その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は橋本宗明さんの 『コロナと創薬 なぜ日本の製薬企業は出遅れたのか』 です。2022年6月13日から10日間限定で、ラジオ日経「聴く日経」特別版にて著者・橋本さんのインタビューがポッドキャスト配信中。本書の読みどころなどをお聴きいただけます。詳しくはこちら



【プロローグ】

モダリティ革新に乗り遅れた日本の製薬産業

 バイオ研究者向けの日経バイオビジネスや日経バイオテクなどの記者として、創薬の現場を取材するようになったのは2001年9月のことだ。その数年前から日経ビジネスの記者として製薬企業の取材を行っていたこともあり、製薬企業との付き合いは長い。

 日経ビジネス編集部に所属した1990年代後半、武田薬品工業の当時の社長である創業家出身の武田國男に何度もインタビューした。日本では断トツのトップ企業である武田薬品も世界では十数位に過ぎなかった。「グローバル企業として生き残るために、必死に改革に取り組んでいる」と武田がしきりに口にしていたのが印象的だった。

 当時、武田薬品は1980年代後半以降に発売した胃潰瘍などの治療薬として4000億円以上の売上高となったタケプロンなど4つのグローバル製品がぐんぐん売上高を伸ばして絶頂期に差し掛かろうとしていた。だが、この4つの製品に続く大型品を生み出すことができず、2010年前後になると業績に急ブレーキがかかる。創薬において「低分子化合物」という旧来型の技術にこだわり、遺伝子組み換え技術という創薬イノベーションへの対応で後手に回り、バイオ医薬品への取り組みが遅れてしまったからだ。

「低分子化合物」「ペプチド」「抗体」「核酸」など治療に用いる物質の種類の違いを製薬業界では「モダリティ」と称する。モダリティの転換に乗り遅れたことで、絶好調だった武田薬品は厳しい状況に追い込まれた。

 現社長クリストフ・ウェバーの下、研究開発のトップに就いたアンドリュー・プランプは研究部門の改革に取り組む以前は、「候補品の85%が低分子化合物だった」と明かした。最新のプレゼンテーションによれば、他のモダリティの候補品が増えた結果、低分子化合物の割合は30%台にまで低下しているという。

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に対しては、「メッセンジャー(m)RNA」という新しいモダリティのワクチンが感染予防と重症化抑制で大きな効果を発揮していることはご存じの通りだ。COVID-19ワクチンで日本企業の存在感が薄いのは、ワクチンの分野でのモダリティ革新に乗り損ねたのが原因だ。ただ、だから日本の製薬企業の創薬力が海外に比べて劣っていると決めつけるのは早計だ。

 何よりもmRNAワクチンを手掛けて成果を手にしたのは、今のところ米ファイザーとドイツのビオンテックのグループとモデルナだけだ。そもそも日本のワクチン産業がグローバル化しておらず、COVID-19ワクチンでの敗因は別のところにある。製薬産業の競争力とワクチン産業のそれとは切り離して考えた方がいい。

 一方で、日本の大手製薬会社とグローバルのメガファーマの間には歴然とした規模の差がある。シャイアーと合併した武田薬品工業が3兆円を超える売上収益でようやく世界の10位前後となったが、世界トップのスイス・ロシュの売上収益はその倍以上だ。国内2位の大塚ホールディングスは世界では20位以下に過ぎない。

 だが、競争力が乏しいと思われがちな日本の製薬産業だが、創薬の力は決して欧米勢に負けていない。「出遅れた」と言われるバイオ医薬品でも、ロシュの傘下に入った中外製薬はコツコツと技術を磨き上げ、驚異的な「創薬エンジン」をつくりだした。年間売上高1000億円を稼ぐ製品、いわゆるブロックバスターをいくつか生み出している。

 第一三共はバイオ医薬品と低分子化合物を組み合わせた抗体薬物複合体で大きな成果を手に入れた。協和キリンはバイオ医薬品の創薬に挑戦し続け、初のブロックバスターを視野に入れる。塩野義製薬は感染症の研究にこだわり続けて、世界が求める抗菌薬を創出した。その塩野義は、新型コロナに対する抗ウイルス薬でも実用化に近いところにいる。

新型コロナウイルスの飲み薬「S-217622」

「当社の創薬史上、最速に近いペースで開発を進めている」

 2021年11月19日にインタビューした際、塩野義製薬社長の手代木功はこう力を込めた。COVID-19の流行が始まる以前、大手製薬企業が感染症領域の研究開発からどんどん手を引いていく中で、塩野義製薬は抗菌薬、抗ウイルス薬の研究開発に取り組み続けた。「感染症みたいな利益率の低いものはやめてしまえと、投資家に怒られた」と手代木は明かす。そんな塩野義がいまや、COVID-19と闘う日本のトップランナーとして注目されている。

 このインタビューを行ったときは2021年6月から9月までの第5波の流行が収束し、オミクロン株による感染が広がる前だった。「日本での感染が激減したので、韓国とシンガポールでも試験を行うことにした。こちらも現地の会社や当局の協力を得て、記録的なスピードで開始できる見込みだ」

 2022年2月7日16時、手代木はその飲み薬、「S―217622」の臨床試験のデータなどを説明するために東京都内で開催した説明会の壇上にいた。説明会では、(1)69例を対象にした早期の臨床試験でS―217622はプラセボと比較して有意に高い抗ウイルス効果を示した、(2)限られた症例数による結果ではあるが、S―217622投与群では重症の患者が発生しなかった、(3)COVID-19の臨床症状の改善傾向が見られた―などを明らかにした。

 塩野義は約400例程度の臨床試験の解析結果に基づいて2月25日、医薬品の審査機関である医薬品医療機器総合機構(PMDA)に条例付き承認制度の適用を希望した承認申請を行った。加えて、グローバルな第3相試験の開始に向けて、米食品医薬品局(FDA)や欧州医薬品庁(EMA)などとの協議を進めている。

 富士フイルム富山化学が創出した抗ウイルス薬のアビガン(ファビピラビル)、2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智が開発に関わった抗寄生虫薬のイベルメクチン、小野薬品工業が創出したすい炎治療薬のカモスタットなど、日本人や日本企業が創薬に関わった医薬品のCOVID-19への貢献は、ことごとく期待外れに終わった。唯一、中外製薬が創出した関節リウマチ薬「アクテムラ」が、国内外で重症のCOVID-19肺炎に使われているぐらいだ。感染症に注力する塩野義の日本での申請がどう扱われるかが注目される(文中敬称略)。

【目次】

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