が三五億ドルにのぼることにトランプが激怒しているのが、こういったことすべての原因だった。
ホワイトハウス内の混乱や内輪揉めは、ほとんど毎日のように報道されているが、内部の状況がじっさいにどれほどひどいかを、国民大衆は知らない。トランプは変わり身が激しく、不変・不動であることはめったになく、気まぐれだった。大小さまざまな物事に腹を立て、機嫌が悪くなる。KORUSについても、「きょう破棄する」というようなことを口にする。
しかし、それがいまは大統領親書になっている1。日付は二〇一七年九月五日。安全保障上の大惨事を引き起こす可能性がある。トランプがそれを見たら署名するのではないかと、コーンは不安になった。
コーンは、レゾリュート・デスクから親書の草稿を取り、“保管”と記された青いフォルダーに入れた。
「デスクから盗んだ」コーンはのちに同僚に語った。「あの男には見せない。ぜったいに見られないようにする。国を護らなければならない」
ホワイトハウスもトランプの頭のなかも無秩序に乱れ切っていたので、親書の草稿がなくなったことに、トランプは気づかなかった。
通常、この韓国大統領宛の親書のような書簡は、大統領の書類仕事を取りまとめているロブ・ポーター秘書官(スタッフ・セクレタリー)が作成を担当する。しかし、今回は驚いたことに、トランプに届けられた草稿の出所が不明だった。秘書官は目立たないが、どの大統領のホワイトハウスでも、重要な役割を果たしている。ポーターは何カ月も前から、決定事項の覚書やその他の大統領の書類について、トランプに要旨説明(ブリーフィング)を行なってきた。軍事行動や中央情報局(CIA)の秘密活動のような、安全保障に関わる国家機密の承認事項も、それに含まれていた。
身長一九四センチで、ガリガリに痩せている四〇歳のポーターは、モルモン教徒として生まれ育った。いわゆるひと目につかない人間(グレイマン)だった。ハーバード大学とハーバード・ロースクールを出て、ローズ奨学金も受けていたが、そういったことをまったくひけらかさない、組織人だった。
書簡の草稿には何枚かコピーがあるのを、ポーターはその後、突き止めた。ポーターかコーンが、一枚も大統領のデスクに置かれることがないように気を配った。
この案件はトランプが一時の感情にかられて命じたもので、危険極まりないと判断した二人は、協力して潰そうとした。それに類する書類は、いつのまにか消滅した。トランプが草稿をデスクに置いて校正しようとすると、コーンがひったくり、トランプはそのまま忘れた。デスクに残せば、トランプが署名してしまう。「国のためにやっていたというよりは」コーンはひそかにいった。「あの男がやらないように救ってやったんだ」
アメリカ合衆国大統領の意思と憲法であたえられた権限を脅かす、クーデターにもひとしい行為だった。
政策決定とスケジュールの調整、大統領の書類仕事の処理のほかにも仕事があると、ポーターは同僚に語った。「第三の仕事は、彼のものすごく危険な思いつきに対応して、名案ではなかったかもしれないと思い直すような理由をいくつも教えることだった」
延期、故意の引き延ばし、法的制約といった戦略もとられた。法律家でもあるポーターはいう。
「物事を遅らせる、彼のところへ持っていかない、あるいは──いいわけではなく、正しい理由を挙げて──これは吟味する必要がありますとか、これにはもっと多くの手続きが必要ですとか、法律顧問の承認が得られませんとかいう──書類を大統領のデスクから取りあげる回数の一〇倍はやった。ずっと崖っぷちを歩いているような心地だった」
業務が落ち着いているように思えるときが何日か、あるいは何週間かあると、二人は崖っぷちから数歩離れることができた。「崖から落ちて、行動が行なわれることもあった。つねに崖っぷちを歩いているようなものだった」
トランプは、九月五日付の親書の草稿がなくなっていることには触れなかったが、KORUSをどうしたいかということは忘れなかった。「おなじような書簡が何度かくりかえし作成された」とポーターは同僚に語った。
後日、オーバル・オフィスでの会議で、KORUSについて激しい議論がなされた。「かまうものか」トランプがいった。「この協定にはうんざりしているんだ! 二度と聞きたくない。われわれはKORUSを破棄する」。自分が送りたい親書の口述筆記をはじめた。
大統領の娘婿のジャレッド・クシュナーは、トランプの言葉を真剣に受け止めた。三六歳のクシュナーは、大統領上級顧問で、尊大な態度を身につけている。トランプの娘のイバンカとは、二〇〇九年に結婚した。
クシュナーはトランプにいちばん近いところに座っていたので、口述筆記を引き受けて、トランプのいうことを書き留めた。
親書を書きあげ、私に届けてくれれば署名する、とトランプがクシュナーに指示した。
クシュナーが口述筆記をもとに新しい親書を書こうとしていたときに、ポーターがそれを聞きつけた。
「草稿を送ってほしい」ポーターは、クシュナーに指示した。「こういう親書は、紙ナプキンの裏に書くようなわけにはいかない。政治的に困ったことにならないような言葉で書く必要がある」
クシュナーが自分の草稿の写しを送った。ほとんど役に立たなかった。ポーターとコーンは、大統領の指示どおりにやっていると見せかけるために、タイプした草稿を作成した。トランプは、すぐにやることを求めていた。なにも持っていかないわけにはいかない。その草稿でごまかすつもりだった。
正式な会議ではKORUS破棄反対派が、あらゆる反論を持ち出した──アメリカは自由貿易協定を破棄したことは一度もない、法律問題、地政学問題、重大な国家安全保障・情報問題がある。親書はまだ用意されていなかった。事実と論理を反対派は大統領に浴びせかけた。
「よし、ひきつづき親書を作成してくれ」トランプはいった。「つぎの草稿が見たい」
コーンとポーターは、草稿を用意しなかった。大統領に見せるものはなかった。KORUS問題は、大統領の決定という濃霧のなかでつかのま見えなくなった。トランプは、ほかのことで多忙だった。
しかし、KORUS問題は、消え去りはしなかった。コーンは、ジェームズ・マティス国防長官と話をした。退役海兵隊大将のマティスは、トランプの閣僚のなかでもっとも発言力が大きい。海兵隊勤務四〇年のマティスは、戦闘経験も豊富だった。身長一七五センチで、背すじがまっすぐにのびた姿勢を保ち、つねに、この世の楽しみには興味がないという態度を示している。
「私たちは崖っぷちでよろけている」コーンは、マティスにいった。「今回はすこし応援がほしい」
マティスは、ホワイトハウスを訪れるのを控えて、できるだけ軍事のみに集中しようとしていたが、非常事態だと察して、オーバル・オフィスへ行った。
「大統領」マティスはいった。「金正恩(キム・ジョンウン)は私たちの国家安全保障に直接関わりのある脅威を保有しています。韓国との同盟関係を維持する必要があります。貿易はそれと関係ないように思えるかもしれませんが、じつはそれが中核です」
韓国の米軍と情報資産は、北朝鮮に対するアメリカの防御能力の根幹です。協定破棄はやめてください。
韓国の弾道ミサイル防御システムに、どうしてアメリカが年間一〇億ドルも支出しなければならないのか? とトランプが質問した。終末高高度空域防衛システム(THAAD(サード))への出費が腹立たしくてたまらないトランプは、韓国からそれを引き揚げてオレゴン州ポートランドに配備すると脅していた。
「韓国のためにやっているのではありません」マティスはいった。「韓国を支援しているのは、それがアメリカに役立つからです」
トランプは、不服そうに同意しかけたが、それは一瞬だった。
二〇一六年、大統領候補だったトランプは、ロバート・コスタと私に、大統領という職務の定義を述べた。「なによりもわが国の安全保障が重要だ……それが第一、第二、第三だ……軍隊が強ければ、わが国にとってよくないことが外部から起こるのを防げる。大統領という職務の定義で、それがつねに第一になると私は確信している2」
現実には、二〇一七年のアメリカは、感情的になりやすく、気まぐれで予想のつかない指導者の言動にひきずりまわされている。ホワイトハウスのスタッフたちは、大統領の危険な衝動から生まれたと見なした事柄を、故意に妨害している。世界でもっとも強大な国の行政機構が、神経衰弱を起こしている。
以下はその物語である。
1. 著者の入手した書類。
2. ドナルド・J・トランプとの録音インタビュー、2016年3 月31日。
【登場人物】




