その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は日本経済新聞社(編)の『 「低学歴国」ニッポン 』です。
【はじめに】
日本人の「低学歴」化を見つめる
「日本の学校にこのまま通っていいのか」「自分の子どもを通わせていて大丈夫か」。こんな不安を抱いたことがある生徒や保護者は少なくないだろう。
実際に公立学校に対する不信感は強まっている。大都市部では英語や理数系を強化するなど特色ある教育を打ち出す私立の小学校や中高一貫校の受験ブームが起きている。大学も国内での進学を選ばず、高レベルで個性的な教育内容を求めて欧米への留学を選ぶ高校生が目立つようになってきた。
これらは多くの人が「このままだと日本は世界に取り残される」という危機感を抱いている事実を浮き彫りにしている。
危機的状況は数字が示している。
グローバル社会を生き抜くために不可欠な英語力を見てみよう。スイスの国際語学教育機関の2022年調査では英語を母語としない111カ国・地域のうち、日本人の英語力は80位と前年の78位から順位をさらに落とした。
経済成長の核となるIT(情報技術)分野をけん引する力はどうか。スイスの経営大学院IMDの「世界デジタル競争力ランキング」22年版によると、日本は63カ国・地域中29位と過去最低となり、「デジタル・ITスキルを持つ人材の豊富さ」は62位に沈んだ。
学校教育だけに原因があるわけではないが、状況を軽視すべきではない。
深刻なのが先端研究やイノベーションの担い手である博士号取得者の減少だ。文部科学省によれば22年度の大学院博士課程の在籍者は約7万5000人で2年続けて減った。修士課程から博士課程への進学率は、00年度の約17%が21年度は約10%に低迷している。00年度に約1万6000人だった博士号取得者は19年度に約1万5000人に減った。
海外先進国は増えている。米国(18年度)は約9万1000人、韓国(21年度)は約1万6000人で00年度と比べて2倍超になった。人口100万人当たりでも米国(18年度)が281人、韓国(20年度)が312人で01年度の2倍を超す。日本は120人(19年度)で01年度(127人)に比べて減少。英国やドイツに比べても大幅に少ない水準だ。
博士の減少は研究力の低下に直結する。日本は最新の論文引用調査で質の高い「トップ論文」による世界ランキングが10位にまで落ちた。
いまや「低学歴国」となりつつある日本だが、かつては「教育大国」と呼ばれた。明治5年(1872年)の学制発布により近代的な教育制度の整備に踏み出し、アジア諸国に先駆けて全国に小学校から大学を置いた。ここから巣立った人材は政治・経済から文化、軍事に至るまで、あらゆる分野を発展させる原動力となった。
第二次世界大戦の敗戦で教育制度は大きく見直されたが、国民が子どもや若者の育成にかける情熱は失われなかった。義務教育である小中学校の就学率は100%近くになり、高校進学率も9割以上に達した。エリート養成機関だった大学も大衆化した。大学・短大への進学率は50%を超し、専門学校を含めれば8割の人が高度な教育を受けるようになった。
同一年齢が同じ空間で同じ内容を学ぶスタイルは、決まったマニュアルに沿って正確に作業できる人材を育てるのに適しており、日本が重工業を中心に高度経済成長を遂げるのに役立った。
しかし経済成長の鈍化とともに求められる人材は変わった。生産拠点の中心がコストの安い海外へと移ったことで単純労働の需要は減少。イノベーションが常に求められる時代となり、新たな価値を生み出せる人材こそが必要になっている。
日本が手を打ってこなかったわけではない。文科省は教員が子どもに一方的に知識を教え込むスタイルから脱し、思考力を育成する方向にかじを切っている。にもかかわらず、現在の学校教育に対する社会の評価は高いとはいえない。大胆な改革をしようとしても関係者の既得権益を守る動きに阻まれ、既存政策の微修正に終わる歴史を繰り返してきたからだ。
岩盤のように変化を避ける教育界の体質が変わらない限り、時代にふさわしい人材は育たない―。日本経済新聞社会報道グループ(社会部)の教育担当チームはこうした問題意識を共有し、教育界にはびこる旧弊や不合理なルール、その打開策を探る取材を始めた。
本書は2021年10月から23年1月にかけ、日本経済新聞で掲載した連載企画「教育岩盤」第1~4部の記事をまとめた。紙幅の都合で掲載できなかったエピソードやデータを盛り込み、大幅に加筆・修正した。なお登場する人物の肩書などは原則、取材時のままとした。
入学年齢や時期・学習内容を細かく定める制度、異業種からの学校参入を阻む身内意識、少子化による受験競争の緩和に直面しながら見直し議論が進まない大学入試、深刻さを増す教員不足や保護者のPTA離れ……。本書で取り上げたのはいずれも構造的な問題が複雑に絡み合い、一筋縄では解決しないテーマだ。
子ども・学生、学校・大学、保護者、行政などの立場により、ふさわしいと考える解決策は違うだろう。教育問題に単純な正解はなく、それぞれの考えが異なるのは当然だ。大事なのは「どのような人を育てるべきか」を考えることであり、それは「どのような社会をつくりたいか」を考えることにつながる。本書をその一助にしていただければ幸いである。
2023年3月
日本経済新聞社
【目次】