その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は藤井彰夫さんの『 「正義」のバブルと日本経済 』です。
【はじめに】
読者の皆さんは「正義」という言葉にどのようなイメージを持つでしょうか。スーパーマンやウルトラマンや仮面ライダーなどのアクション・ヒーローは、みんな「正義の味方」です。彼らが対決する相手は宇宙からやってきて地球を破壊する怪獣や、世界征服をたくらむ悪の秘密結社という「悪」です。この悪者をやっつけるヒーローはまさに「正義」の側にいる者ということになります。
ただ、アクション・ヒーローでも米国のコミックから生まれた「バットマン」はかなり趣が異なります。特に近年の米ハリウッドでつくられている映画シリーズのバットマンでは、従来の「正義の味方」から、本人も悩む姿も加えた「ダーク・ヒーロー」という色合いが濃くなっています。
米映画「スター・ウォーズ」シリーズでも、もともとは正義の側にいたはずのアナキン・スカイウォーカーがダークサイドに落ちてダース・ベイダーになる姿が描かれ、善悪二元論に一石を投じています。
この本は「正義論」を語るのではなく、日本経済についての本です。私は新聞記者として約40年、日本経済をながめてきました。そのなかで何度か海外で仕事をする機会があり、その時に遠くから日本の姿を一歩引いて客観的にみることができたような気がします。
特に、今から30年余り前の日本のバブル経済の発生とその崩壊、その後の日本経済の苦闘期に、「正義」がどのように日本で語られ、それがいかに経済に影響したかについて考えるようになりました。
英語でナラティブ(narrative)という言葉があります。日本語では物語などと訳されることが多いようです。2013年にノーベル経済学賞を受賞した米経済学者のロバート・シラー教授は『ナラティブ経済学』(山形浩生訳、東洋経済新報社)という本で、人々の語る「ナラティブ」がいかに経済に影響を与えてきたかを分析しました。あるナラティブは「根拠なき熱狂」となって人々の行動を変えて経済を大きく動かしてきたといいます。
本書ではいくつかの「正義」のナラティブがどのように日本経済に影響し、時にゆがめていったかをみていきたいと思います。特に私が注目したいのは、その時は多くの人が賛同あるいは反対できない「正義」のナラティブがいきすぎて、「正義」のバブルになり、経済政策に悪影響を及ぼしたと思われる例です。
ちょうどこの本の執筆にとりかかったころ、テレビのニュース番組などを騒がせていたのが「マイナ保険証問題」でした。今の健康保険証をマイナンバーカードに切り替える作業の過程で、個人情報の誤登録など様々なトラブルが発生し、人々の怒りが沸騰し、社会問題になったのです。
今の保険証に慣れている高齢者などが、マイナ保険証への切り替えを不安に思っているのは確かでしょう。その方々の不安を取り除くための丁寧な説明と対応が必要なのは言うまでもありません。誤って個人情報を紐付けられたケースについても、間違いを迅速に正していくことが欠かせません。
ただ「国民の安心が第一だ」「プライバシー保護の優先を」という正義の言葉を前にして、マイナ保険証に象徴される医療分野のデジタル改革を止めてしまうのは間違いだと思います。2020年以降の新型コロナウイルスの感染大爆発であらわになった日本の弱点を改善するためにもデジタル改革は必要です。紙による手作業や、ほかの先進国ではオフィスから姿を消したファクスやフロッピーディスクなどがいまだに使われている日本では、アナログ業務をデジタル化することが経済の成長には不可欠です。私は、今回の騒ぎで皆が反対しにくい「正義」のバブルが膨らむことで、必要な改革がスローダウンしてしまうことを恐れています。
こうした騒動には既視感を覚えます。同じような光景をこれまでも何度かみてきたような気がするのです。例えば、アジア・太平洋地域の自由貿易圏をつくる環太平洋経済連携協定(TPP)交渉です。TPPは最終的には2018年12月に発効するのですが、その前の加盟交渉では日本国内で様々な反対運動が起こりました。
TPPに入ると外国の民間医療保険が入ってきて、国民のすべてが医療を受けられる「世界に冠たる」日本の健康保険制度が崩壊してしまうという物語が語られ、「国民皆保険を守れ」という反対運動が起こりました。TPPによる関税引き下げで日本の農村と農業は壊滅してしまうので「日本の農業を守れ」という声もあがりました。実際にTPPに加盟してもそんなことは起きなかったのですが、「国民皆保険を守れ」「瑞穂(みずほ)の国の農業を守れ」という「正義」のナラティブにTPPをめぐる国内議論は迷走を重ねました。
「拙速な改革はやめよ」「今は立ち止まる時だ」「安心・安全が第一」──。いずれも、正論に聞こえますが、時としてこのような声が必要な改革を止めたり、遅らせたりしてしまうこともあります。
要はバランスの問題です。本書では、過去の日本経済を振り返りながら、「正義」で熱くなりすぎる「正義」のバブルのリスクを考えていきます。英国の著名経済学者アルフレッド・マーシャルは、経済学者の心構えとして「クールヘッド(冷静な頭脳)とウォームハート(温かい心)=cool head, but warm heart」という言葉を遺しました。
正義感から怒りに震えている時ほど、少し落ち着いて冷静に分析し、何が真の問題かを考えるべきでしょう。私も常に仕事で自問自答していることですが、本書では過去の日本経済の事例を具体的に振り返りながらこの問題を考えていきたいと思います。
これからの章は、それぞれ独立したお話になっていますので、見出しを見て興味のあるところから読んでいただいても結構です。
【目次】




