その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は岡藤正広さんの『 ひとりの商人 岡藤正広 私の履歴書 』です。

【はじめに】

 大阪のとある介護施設に、私が師と仰ぐ人が入居されている。この本が世に出る頃には91歳になられている。持病のため今では体の自由が利かず、ベッドの上で闘病生活を送られている。飯田洋三さん。かつてデサントの社長として同社の経営再建に辣腕を振るった方といえば、ピンとくる読者もいるだろう。高齢ということもあり、もう話すのもひと苦労だという。

 飯田さんとの思い出を語り始めるとキリがない。私にとって商人としての師でありお手本であり、なにより恩人である。
 飯田さんは私が伊藤忠商事の門を叩いた時の上司だった。初めてお会いしたのは1974年だから、もう半世紀も前のことになる。それ以来、私は社長になるまで大阪で繊維一筋。海外駐在の経験もない。商社マンとしては異色の経歴ではないだろうか。

 振り返れば、順風満帆とばかりはいかない歩みだった。20代の頃は希望する営業への異動もかなわずに鬱屈とした日々を過ごしていた。この当時、私は社内外でぶつかることが多く、私としてはしっかり仕事をこなしているにも関わらず辛辣な評判が出回った。「もうこのまま俺の会社員人生は終わってしまうのか」と悲嘆にくれたものだ。
 ようやく営業の現場に出してもらえたと思いきや、他ならぬ飯田さんから「これから1年間は商談の席で一切しゃべらずにノートにメモだけを取っておけ」と命じられた。さすがに屈辱だった。随分と落ち込んだものだが、この直後に初めて飯田さんの親心に気づく。その話は後の章に譲ろう。
 今思えばどん底だった駆け出しの頃も、じっと私のことを見守ってくれていたのが飯田さんだった。その後もずっと飯田さんの背中を追い続けてきた。
 輸入ファッション業界で名をとどろかせるだけあっていつもおしゃれでちょっとキザな人。それでいて、部下が取引先とトラブルを起こせば真っ先に飛んでいって頭を下げてくれる情の人――。私だけでなく多くの人が飯田さんに心酔していた。
 そんな飯田さんが経営難に陥ったデサントの再建のために伊藤忠を去ったのが、私が入社して10年余りの頃だった。当時の私は駆け出し時代と打って変わって意気盛んだった。イヴ・サンローラン、トラサルディ、ジョルジオ・アルマーニ……。ヨーロッパ中を駆け回ってファッション界の大物たちと話を付け、次々と日本に持ち込んでいた。
 「岡藤君は中興の祖ですよ」
 客先など人がいる前では、まだ30代の私のことをこう言って引き立ててくれた。その一方でこっそりと直筆の書を手渡されたことがある。そこには「実るほどこうべを垂れる稲穂かな」と書かれていた。私がテングになっているのを見抜き、初心に戻れと注意してくれたのだ。
 もし飯田さんではなくほかの人から同じことを言われたら、鼻息荒い当時の私は「なにを言うとるねん」とはねつけていたことだろう。飯田さんの忠告だからこそ、このひと言のありがたみが理解できた。

 飯田さんの奥さんからメッセージをいただいたのは、2025年1月に日本経済新聞で「私の履歴書」の連載を終えた直後のことだった。
 ベッドに横たわる飯田さんに、奥さんは繰り返し記事を読み上げたのだという。飯田さんはじっと耳を傾けていたそうだが、最終回まで聞き終えるとほっと和やかな表情になり、ひと言だけこうおっしゃったという。
 「花……、咲いたな」
 その言葉の意図を聞こうと奥さんが飯田さんに問いかけたものの、返ってくる言葉は、もう聞き取れるものではなかったそうだ。
 このやりとりを私に伝えてくださった奥さんからのお便りには、こう記されていた。
 「単調な闘病生活のなかでどんな花を飯田が見たのかわかりませんが、心に花を見られて本当によかったと思います」

 この文面を、何度読み返したことか。右も左も分からぬ若造が飯田さんの背中を追い続けて半世紀。その歩みの節々で受けた恩を思うと言葉が出てこなかった。我が師の心に、いったい私がどんな花を咲かせることができたのだろうか。

 日経新聞から「私の履歴書」の執筆依頼を受けた時には、やんわりとお断りしてきた。そもそも私はまだ現役であり、過去を振り返るのはちょっと早いだろうと思うからだ。それに、過去を振り返るヒマもないというのが正直なところだ。ただ、何度もお話をいただき、ついに筆を執る決心を固めた。
 ここまでの人生、山あり谷ありだ。「私の履歴書」では冒頭で、こんなシーンを描いた。

 忘れもしない。あれは大阪・中之島で見た光景だ。病室の窓から外を見下ろすと、堂島川にかかる田簔(たみの)橋を歩く人々の姿が見えた。2月の寒風が吹きつけている。ホームレスらしき男はうつむきながら、ゆっくりと歩を進めていた。
 「どこにでも自由に歩いて行けるって、あんなええもんやったんやなぁ」
 この時ばかりは心底、こう思った。耳の病気がたたって脳に及ぶ恐れがあると指摘され、緊急入院することになったのだ。1991年のことだ。
 この時、私は41歳。まさに働き盛りを迎える頃だ。毎日が、実に慌ただしく過ぎていた。
 そんな日常が突然、止まった。死の恐怖と向き合う病室での時間というものは、世の中から取り残されたような感覚を助長する。
 「このまま終わってしまうのか……」

 そっと恐怖が押し寄せてくる。
 あの時もそうだった。高校3年で結核に侵され、医師からは「命の方が大事やろう」と大学受験を諦めるよう促された。
 「もしかしたら、このまま……」
 ガリガリに痩せ細った18歳の私は、病室の天井を眺めながら絶望感とひとり戦っていた。退院してからも、同世代の友人の気力にあふれる姿を直視できない自分がいた。
 18歳と41歳。どちらの命の危機も、幸いなことに結局は事なきを得た。
 41歳のこの時は、死の恐怖に直面したのもつかの間のことで、たった20日間の入院生活で済んだ。病室を出て職場に戻るとまた商談に追われる忙しい毎日が始まった。あの田蓑橋の風景を思い出すこともなくなっていた。

 こうして思い返せば栄光や成功だけではない。その裏にいくつもの挫折や葛藤、それに強烈な劣等感といった負の感情を抱えながら走り続ける自分がいた。飯田さんが「花が咲いたな」とつぶやかれたのは、そんな私の影の側面をご存じだからじゃないだろうか。

 新聞の連載でも、どうせ書くなら成功譚を自慢げに振り返るのではなく、その奥にあった迷いや葛藤、時に襲う絶望といった私にのしかかってきた感情とちゃんと向き合うものにしようと考えた。
 この狙いが受け入れられたのか、連載は大きな反響をいただいた。読まれ方のデータが分かる日経電子版を見ると、過去に例のない記録的な数字だったとお聞きした。
 本書はこの「私の履歴書」をベースにしつつ、あのスペースでは収まらなかった出来事や思いを大幅に加筆したものだ。気づけば「私の履歴書」の2倍近い分量となった。
 経営者として、商人としての私の歩みはまだ続く。本にまとめるなら引退してからでも良かったのかもしれない。あえて今、本書にとりかかろうと考えたのは、飯田さんの奥さんから伝えられた言葉が大きい。
 「本を楽しみに頑張るように、頑張って生きるように伝えます」
 今書かないときっと後悔する。そう思い、決意した。

 もっとも、飯田さんだけではない。これまでにお世話になった方々からたくさんの便りをいただいた。一部は「おわりに」で紹介させていただきたい。そのひとつずつがこの本を書こうという原動力になったことだけはお伝えしておきたい。
 ついつい、「はじめに」が長くなってしまった。ここでひとつお断りしておくと、先述の通り私は社長になるまで大阪一筋だ。今もコテコテの大阪弁で話す。そのまま文字にすると多くの方々には読みにくくて仕方がないだろうから、本書は標準語とさせていただく。セリフはどうしても大阪弁が丸出しになってしまうと思うけど。
 さて、前置きはここまでとしよう。本書では、ひとりの商人が向き合ってきた等身大の歩みを赤裸々に再現していこうと思う。この本を手に取っていただいた皆さんには、しばしお付き合いいただきたい。


【目次】

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【著者・編者紹介】

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