その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日はニーアル・ファーガソン(著)、村井章子(訳)の『 キッシンジャー 1923-1968 理想主義者 』。2分冊で「1」が584ページ、「2」が712ページからなる大著から「INTRODUCTION 序章」の第7節と第8節をお届けします。国務長官などとして世界と対峙し、米国外交に多大な影響力を持ち続けたキッシンジャー氏。その存在感の大きさ故に、絶大な評価や尊敬を受ける一方、辛辣な批判や嘲笑の対象になることも。さて、そうした毀誉褒貶(ほうへん)の先に著者が見いだす実像とは?

【INTRODUCTION 序章】

第7節

 キッシンジャーは、大方の批判者が考えたように、ほんとうに現実主義者だったのか。この問いの答は重要な意味を持つ。何となれば、キッシンジャーが現代版メッテルニヒやビスマルクでないなら、政策決定者としての彼の行動は、「手段の如何を問わずアメリカの利益に最大限寄与したか」という標準的な現実主義の基準で判断すべきではないからだ。ロバート・カプランは、「現実主義は、外交政策における究極の道徳的野望について言う言葉である。その野望とは、力の均衡によって戦争を回避することだ……キッシンジャーはヨーロッパ・スタイルの現実主義者であり、大方の自称モラリストよりは徳や倫理について考えていた」と書いている。キッシンジャーの「高い道徳的目的」へのマズリッシュの懐疑的な言及同様、陰謀論者が大好きな道徳批判に比べればよほどましではあるものの、やはり的外れと言わざるを得ない。

 一九七六年に政治家としての自身の功績を評価するよう求められたキッシンジャーは、こう答えている。「歴史家がどの成功で判断するとしても、私自身はすべてに優先する基準を持とうと努めてきた」。後段で述べるように、キッシンジャーが一九六九年にそうした基準を持ってホワイトハウス入りしたことはあきらかだ。実際彼はそれまでの二〇年間の大半を、基準の確立に費やしてきた。「高い地位は意思決定をすることは教えるが、決定の本質は教えない。意思決定は知的資本を消費するだけで、生み出さない。だからほとんどの高官は、来たときに持っていた見識と知見のままで職務を離れる。彼らはどう決定するかを学ぶが、何を決定すべきかは学ばない」とキッシンジャーが述べたのはよく知られている。

 今日の学者の規範とやかましく言われるものから判断すると、その規範を自らに当てはめ、発表された著作物の斜め読み以上のことをしてキッシンジャーを批判した者は驚くほど少ない。キッシンジャーは一九六九年までに四冊の分厚い本を発表し、フォーリン・アフェアーズ誌などの雑誌に一〇本以上の本格的な論文を発表し、新聞などに多くの寄稿をしていた。学者の生涯について書こうとする評伝作家は、たとえその人物がのちに政府高官になったとしても、著作物を読む必要があるのは言うまでもない。読めば、キッシンジャーの知的資本には二つの土台があることがわかる。一つは歴史の研究、もう一つは理想主義の哲学である。

 第二次世界大戦中にキッシンジャーのメンター役を務めたフリッツ・クレーマーは、こう語ったことがある。「歴史と音楽的に波長が合っている。これは、どんなに頭がよくても学べることではない。天賦の才能だ」。ハーバード時代の友人ジョン・ストウシンガーは、二人が大学院一年生だったときの思い出を語る。「キッシンジャーは歴史の重要性を強調した。トゥキディデスを引用し、現在は過去の正確な繰り返しではないとしても、必ず過去に近くなると断言した。となれば、未来もそうにちがいない……国や個人が成功し失敗する原因を理解するためには、歴史を学ぶことがかつてないほど重要だ、と」。キッシンジャーは生涯この信念を持ち続けた。国際関係を専門とする同世代の学者とのちがいは、理論より歴史を重んじていたことだ。いやむしろ、彼の外交政策理論の特徴は、国家や政治家はそれぞれの歴史観に基づいて行動するのであり、他の方法では理解できないという見方にあると言うべきだろう。

 ただしキッシンジャーは、歴史研究者である前に歴史哲学者だった。彼に関する根本的な誤解の多くは、ここから生じている。ファラーチは大方のキッシンジャー研究者同様、キッシンジャーはマキャベリに「強く影響された」からこそメッテルニヒに心酔するようになったのだと思い込んでいた。キッシンジャーの率直な答えは示唆に富む。

 「現代社会では、マキャベリが受け入れられ、重用される余地はほとんどない。マキャベリに関して唯一興味深いのは、君主の意向を考慮する彼のやり方だ。もっとも、興味深いというだけで、影響を受けるほどではない。誰から最も影響を受けたかと言えば、二人の哲学者を挙げたい。スピノザとカントだ。私をマキャベリと結びつけるとはおもしろい。どちらかと言えばメッテルニヒを挙げる人のほうが多いが、これも幼稚な連想だ。メッテルニヒについては、一冊だけ本を書いている。書いたと言っても、シリーズものの第一巻にすぎない。一九世紀、正確には第一次世界大戦までの国際秩序の構築と崩壊をテーマとするシリーズだ。それ以外に私とメッテルニヒを結びつけるものは何もない」

 私の知る限り、この率直な答の重要性を完全に理解していた研究者は、過去には歴史家のピーター・ディクソン一人しかいない[*]。キッシンジャーはマキャベリ流の現実主義者どころか、そのキャリアの出発点からして理想主義者、あるいは観念論者だった。大学院時代には、イマヌエル・カントに傾倒していた。一九七八年に早くもディクソンが指摘したように、キッシンジャーは自分自身を「カント以上にカント的」だと考えていた。未刊行の卒業論文「歴史の意味」はひどく野心的ながら、カントの歴史哲学を誠実に論評している。

 この論文を書いてから四半世紀が経っても、キッシンジャーは外交政策における「二つの道徳的義務の衝突」を説明するのにカントを引用した。この二つの義務とは、自由を守る義務と敵との共存の必要性である。キッシンジャーは現実主義者に分類されるのが通例だが、実際にはハンス・モーゲンソーなどより理想主義者だったとディクソンは主張する。私も同意見だ。現にキッシンジャーが九一歳で発表した『国際秩序』(伏見威蕃訳、日本経済新聞出版社)ではカントが長々と引用されている。私のみるところ、多くの研究者はキッシンジャーの理想主義を見誤ったせいで、彼に対する歴史的評価において、致命的とは言わないが重大な過ちを犯すことになった。

[*]これは、キッシンジャー自身がこの話題を避けようとしたためでもある。二〇〇四年に歴史家のジェレミー・スリが「あなたの根幹にある倫理規範、けっして破りたくない規範は何か」と訊ねると、キッシンジャーは「いまはその問いに答える用意がない」と答えている。

 アメリカの外交には「力」を超国家的法規や国際機関に従わせようとする伝統があり、これを表現するために「理想主義的」という言葉をよく使う。お断りしておくが、私は若い頃のキッシンジャーがこの意味での理想主義者だったと言うつもりはない。私は「理想主義」あるいは「観念論」(どちらも英語はidealismとなる)という言葉を哲学上の意味で、より正確にはギリシャのアナクサゴラスやプラトンを源流とする西洋哲学上の意味で使っている。カントの記述を借りるなら、西洋哲学における観念論とは「外的経験だと憶測されているものが単なる想像でないとはけっして確信できない」とする考え方である。なぜなら、「外界の事象の実在性は厳密な立証を拒む」からだ。

 言うまでもなく、観念論者がみなカントのように考えたわけではない。プラトンは、物質は知覚とは無関係に実在すると考えたし、ジョージ・バークリーは物質の実在性を否定し、存在するとは知覚されることであり経験は幻想だと主張した。これに対してカントの超越論的観念論では、「物質的世界」は「認識主体であるわれわれ自身の感覚の中の現象」にすぎないが、現象の根元には「純粋理性」ではなく思惟が経験に基づいて形成した「物自体」が存在するとした。後述するように、カントを学んだことはキッシンジャーの思想に消えることのない強い影響を与えた。カントを読んで、資本主義の優越性を謳う物質主義的な理論に懐疑的になったのだから、なおのことだ(アメリカの社会科学者たちは、マルクス・レーニン主義への対抗手段としてそうした理論を練り上げていた)。ヘーゲルの包括的な歴史哲学としての観念論(テーゼとアンチテーゼの弁証法的融合により、つまり理性により世界は前進する)の類にはまったく関心を持たなかった。

 キッシンジャーにとって差し迫った疑問は、カントの人間観(たとえば、個人は絶えず重大な道徳的ジレンマに直面する)と、世界が最終的には「永遠平和」を運命付けられているとする洞察とは調和するのか、ということだった。一九七三年九月二四日、国務長官として正式承認されてわずか二日後の国連総会演説でカントに言及したのは、けっして安直な引用だったのではない。

 「二世紀前に哲学者のカントは、人間の道徳的願望の成果として、あるいは自然の摂理の結果として、世界にはいつか永遠の平和が訪れると予言した。そのときは非現実的に見えたことも、明日には現実になり、選択の余地はなくなるのかもしれない。私たちに選べるのは、国連憲章の描く世界が私たちの先見性の結果として実現するのか、先見性のなさが招く破滅の結果として訪れるのか、ということだけだ」

 ご存知のとおり、冷戦は破滅には終わらなかった。冷戦終結後の世界は、永遠平和にはほど遠いものの、あきらかにより平和になっている。中東と北アフリカを除けば、世界のどの地域でも組織的暴力は大幅に減った。キッシンジャーの先見性は、この状況にどれほど貢献したのだろうか。この問いには、控えめに言っても、これまでのところ適切な答は得られていない。現時点では、武力衝突の合計死者数として計測した全世界の暴力は、一九六〇年代に危険なほど増えたが、七一~七六年に急減したと言えば十分だろう。

 ピーター・ディクソンは、冷戦がほぼ無血でアメリカの勝利に終わった場合(実際そうなった)のキッシンジャーの苦境を予想していた。

 「キッシンジャーの不一致こそが協力につながるという考え方や、自主規制の概念や、重要度の優先順位としての外交政策という見方はすべて……アメリカの政治文化全体に目的意識を吹き込むことを考えて練り上げられたものだ。それは、アメリカ人が世界で自分たちの国が果たすべき役割を真剣に問い始めたときに、歴史の意味を回復させる狙いがあった。キッシンジャーの政治哲学は、アメリカを救世主や自由と民主主主義の擁護者とみなす戦後の政策原理とははっきり一線を画している……いつか将来にアメリカが救世主の役割を果たすことに成功するようなら、キッシンジャーは、民主主義の理想と原理の魅力や正統性を過小評価した敗北主義的指導者、歴史悲観論者とみなされるだろう」

 キッシンジャーに対する最も辛辣な告発が、ソ連の脅威が魔法のように消えたあとで行われたのは、けっして偶然ではない。

第8節

 私は過去二〇年のかなりの時間を、力の源泉や戦争と平和の原因を理解するために費やしてきた。まずワイマール共和国と大英帝国に注目し、次におそらくは必然的な流れで、大西洋の向こうの奇妙な帝国アメリカへと関心が移った。私の論評はすくなくとも特定の党派には属さない。二〇〇一年には、ビル・クリントンの外交政策を「能力発揮不足(understretch)」の一例と総括した。クリントン政権は、国内のスキャンダルに振り回され、犠牲者を出すことを恐れすぎて、アメリカの膨大な能力を適切に活用できなかったからだ。その三年後のブッシュ政権のイラク占領初期には、アメリカの窮状に関する論考を発表し、アメリカはイギリスの自由帝国主義の後継者として、自由貿易と代議制の利点を確信しながらも、三つの赤字におそらくは宿命的に縛られている、と述べた。

 この三つの赤字とは、財政赤字(社会保障給付と政府債務拡大の悪循環により、国家安全保障のための予算を縮小せざるを得ない)、人的資源の赤字(暑く貧しい国の長期的問題解決への支出を多くの国民は望んでいない)、関心の赤字(大規模な対外介入をすれば、大統領の任期である四年間で人気を落としかねない)である。私は、ブッシュの後継者がとることになる方針(先制攻撃と単独行動主義の原則を直ちに後退させる)を、誰が後継者になるか決まる前から予見していたし、アメリカの後退がもたらす影響もある程度予想していた。

 しかしキッシンジャーの生涯と彼が生きた時代を調査してみて、自分のアプローチが緻密さに欠けると気づかされた。とくに私は、歴史の赤字というアメリカの外交政策が抱える重要な問題を見落としていた。これは、主な意思決定者が、他国の過去はおろか自国の過去もほとんど知らないという事実を意味する。しかも彼らは往々にして、自分たちの無知の何が問題なのかわかっていない。最悪なのは、歴史を理解するにはいたらないのに、生半可に歴史を知っていて自信は持っていることだった。ある高官は、サダム・フセイン後のイラクは共産主義後のポーランドのようになると二〇〇三年初めに断言したが、このようにアメリカの高官のあまりにも多くが、歴史的類推の価値はもちろん、危険性も認識していない。

 本書は一人の知識人の評伝であるが、それ以上のものだと自負している。というのも、キッシンジャーの思想の進化には研究と実践がわかちがたく結びついているため、評伝の上巻 KISSINGER:The Idealistはドイツで自己形成の物語(ビルドゥングス・ロマン)と呼ばれるもの、すなわち思想・感情両面の成長の物語とみなせるからだ。物語は五部に分かれている。

 第一部は、第一次世界大戦後のドイツでのキッシンジャーの幼年時代から始まり、アメリカへの移住、アメリカ軍の一員として第二次世界大戦に従軍し、再びドイツですごす日々を描く。第二部は、ハーバード大学の学部・博士課程の学生、准教授時代である。この時期にキッシンジャーは外交問題評議会のために核戦略研究を行い、知識人として認められるようになった。第三部は、大統領候補だったネルソン・ロックフェラー、次いでジョン・F・ケネディ大統領の顧問時代、第四部は、ベトナムに関与するにいたる紆余曲折を描く。ここでキッシンジャーは、この戦争にアメリカは勝てないと気づく。最後の第五部は、ニクソン大統領の国家安全保障問題担当補佐官に思いがけず指名されるまでの出来事をつぶさに記述する。

 キッシンジャーは貪欲な読書家であり、カントからハーマン・カーンにいたる膨大な読書からも多くを学んでいる。とはいえ多くの意味で最大の影響を受けたのは、書物ではなくメンターからだった。最初の師はフリッツ・クレーマーで、キッシンジャーをファウストに見立てれば、メフィストフェレスに当たる人物である。キッシンジャーが学んだ重要な教訓は、自らの経験から得たものとメンターからの教えが相半ばしている。一九六九年一月に政権入りしたとき、キッシンジャーに備わっていた知的資本の中でとくに重要なのは次の四つだと私は考える。

 第一に、ほとんどの戦略的選択は、大きい悪か、小さい悪かを選ぶことだと認識していた。第二に、他のプレーヤーの自己認識を類推と洞察によって解明する重要な手段として、歴史を重視していた。第三は、いかなる決定も本質的には推定に基づいていること、ある行動をとったときの政治的見返りは、何もしないか報復したときの見返りより小さいとしても、結局は後者のほうが高くつくことがあると気づいていた。第四に、ビスマルクが体現した外交政策における現実主義は危険だと気づいていた。最大の危険は、大衆を疎外しかねないこと、政治指導者が権力それ自体を最終目的とみなすようになることである。

 高遠な目標をめざした若きキッシンジャーは、真の意味での理想主義者だったと私は信じる。

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