その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日はKPMGコンサルティング ビジネスイノベーションユニット(編著)の『 慶應大生が学んでいる スタートアップの講義 』です。
【はじめに 日本経済を支える「木」を育てたい】
スタートアップ(新規企業)を起業して大きくしていくことは、「木を育てること」に似ています。
木を育てるためには、まず植えるべき苗木を用意しなければなりません。
しかし、苗木を荒地にそのまま植えておくだけでは大きく育つことはありません。苗木を植える場所で成長の邪魔になる雑草を刈り取り、定期的に間伐や枝打ちを行うなどして、木が育つ環境を何年にもわたって維持しなければなりません。これはたいへん手間のかかる作業です。
スタートアップにとっての「苗木」は、新規ビジネスの核となる技術やアイデアです。たとえ素晴らしい技術やアイデアを持っていたとしても、そのままで利益を生み出すビジネスが勝手に立ち上がるわけではありません。試行錯誤を繰り返しながら提供する製品やサービスの向上に努め、新規顧客を開拓しつつ、規模拡大と収益化を進めていかなければなりません。木を育てるのと同じように、ビジネスの「苗木」を根気強く育てていく努力が必要なのです。
このように手塩にかけて育てられた木々は森林を形成し、多様な動植物の棲(す)む生態系を育みます。山に植えられた多くの木々は雨水を蓄える手助けもしてくれ、治水にも役立ちます。
翻って、成長するスタートアップは、単に新たな雇用を生み出すだけでなく、新しい技術とアイデアの組み合わせとしての「イノベーション」を推進します。その結果として、経済の成長、社会課題の解決、人々のウェルビーイング(心身の健康や幸福)の向上にも貢献してくれます。つまり、すくすくと育つ木々のように、元気なスタートアップは現代経済の活力の源泉なのです。
しかし、懸命に努力したからといって、木が順調に育つ保証はありません。大事に育ててきた木が悪い病気にかかって枯れてしまうかもしれません。あるいは山火事が発生して全ての木々が失われるかもしれません。
スタートアップも同じです。新サービスに期待していたほど顧客が集まらないかもしれません。軌道に乗りそうになった時に、類似サービスを始めた競合企業に顧客を持っていかれることもあります。さらに、突然の災害・疫病や大不況などによる経済状態の悪化で、順調に拡大していた事業が頓挫することもあるでしょう。このようなリスクを乗り越えてこそ、スタートアップを成長させていくことができるのです。
ところで、そもそも林業においてコストをかけ、リスクを負ってまでして木を育てる目的は何でしょうか。
それは、木を大きく育てて伐採し、木材として売るためです。
スタートアップも同じです。スタートアップにおける「出口戦略」とは、いかに高く企業本体を売りに出すかということにほかなりません。最初から売却することを前提に企業を立ち上げるという発想は、伝統的な日本企業の価値観からは出てこないかもしれません。
しかし、スタートアップに出資しているベンチャーキャピタル(VC)にとっては、出資した企業の株式を新規上場(IPO)する、あるいはほかの企業や投資ファンドに売却することで利益を確定することが投資戦略の要です。VCから資金提供を受ける以上は、IPOなどで投下資金の回収を目指さなければなりません。
さらに付け加えると、木を売り続けられることは木を育てる山を維持することにつながります。木がうまく育ったとしても木材の市況が悪化して利益を上げることができないようであれば、先ほど述べた木の育成にかかるコストを回収できないため、林業は経済的に成り立ちません。そうなると人々は林業を離れてしまい、山は放棄されて荒れ放題となり、木が育てられなくなります。
スタートアップも同様です。ひとつのIPOが成功すれば、新たに獲得された資金が次のスタートアップを始める元手となります。そして、この企業のIPOにも成功すると、もっと資金が増えて次の新規事業につながります。このような好循環が生まれることで次々とスタートアップが生み出される環境ができ上がります。
しかし、IPOがうまくいかない状態が続くと、VCからの資金も途絶し、結果としてスタートアップは生まれにくくなります。
イノベーションが起きず、停滞感と閉塞感に包まれている現在の日本経済は、まさにこの「放棄された山林」の状態にあるのではないでしょうか。かつての日本経済を支えた「巨木」は老いて往年の勢いを失ってしまいました。これに代わるべき「若木」はまだ育っていません。木を植えて育てようとする人も限られています。
この状況を打破すべく、次世代を担う若者に起業の必要性とイノベーションの重要性を理解してもらい、1人でも多く起業の道に足を踏み入れてもらうために、慶應義塾大学経済学部は、KPMGコンサルティングの協力のもと、2022年4月より寄附講座「スタートアップとビジネスイノベーション」を開始しました。1年間、合計28回におよぶ講義では、イノベーションとは何か、という根源的な問いに始まり、イノベーションの最新事例を紹介しつつ、実業界で活躍されている起業家を外部講師として招いて講演していただくとともに、スタートアップのために必携のビジネス知識を学生に教えました。
1年間という長丁場の授業の成果を目に見える形にまとめるとともに、その授業内容を広く社会と共有するため、日経BPの協力を得て授業のエッセンスを一冊の書籍にまとめ上げました。本書がきっかけとなり、起業に対する日本社会の理解が進むとともに、本書の内容に触発された読者が将来起業家となって日本経済を牽引(けんいん)してくれることを期待してやみません。
2023年6月
慶應義塾大学 経済学部教授 中妻照雄
【目次】
