その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」をご紹介します。今日は楠木建さんの『 楠木建の頭の中 戦略と経営についての論考 』です。

【はじめに】

 完全競争下での余剰利潤はゼロになる──ミクロ経済学を勉強した人であれば誰もが知る基本中の基本です。

 経済学(economics)の中核には物事を効率化(economize)しようとする思考様式があります。経済学は完全競争を基本的には「良い」状態であると考えます。なぜならば、世の中の効率は完全競争の下で極大化するからです。独占禁止法という法制度にしても、その根底には完全競争による効率を尊重するという考え方があります。

 経済の中に個別の企業活動があるのは言うまでもありません。ところが、経済学と経営は基本的な考え方において正反対を向いています。本書の中で繰り返し論じているように、あらゆる企業経営は長期利益を追求するものです。しかし経済学が想定する完全競争になってしまえば理屈からして利益を出すことはできません。

 だとすればどうしたらよいか。経済学が想定する完全競争の前提を壊すということです。完全競争にはいくつかの条件があります。その一つに「みんな同じ」──取引される財が同質で完全に代替可能であること──があります。完全競争の世界では個々のプレイヤーには「顔」がありません。企業間に違いがあれば完全競争にならず、利益を生み出すことが可能になります。したがって「競合他社に対する違いをつくる」、ここに競争戦略の根本があります。

 しかし、です。よほど特殊な状況にない限り、商売は常に競争に直面します。一時的に競争相手との違いをつくり、短期的な利益をものにすることはできたとしても、長期利益の獲得はいよいよ難しい。

 完全競争の条件の一つに完全情報──すべての買い手と売り手がお互いについての情報を完全に保有している──があります。インターネットの登場以来、情報の流通と獲得のコストは飛躍的に低減しました。売り手と買い手の間の情報の非対称性は以前と比べてはるかに小さくなりました。競合他社のパフォーマンスや行動についての情報も即座に手に入ります。コンサルタントは常に最新のベストプラクティスを教えてくれます。優れた経営システムはITを活用したシステムやツールに組み込まれ、企業を越えて移転可能となりました。つまり、今日の競争は以前と比べて完全競争に近づいているということです。

 ある企業が他社と違うことをやって利益を出していたとしても、他社に真似されてしまえば違いはなくなり、利益もまたなくなってしまいます。にもかかわらず、強い企業は依然として強い。競争がある中で、なぜある企業は他社を上回る利益を持続的に生み出せているのか。その背後にある論理はなにか。競争戦略の分野で仕事をしている僕は、ずっとこの問題を考え続けてきました。

 この大きな問いを前にして、新聞や雑誌、オンラインメディア、個人で運営している有料ブログなどで僕が書き連ねてきたさまざまな論考を一冊にまとめたものが本書です。第1部「戦略論」は、企業の競争優位と競争優位の源泉についての僕なりに考えた論理や、事例に基づく戦略の考察を収録しました。第2部「経営論」には、競争戦略についての論考から派生した経営論・経営者論をまとめてあります。第3部「戦略対談」では、経営者との対話を通じてそれぞれの戦略ストーリーを解読します。

 本書に収録された論考で用いている数字やデータは原則的に執筆当時のものです。10年近く前に書いたものもあるので、現在のものとは変わっています。それぞれの論考の初出年月は文末に記してあります。執筆時期を念頭に置いてお読みいただければ幸いです。ただし、僕の考えや主張は執筆時点と変わっていません。そう簡単に変わってしまっては「論理」とは言えません。

 これまでに書き溜めた大量の原稿を取捨選択し、一冊の本にまとめる上で日本経済新聞出版の永野裕章さんにはひとかたならぬお世話になりました。深く感謝いたします。また、戦略論考以外の仕事や生活についての評論・随筆は、同時に刊行された姉妹書の『楠木建の頭の中 仕事と生活についての雑記』に収めています。気が向いたら、こちらもお読みください。

 僕は自分で経営をしたことはありません。これからもするつもりはありません。この仕事を始めて30年以上、考えては書くという作業に明け暮れてきました。あっさり言って、口先だけの仕事です。それでも、口舌の徒なりに大切にしてきたことがあります。現実の企業にあって経営を担う人々に少しでも有用な論理──いろいろあるけれど、ようするにこういうこと──を提供したい。実業に従事していない僕には考える時間がたっぷりとあります。日々の仕事で忙しく、ゆっくりと考える時間がない経営者に成り代わって本質的な論理を考える──思考代行業こそが自分の仕事だと心得ています。

 経営者をはじめ、企業活動を支えるあらゆる人々にとって、本書に収められた論考が何らかの役に立てばそれに勝る喜びはありません。

令和六年秋
楠木 建

【目次】

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