その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は世界経済フォーラム会長のクラウス・シュワブ氏、ピーター・バナム氏の 『ステークホルダー資本主義 世界経済フォーラムが描く、80億人の希望の未来』 です。

【はじめに】

 2020年の2月初旬、私はジュネーブのオフィスにいた。椅子に座り、この本についてスタッフと話していたときに、オフィスの電話が鳴った。今思えばこれが、いわゆるBC(コロナウイルス前)/AC(コロナウイルス後)を分ける瞬間だった。このときに、新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的大流行)前の時間から、その後にやってくる現実へと、スポットライトの当たる場所が切り替わったのだ。

 その電話を受けるまで、私とスタッフの頭を悩ませていたのは、気候変動や経済格差のような世界経済の長期的課題だった。私がそれまで深く掘り下げてきたのは、第二次世界大戦の終結から75年、世界経済フォーラムの創設から数えると50年の間に成立したグローバル経済システムについてであった。メリットや妥協点、リスクなど、今日のグローバル化した世界が抱える様々な要素を検討し、今後50年、あるいは75年の間に社会がどのように変わるべきかをじっくりと考えた。これからの世代にとってより公平で、サステナブル(持続可能 訳注:将来世代のニーズを損なうことなく現在の世代のニーズを満たす、人間・社会・地球環境の発展の仕方を指す)で、レジリエンス(回復力 訳注:自然災害などの想定外の事態に対し、社会や組織が機能を速やかに回復するための強靭さ)が高い社会を目指そうと、心に決めていた。

 ところが、たった1本の電話で、その長期的な行動計画はひっくり返された。私は目の前の危機に目を向けた。その危機には、やがて私たち全員が、つまり地球上すべての国の人々が直面することになる。

 電話は中国からで、相手は北京事務所の所長だった。いつもなら、こういう電話で話題になるテーマは決まっている。すでに立ち上げている取り組みや、プログラムの進捗状況などだ。ところがその電話は違った。所長が私に電話してきたのは、その冬の初めに中国を襲った疫病についての最新情報を報告するためだった。それが、新型コロナウイルス感染症だ。

 かなりの確率で深刻な呼吸器疾患を引き起こすこのウイルスの感染者は、最初は武漢市内に限られていた。それがたちまち、中国全土において公衆衛生上の大問題になっていた。所長はこのように説明した――北京市民の大半が、旧正月を故郷で祝おうと市外に出ていたが、その人たちが戻ってきて新型コロナウイルスを運んできたので感染者数が急増した。そして、この国の首都がロックダウンされたのだ、と。

 所長は終始冷静に、ロックダウンが私たちの従業員や業務に及ぼす影響について客観的な事実を説明した。しかしその声からは、彼の動揺が伝わってきた。家族や自分が日々接する人がひとり残らず影響を受け、感染のリスクにさらされ、ロックダウンという措置を突き付けられていたのだから。

 中国当局の施策は思い切ったものだった。従業員は無期限に在宅勤務をせざるを得なくなり、自宅マンションから出るには、非常に厳しい条件をクリアしなければならなかった。少しでも症状が見られた人は必ず検査を受けさせられ、ただちに隔離される。

 こうした厳格な施策をもってしても、健康への脅威が抑制できるかどうかは未知数だった。人々が家に閉じこもっていても感染症はまたたく間に広まっていったので、ウイルスに感染するかもしれないという恐怖は募った。同時に、病院から入ってくる情報によると、この病気は極めて感染力が高く、治療が難しく、医療システムを圧迫していた。

 スイスに話を戻そう。COVID(新型コロナウイルス感染症)を引き起こすウイルス(SARS-CoV-2)については、2020年1月末に行われた世界経済フォーラムの年次総会で話を聞いていた。公衆衛生に関する討議の場で、アジアからの参加者、あるいはアジアで主要な業務に携わる参加者が話題にしていたのだ。しかし、私はあの電話で話を聞くまで、過去のコロナウイルス感染症であるSARS(重症急性呼吸器症候群)やMERS(中東呼吸器症候群)で封じ込めに成功したように、大流行になっても限られた地域における短期間の流行で済むことを願っていた。私のスタッフや友人、そして家族の身には影響が及ばないことを期待していたのだ。

 その電話での会話を境に、私はグローバルな公衆衛生の脅威についての認識をあらためた。それから数日、いや数週間のうちに、私は本書の執筆作業を中止し、世界経済フォーラムに危機管理体制を敷いた。スペシャルタスクフォースを立ち上げ、全従業員にリモートワークを呼びかけ、すべての業務のリソースを国際的な緊急対応の支援に振り向けた。

 これは、決して先走った措置ではなかった。その1週間後には、ウイルスの影響で欧州の都市の多くがロックダウンに追い込まれ、さらに数週間後には、世界の大部分が似たような状況に見舞われていた。米国も例外ではない。それから数カ月で、数百万人が亡くなり、あるいは病院に収容され、何億もの人々が職や収入を失い、おびただしい数の企業や政府が破綻し、あるいは破綻も同然の状況に追い込まれた。

 私はこの序文を2020年の秋に書いている。現時点で、パンデミックの第一波がもたらしたグローバルな緊急事態はおおむね収まったが、感染の第二波が押し寄せ、世界は再び厳戒態勢に入りつつある。世界中の国が社会経済活動を慎重に再開したものの、経済回復にははっきりと濃淡が出た。中国はいち早くロックダウンを終わらせ、ビジネスを再開させた大国の一つだ。しかも、2020年全体で見れば経済成長すら見込まれる。

 世界経済フォーラムの常駐拠点があるジュネーブ、ニューヨーク、サンフランシスコ、東京の状況は対照的だった。国民生活は一部再開していたが、かなり薄氷を踏むようなやり方だった。世界中で、多くの命や生活が失われた。巨額の資金が投入され、政府、事業活動、人々の生活をなんとか維持させていた。すでにあった社会の分断は深まり、新たな分断も生じた。

 そろそろ私たちも、最初の危機についてはある程度距離を置いて見ることができるようになったが、そこで見えてきたのは、パンデミックとその影響が、現在のグローバル経済システムに以前から存在した問題と切っても切れない関係にあるということである。そう考えると、北京から運命の電話を受けた2020年2月のあの日、スタッフと話し合っていたことを私は思い出す。

 私たちがこれまで行ってきた数多くの分析は、かつてない真実味を帯びてきている。これから本書で皆さんに紹介するのは、格差の拡大、成長の減速、頭打ちになっている生産性の向上、持ちこたえられない水準まで増加している負債、気候変動の加速、社会問題の深刻化、そして世界が抱える喫緊の課題について、グローバルな協力体制が敷かれていないことに関する私の見解である。その上で皆さんにご理解いただきたいのは、こうした見解が、ポストコロナの世界であってもコロナ前と変わらず、成り立つということである。

 ただし、「BC」から「AC」に切り替わる境目の時期に、変わったことが一つある。これはあくまでも私の感触だが、より良い世界を作るには、人々が協力し合うことが欠かせないという点を、人々や企業のリーダーたち、それに政府は痛感したのではないだろうか。ポストコロナの世界は、今までとは違うやり方で立て直すべきだという考えが世間一般に広まっている。

 ある日突然、世界全体を飲み込んだ新型コロナ危機は、じわじわと変化をもたらす気候変動や、拡大する一方の経済格差よりも、はるかに強く私たちを揺さぶった。しかし、おかげで見えてきたことがある。自分さえ良ければいいという考えで短期的な利益に左右される経済システムは、サステナブルではまったくないのだ。それはいびつで脆弱であり、社会、環境、そして公衆衛生にとって最悪な事態をもたらしかねない。新型コロナ危機でもお分かりになっただろう。思いがけない大災害が続いたら、公共システムには耐え難い負荷がかかるのだ。

 本書で私は訴えたい。利己的な価値観、つまり短期的な利益をひたすら追い求め、租税や規制の抜け道を探す、あるいは環境に及ぼす害を他人事にしながら動く経済を、私たちはもう続けることはできない。それよりも、すべての人々と地球全体のことを考えて作られる社会、経済、そして国際的なコミュニティーが必要だ。もっと言えば、西側諸国で過去50年の間に広まった「株主資本主義」というシステムや、アジアで台頭した国家の優位性に重点を置く「国家資本主義」というシステムから、「ステークホルダー資本主義」という体制に私たちはシフトすべきだ。これが、本書の核心にあるメッセージである。次章以降で、どのようにすればこのような社会体制が築けるのか、そして今なぜ、そのように行動すべきなのかを説明しよう。

 第1部(第1章から第4章)では、1945年以降のグローバル経済の歴史を大まかに、西洋とアジアの両方について説明する。その中で、加速する経済成長や格差、環境の悪化、それに、将来の世代への負債など、今私たちが生きている経済システムの主な成果、そして欠点を説明する。社会的トレンド、たとえば政治的な二極分化が経済状況や社会のガバナンスにまで影響を与えることにもふれる。第2部(第5章から第7章)は、経済的課題あるいは経済の発展について考えられる原因と結果を深く掘り下げていく。その中で技術革新、グローバル化、貿易や天然資源の利用が果たす役割を見ていく。最後に第3部(第8章から結論)では、今のグローバル経済システムにどのような変化を起こし得るかを検討する。そこで、ステークホルダー資本主義がどういうものかを紹介し、それが政府、企業、市民社会や国際組織に、実際にどのような意義をもたらすのかを説明する。

 私は本書の執筆に当たり、公平で偏りのない姿勢を貫くことを心掛けた。今まさに起きているグローバルな問題について記述する時も、その原因と結果について推測する時も、世界をより良い方向へ世界を発展させるために私が見出した解決策を述べる時も、その姿勢は変わらない。

 とはいえ、ここで補足しておかねばなるまい。ここで示すのは私個人の考えなので、それにはどうしても私自身の人生経験の色が付く。子どもの頃、学生の頃、社会人になりたての頃に、それぞれ私の人格形成に影響を及ぼした個人的な経験を、いくつか本書の最初の章でご紹介するので、読者に私の世界観をご理解いただくのに役立つことを願う。その世界観は、社会や経済にとって最善の効果は協力関係からもたらされるという信念の上に成り立つ。協力関係は公共セクターと民間セクターとの間でも、あるいは世界中のどの国家と国民との間であっても変わりはない。

 この本を読むすべての人が、本書をきっかけにそういった社会システムの立ち上げに加わってくれるならば、著者としてこれほど嬉しいことはない。協力してインクルーシブ(包括的 訳注:誰一人として排除したり、孤立状態に追い込んだりせず、あらゆる人を社会の構成員として包摂している状態)でサステナブルで平等な経済システムを立ち上げることができたら、新型コロナウイルス感染症がもたらした負の遺産――多くの命が失われ、生活やその糧を壊されたこと――を、もっとレジリエンスのある世界に進む指針に変えられるだろう。私たちの世代にとってのポストコロナの世界は、私の親の世代にとっての第二次世界大戦後の世界になるのかもしれない。今こそ、団結のときだ。昨日までの過去は、もはや誰も望まない世界の色あせた思い出だ。今日、そして未来は、すべての人が豊かになる世界を作るチャンスになる。

 第二次世界大戦が終わってから何十年もかけて、自国に社会契約という考えを取り入れながら、私たちは豊かな世界を作り上げてきた。それだけではない。平和維持や協力体制の育成、財政基盤の創出を目指す、多くの国が関与する組織も私たちは創設した。世界銀行、国際通貨基金、そして国際連合がそうだ。

 今こそ、ポストコロナの復興を足掛かりとして、それぞれの場所――企業や国――でステークホルダー資本主義を立ち上げていただきたい。もっとサステナブルなグローバル経済システムが世界中で動き出すことを、私は願ってやまない。

2020年12月 ジュネーブにて
クラウス・シュワブ
この本を手に取ってくださった皆さんに、感謝をこめて。


【目次】

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