その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は杉野貴美廣さんの『 半導体ビジネスの地図 投資・就職・事業判断を導く構造と力学 』です。「序章」をお届けします。
【序章】半導体ビジネスの地図
二〇二六年六月、半導体産業は世界規模で活況を呈しています。半導体市場の調査を続けてきた業界団体WSTS(世界半導体市場統計)が同月に公表した予測では、二〇二六年の世界半導体売上高は過去に描かれてきた成長の予測線を大きく超え、前年から約九割増の約一兆五千百億ドルに達すると見込まれています。
これらの数字を一気に伸ばした牽引(けんいん)役は、データセンターに収められる記憶用の半導体です。この数年で立ち上がった人工知能(AI)の計算需要によって、ほんの少し前まで研究室の話題に過ぎなかった技術が、世界中で使われるようになり、巨大な需要を生み出しました。
活況の裏側で、私は一つの問いを受け取りました。「日本に先端半導体の工場ができたら、日本製のAIチップを造れるのですか」という、率直な問いです。背景には、二〇二〇年代に入って進む九州や北海道での先端工場の建設があります。工場が国内にできるなら、最先端のAIチップも国内で造れるはずだ。そう考えるのは自然なことです。けれども、この問いにその場で答えられる人は多くありません。産業の全体像が、まだ十分には共有されていないからです。
私はこれまで、長く半導体の世界で仕事をしてきました。出発点にあったのは、半導体そのものよりも、デジタルの計算機がどのような仕組みで動くのかという関心でした。その関心のままに、コンピューター用チップの開発と事業化に携わり、米国シリコンバレーでの開発や、世界各国での販売と事業づくりに加わる機会に恵まれました。振り返れば、得難い経験を重ねてこられたことに、心から感謝しています。
そうした来歴のためか、私のもとには立場の異なる人たちから半導体に関わる切実な問いが数多く寄せられます。子どもの就職、新しい事業への投資、学生の進路。問いの形は様々ですが、共通点が一つあります。産業の全体像を持たないまま、断片的な情報だけで判断し、そこから誤解が生まれているように見えることです。一つの記事、一つの数字、一つの威勢の良い見出し。そのどれもが間違いではないのに、つなぎ合わせる地図がないために、結論だけが独り歩きしてしまいます。
そこで本書は、この産業の全体像を一枚の地図として描き、いま必要としている人の手に渡すことを目指します。地図と呼ぶのには理由があります。土地の形だけでなく、そこを動かす風や潮の流れまで描いてこそ、地図は使えるものになるからです。半導体産業についても同じです。どの国のどの会社がどの工程を握っているのか。その配置がどんな力でいまの形になり、これからどこへ動こうとしているのか。なぜ一九八〇年代に日本が強かったのか、そしてなぜ力を失ったのか。国家と企業と個人の動きを含めて見なければ、いまの位置の意味も、これからの針路もつかめません。
かつて半導体は、一部の技術者や投資家が関心を寄せる専門の分野でした。いまは事情が変わりました。どの国がどの工程を担うかが、企業間の競争であると同時に、安全保障の問題としても語られるようになっています。冒頭の工場建設も、一企業の設備投資という枠を超えて、国家が関わる主題になりました。半導体の動きを伝える数字が、新聞の経済欄だけでなく政治欄にも並ぶようになったのは、ここ数年のことです。だからこそ、立場の違う多くの人が、同じ一枚の地図を手にする意味があります。
理解を助けるために、本書では一つの比喩を使います。半導体の工場を、出版業界における印刷工場になぞらえる見方です。書籍や雑誌は、出版社が企画し、多くの書き手が原稿を書き、編集を経て、一つの書物として世に出ます。半導体の工場は、極めて複雑で精密な工程と巨額の投資を必要とする印刷所にあたり、「半導体製品を刷る場所」と捉えると見通しが良くなります。立派な印刷所があっても、企画する人と原稿がなければ本が生まれないのと同じで、工場があることと、設計から製品までを自前でそろえられることは、別の話です。企画や制作にあたる部分には、半導体メーカーや製造装置のメーカーなどが連なり、用途ごとに入り組んだ産業の構造を形作っています。
ここで、冒頭の「日本製のAIチップを造れるか」という問いに戻ってみます。工場ができれば、製品を刷ること自体はできるようになります。けれども、何を刷るかを決める設計や、刷るために欠かせない装置や材料を誰が握っているかは、また別の問題です。この問いに落ち着いて答えるには、印刷所そのものだけでなく、その前後に連なる工程まで含めた一枚の地図が要ります。本書が描こうとしているのは、まさにこの地図です。
本書には、二本の軸があります。一本目は「空間の軸」です。誰がどの工程を握り、どこに価値と交渉力が集まるのかという、産業の配置です。二本目は「時間の軸」です。半導体の微細化を原動力に、半世紀にわたって計算の性能が上がり、値段が下がり続けてきたという、計算コストの推移です。
過去半世紀は、回路を細かく刻む微細化によって計算が一方的に安くなり続けた時代であり、その前提の上に、多くの事業や暮らしが組み立てられてきました。ところが、いまAIが計算の需要を爆発させる一方で、計算を安くしてきた力には陰りが見え始めています。言い換えれば、私たちが当たり前に受け取ってきた進歩による価格の恩恵が、失われつつあるのです。
この前提が揺らぐとき、誰が得をして、誰が苦しくなるのか。需要は跳ね上がり、安くする力は鈍る。二本の軸は、別々に走っているわけではありません。地図の上で計算の値段が変わるとき、有利な場所もまた動いていきます。この交わりこそ、本書を貫く問いです。
想定する読者像は、主に三つです。一つ目は、これからこの産業に関わろうとする若手や学生、転職を考えている人たちです。二つ目は、全体像をつかんで自社の事業に役立てたい企業の人たちです。三つ目は、この産業の再興を願う行政や政治、企業の管理職にある人たちです。本書は、専門家同士が議論するための本ではありません。この産業の入り口に立つ人が、構造や仕組みを誤解せずに全体像をつかむための一冊です。立場が違えば、知りたいことも、急ぐ理由も変わります。進路に悩む人と、投資を判断する人と、政策を立てる人とでは、地図の使い道は同じではありません。それでも、出発点として広げる一枚は、同じもので足ります。本書は、その共通の一枚でありたいと考えています。
ですから本書がお渡ししたいのは、答えそのものよりも、答えを自分で考えるための基本の地図です。これは、正解を配る本ではありません。あなたが自分の針路を描くための地図です。本書は、全3部構成になっています。第1部では、半導体産業のいまの構造を、一枚の地図として描きます。ここで主に引くのは空間の軸――誰がどこを握るのかという軸です。
第2部では、その地図のどこが産業全体の急所になっているのか、そして配置をいまの形にしてきた力学をたどります。空間の軸でいえば価値と交渉力が集まる急所を、時間の軸でいえば計算を安くしてきた微細化の歩みとその陰りを、合わせて見ていきます。かつて世界の頂点に立った日本が、なぜ後退したのかも、ここで扱います。その問いは、これから何をすべきかを考えるための手掛かりにもなります。
第3部では、二本の軸が交わる先を見ます。これから訪れる変化の兆しと、読者それぞれの立場からの関わり方を考えます。
半導体の話は、遠い世界の専門的な出来事に見えるかもしれません。けれども、それを動かしている力は、私たちの仕事や暮らしの選択と地続きです。地図を手にした人は、ニュースの数字に振り回される側から、その数字が何を意味するのかを自分で読み解く側へ移ることができます。構えずに、地図を片手に、この産業を一緒に歩いていきましょう。
著者について
〈執筆〉
杉野貴美廣(すぎの・きみひろ):日立製作所で、大型計算機、通信画像機器に向けた半導体の開発に従事し、同社のシリコンバレー部門ではプロセッサーの開発に携わりました。帰国後は世界各国の顧客を訪ね、製品の拡販にあたりました。ルネサスエレクトロニクスではマーケティング部門で戦略の企画を担い、インテルではファウンドリー、データセンター、自動車に向けたプロセッサーの事業を担当しました。現在は起業し、F2Fグループの代表取締役を務めています。
〈執筆協力〉
佐藤喜男(さとう・よしお):日立製作所でスーパーコンピューター向けCPU評価、ルネサスエレクトロニクスで車載SoC設計、MPU製品企画・事業戦略を担当。現在はMCU・MPUのグローバルパートナー戦略を統括。英・独・米で計十年の駐在経験を持ち、技術・事業・国際連携から半導体産業の発展に取り組んでいます。
水垣重生(みずがき・しげお):ルネサスエレクトロニクス元取締役兼マイコン事業本部長としてマイコン事業のグローバル化を推進。五年間の米国駐在でIoT向けプラットフォームの新規事業開拓を行った後、帰国して独立。B2Bマーケティングを中核とするコンサルタントM'z Officeとして市場活動を行っています。
【目次】






