その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日はヤコブ・トーメ(著)、鈴木素子(訳)の『 ザ・キルスコア 資本主義とサステナビリティーのジレンマ 』です。

【プロローグ】

「ツリーハガー」と「ビーンカウンター」

 ツリーハガー(木を抱く人)──これは環境保護活動家を(ときに揶揄(やゆ)するニュアンスをこめて)指す呼称で、サステナビリティー(持続可能性)について考えるときにほとんどの人が思い浮かべる言葉だ。人々の心の奥には、環境保護活動家のステレオタイプがこびりついているのだ。「ツリーハガー」という言葉は、いまやケンブリッジ辞書にも収録されて基本語彙となっている。環境保護の活動家の中には、積極的にツリーハガーを自称する者もいれば、そう呼ばれるのを嫌う者もいる。2006年に環境雑誌『グリスト』に掲載されたある記事は、ツリーハガーと呼ばれたときの切り返し方まで指南している。相手がSUV好きなら「SUVハガー」、石油問題に無関心な人なら「オイルハガー」とでも言い返せばいい、というのだ。インパクトの強さでは、どちらもツリーハガーにかないそうにないが。

 ツリーハガー呼ばわりされるのを嫌がる人がいるとはいえ、一般の人たちは多くの場合、環境保護の活動家はツリーハガーだという前提を受け入れている。誰もが心の中では、サステナビリティーなど甘い考えで、そんなものを大事にするのは、経済や社会生活の厳しい現実を否定する人、人間よりもパンダを大切にする夢想家、木々の生命は気にかけるがその果実を楽しむ人間には目もくれない環境保護主義者だと思っている。つまり、合理的な人や実務的な人はサステナビリティーには向かないというわけだ。

 この見方はどんな政治的立場の人にも共通している。右派の多くは環境保護主義者のことを、自由市場がもたらす恩恵も、自由市場がいかに国民の生活を最適化しているかも理解できない政治学者くずれだと考えている。対する左派の一部にも、同じように環境保護活動家を軽蔑する人がいる。環境保護活動家はアボカドスムージーを飲んで美術を専攻するような中流階級の人間で、環境危機を大げさに演出し、労働組合員や炭鉱労働者、そして階級闘争を裏切り、見捨てているというのだ。

 サステナビリティーの専門家たちは、気候変動によって目前に迫りつつある破局(カタストロフイー)に関して、一般市民の意識を多少なりとも高めたかもしれない。だが、環境保護運動のキャッチフレーズは依然として「地球を救え」だ。救うべきは人間でなく地球であり、木々だと言っているわけだ。まさしくツリーハガーではないか。この言葉を軽蔑のニュアンス抜きで読めるものなら、読んでみてほしい。

 ここまでが、私たちがよく知っているサステナビリティーの世界の一面だ。だが、もうひとつの面がある。ツリーハガーをサステナビリティーの陽の面とすれば、陰の面が存在するのだ。私はこれまで10年にわたってサステナビリティー関連の仕事をしてきたが、まわりにいるツリーハガーの数はさほど多くない。最も頻繁に顔を合わせるのは、ツリーハガーとは人種の異なる「ビーンカウンター(豆を数える人)」、つまり計算おたくだ。自然界における会計士とでも言おうか。映画『マトリックス』のネオにも似た見方で世界を見るビーンカウンターにとって、すべては環境保護に関連していて、すべては数字に還元できる。ビーンカウンターの目を通すと、生きた現実が抽象モデルへと変換される。ちょうど、プラトンの目に映った物体が世界の影であって、世界そのものではなかったように。

 たとえば、私たちを取り巻く自然や生命の息を吞(の)むような美しさ、力強さを前にしたとき、ビーンカウンターはどうするだろうか。それらを経済価値や達成目標や業績評価指標に変換するのだ。場合によっては、この世界に存在し人々に感銘を与えるような事象を個々に数値化しておしまい、というつまらない結果になる。

 ツリーハガーとビーンカウンターは、私たちがサステナビリティーを語るふたつのパターンの縮図だ。どちらも極端で、一方は自然界に、もう一方は数字の世界に生きている。そしてどちらも、一般の人たちの心をつかむこともできなければ、その心を惹(ひ)きつけることも完全にはできていない。

 正直なところ、木々を愛するツリーハガーは、要職にある人たちにはまともに相手にされていない。それどころか、一般の人たちからも真剣に取り合ってもらえないことが多い。

 一方、哲学者ヴァルター・ベンヤミンの言う「抽象という氷の砂漠」に生息しているビーンカウンターのほうは、気候変動の影響を前に途方に暮れている世間の人々のことなどそっちのけで、一般人には耳慣れない規格、個別の業績評価指標、エネルギー効率基準の微妙なレベルをめぐっていがみ合っている。

ぼんやりしたサステナビリティー

 私はビーンカウンターだ。動植物を炭素排出量や気候適合ベンチマーク、リスク評価指標に置き換えることを仕事にしている。あるときはサステナビリティーの経済性を論証し、それがうまくいかない場合には数字を使って道徳的価値を論じ、行動を促す。ツリーハガーが森や木々を住処(すみか)にしているなら、ビーンカウンターは政治や金融の中心地の、明るすぎる──あるいは暗すぎる──会議室や作業室で日々を送っている。

 本書の着想を得たのも、フランクフルトの寒い1月の午後の、そんな一室でのことだった。私はヨーロッパの金融市場を席巻(せっけん)していた金融イノベーション、いわゆる「グリーンボンド(環境債)」に関するパネルディスカッションに招かれていた。グリーンボンドとは、環境保護への取り組みをアピールし、(少なくとも理論上は)グリーンプロジェクトの資金を調達するための債券で、企業や政府や金融機関によってどんどん発行されていた。グリーンボンドに関するニュースは主要な金融紙や大手新聞の一面を飾り、私がディスカッションに招かれる数カ月前には、ドイツの二大銀行のひとつであるコメルツ銀行が初めてグリーンボンドを発行していた。政策担当者もこの流れに乗り、政府のグリーンボンドを発行するとともに、その発行基準の策定にも取り組みはじめていた。

 パネリストの議論はすぐに白熱した。原子力発電はグリーンプロジェクトに数えられるのか? 空港が電気自動車事業のために発行したグリーンボンドの払い戻しを、着陸料収入で賄うことは許されるか? 報告書は年に一度の提出が必要か? また第三者による検証を義務づけるべきか? 意見交換のために集まった少人数のビーンカウンターにとっては、どれも興味のつきない話題だった。だが、会議を終えてホテルの無個性な部屋に戻る途中、私は思わずマフラーをしっかりと首に巻きつけた。1月の冷気のせいばかりではない。ベンヤミンの言う「抽象という氷の砂漠」を歩いたからだ。私は自問した。いったいこんな話を、誰が理解できるっていうんだ?

 数カ月後、その答えを知る機会がめぐってきた。当時、私たちは個人投資家向けにサステナビリティー関連の投資プラットフォーム「マイ・フェア・マネー(MyFairMoney.com)」の構築を始めたばかりで、その一環として、ターゲットユーザーがサステナビリティーと金融に関してどう考えているかを把握するアンケート調査を行ったのだ。土壇場になって、私はそのアンケートに、比較的簡単な次のような質問を紛れ込ませた。「グリーンボンドとは何だと思いますか?」

 もしあなたが金融のプロでもサステナビリティーと金融に関する熱心な研究者でもなく、すでにこの質問の答えを知っているのでないなら、この質問を自分に投げかけてみてほしい。グリーンボンドとは、そもそも何なのだろう。

 まず、グリーンボンドが少なくとも「こういうものではない」ということから説明しよう。グリーンボンドを発行するには、グリーン企業である必要はない。将来グリーン企業になると約束する必要もないし、明日のグリーン度を今日のそれより向上させる必要もない。あなたの会社のカーボンフットプリント[商品やサービスのライフサイクル全体を通して排出されるすべての温室効果ガスの排出量をCO2に換算したもの]が1万パーセント増えたとしても、グリーンボンドの発行は可能だ。グリーンボンドの発行に必要なのは、額面金額に相当する環境保護活動に取り組むという申告だけなのだから。

 もちろん、このような仕組みになっているのには理由がある。結局のところ、グリーンボンドがカバーするのは事業のごく一部だ。発行者は、グリーンボンドによる資金が使われるその一部分のみをグリーンと呼んでいるにすぎない(原発事業がグリーンかどうかはさておき)。もしこの仕組みが広く知られているなら、問題はないはずだった。

 だが、問題はあった。アンケートに回答してくれた2000人のうち、9割もの人がグリーンボンドを誤解していたのだ。その人たちは、「組織はグリーン度を向上させなくてもグリーンボンドを発行できる」という考え方に納得していなかった。もちろん、誤解している人もそれなりにいるだろうと予想はしていたが、これほどまでとは思わなかった。まさか9割とは! つまり私は、「誰もこの話を理解していないし、理解したらしたで、納得してはくれない」というシンプルな事実を一般の人々に伝えないままにパネルディスカッションに参加して、グリーンボンドの発行者にどんな報告義務を課すべきかを話し合っていたのだ。

 サステナビリティーと持続可能な生活にまつわるこれまでのPRは、大失敗だった。これほどまでに重大で劇的な失敗はほかには見当たらない。そう言い切れるのは、私がPRのプロだからではない。これまで10年以上にわたり、最前線でサステナビリティーについて話してきた人間だからだ。悲しいことに、私も多くの場合、一般の人には理解できない言葉で話をしてきた。私自身が問題の一部だったのだ。

 ビーンカウンターとしての私が示すデータは、相手に理解してもらえていなかった。理由はデータの複雑さだけではない。そもそもデータというものが抽象的で、感情に訴えることがなく、実生活とかけ離れたものだからだ。これまで私は、パネルディスカッションやフォーラムや技術作業部会に参加してはサステナビリティーの基準を検討し、部会以外の人間が誰ひとり理解していない細部について議論を闘わせてきた。ローマが燃えるのを見ながらバイオリンを弾いていたようなものだ。

数字に埋もれてゆく真実

 真実は人気投票によって定められるものではない。より持続可能な世界を追求するための正しい方法を、ポピュリズムによって決めるべきではない。あなたはこう思うかもしれない。専門家がいちばんよくわかっているのだから、自分たち一般市民が専門家の意見を理解する必要なんかない、と。だが私に言わせれば、理解する必要はある。専門家の警告には耳を傾け、内容を理解して、それが世界についての重大な真実だとわかったら従うべきだ。そして現代社会では、好むと好まざるとにかかわらず、そのためにはしっかりとしたPRが必要なのだ。

 ビル・ゲイツは「2ドルしか資産がなかったら、そのうち1ドルをPRに使う」と言ったという。これを金言と言えるのかどうかわからないが、私も同感だ。現在、気候変動研究ほどPRの問題が深刻な分野はないだろう。まず、気候変動という言葉と向き合うことから始めよう。あなたはこの言葉を聞いただけで背筋が凍るだろうか。気候変動が今後も続くという予測に恐怖を感じるだろうか。私たちの多くは、気候とは要するに天気のことであり(実際は違う)、天気なんて毎日のように変化するじゃないかと思っている。気温が2℃上昇すると聞いたら、あなたは怖さを感じるだろうか。いま、自分がいる場所の気温を言い当てようとしても、おそらくは1℃~2℃かそれ以上、間違えてしまうというのに?

 温室効果ガスについても考えてみよう。話は明快だ。温室効果ガスは気候変動を引き起こす。では、私は食事を通して年間1500キログラムの二酸化炭素を排出していると言ったら、あなたは上出来だとほめてくれるだろうか。それとも𠮟るだろうか。年間の炭素排出量として、1500キログラムは多いのだろうか、少ないのだろうか。おそらく、ほとんどの読者は答えられないだろう。そして恥ずかしいことだが、サステナビリティーの専門家の多くも答えられないのが実情だ(種を明かすと、年間1500キログラムはアメリカ人平均の約2分の1だ)。さらに、年間1500キログラムの二酸化炭素は気候変動にどれだけ影響し、どれだけの氷を溶かすのだろうか。これでわかるように、数字はもはや、意味をなさなくなってしまった。

 数字に意味がなくなるこの問題は、気候変動に関連する分野でとくに顕著に見られるが、他の分野でもめずらしくはない。たとえば、労働者の安全に関する休業災害度数率[実労働時間と、労働災害による従業員の休業を伴う死傷者数との比率。休業災害の頻度を表す指標]というものがあるが、これは全災害度数率[休業を伴わないケースを含めた災害発生の頻度を表す指標]とは異なるものだ。だがそう言われても、まったく意味がわからないのではないだろうか。気候変動に関する指標以上に複雑怪奇だ。しかも考えてみれば、休業災害度数率で測定できるのは会社の損害だけであり、従業員のそれではない。この指標でわかるのは、従業員が仕事を離れた時間の長さだけだ。

 だが、非難ばかりするのは公平ではない。希望の光もある。現に私たちは、イメージをめぐる問題に気づきはじめている。イギリスを代表する『ガーディアン』紙などのメディアは「気候変動」を「気候危機」と言い換えるようになった。そのほうがインパクトが大きいからだ。また、誰もが知る世界自然保護基金(WWF)のシンボル動物ジャイアントパンダは、(これはWWFの内輪の話だが)ユニセフの広告写真になっている栄養失調の子どもたちに劣らない額の寄付を、空港でコンスタントに集めている。だが、こうしたケースはめったにない。サステナビリティーの専門家がサステナビリティーについて語ってこなかったというひどい失敗は、もはや隠しようがないのだ。

 2007年、アメリカ人環境保護活動家ビル・マッキベンが、バーモント州ミドルベリー大学の学生たちとともに「350.org」という名の団体を設立した。この団体名は、NASAの気候科学者であるジェームズ・ハンセンが大気中の二酸化炭素濃度の安全限界値だと主張した「350ppm」という数値に由来している。覚えやすくてインパクトのある団体名だ(ちなみに、大気中の二酸化炭素濃度はとうの昔に400ppmを超えている)。

 ビル・マッキベンの名誉のために言うと、350.orgは信じられないほどの成功を収めている。そして彼自身、優れたマーケッターでありコミュニケーターだ。だが、組織の名称はいただけない。350ppmと聞いて、その切羽詰まったニュアンスを理解できる人が、はたしてどれだけいるだろうか。にもかかわらず、最大規模の環境保護運動のスローガンにされ、化石燃料からの脱却を求める世界的キャンペーンの原動力になっている。この例は、持続可能性に関する議論の大部分が一般人には理解できない世界で行われていることを示唆している。

 環境分野の会計士や活動家がPR上の問題を抱えているというのは、とくに大きな発見ではない。だが、この問題の本質を見極めるのは少々難しい。私たちビーンカウンターはこれまで、真実を暴いているつもりで、まったく逆のことをしてきたのではないだろうか。大量のデータや分析、果てしない注釈、補足説明、曖昧なニュアンス、さまざまな条件分岐、潜在的な可能性、そして私たちが馴染んでいる素朴な定義や概念に比べると小賢(こざか)しすぎる大量の文書の中に、真実を埋もれさせてきたのだ。

 私が初めて設計したサステナビリティー・モデルのことを思い出すと、ぞっとする。それは金融ポートフォリオと気候変動との関係を測定するためのモデルだった。初回のテストの際、投資家たちの前に出力されたデータの文字列は何万行にも及んだ。そんな詳細なデータをいったい誰が読み、理解できるというのだろう。いま思えば正気の沙汰ではない。だが悲しいことに、当時の私は鼻高々だった。まさに徹底したビーンカウンターだったのだ。もちろん、そうした細かい正確な数値を出さざるを得ないのは、世界そのものが複雑だからだ。私たちが生きるこの世界は、そう簡単に単純化できるものではない。とはいえ現実的には、ただ数値化してもPRにはならない。

「キルスコア」のアイデア

 私が仕事に対して感じていた危機感が払拭されたのは、フランクフルトでのパネルディスカッションで凍えたあの日から、ちょうど1年がたったときだった。同業の友人がグラーツにある系統的音楽学センターの所長、リチャード・パーンカットの論文を読み、私にもぜひ読むよう勧めてくれたのだ。音楽家の論文からサステナビリティーのPRに関する洞察が得られるとは思えなかったが、私はとにかく読んでみた。論文の半分は科学的事実、半分は考察で構成されていた。学術界ではあまり耳にしない「半定量的」という言葉がタイトルに使われており、それが異例の論文だったことはパーンカット本人も認めるだろう。内容は、人間を1人死に追いやるのにどれだけの温室効果ガスが必要か、というものだった。言い換えれば、「温室効果ガスを増やすことで、私たちはどれだけの数の人を死なせているか」を明らかにしようとする論文で、2019年に心理学の専門誌に掲載されたものだという。音楽学者が心理学雑誌に気候変動の致命的な影響について書いたと聞けば、ふつうの人なら首を傾(かし)げるだろう。

 だが、論文は的を射ていた。もし、死者を出す温室効果ガスの最小値(閾値=いきち)を算定できれば、それが死に追いやる人の数──キルスコア──の出発点となるはずだ。ビーンカウンターとしての私の頭脳が働きだした。キルスコアをサステナビリティーの指標にすれば、何万行、何万ページにわたる説明も、見栄えのいいパンダや木々の写真も、不要になる。キルスコアは目を引くだけでなく、人の心を動かすだろう。私はこのアイデアに夢中になった。

 問題は、パーンカットがストーリーを完成させていなかったことだ。彼の思考実験は、未来のいつかある日に、今日排出される温室効果ガスの量に応じて人間が1人死ぬ、というアイデアには行き着いていた。だが、曖昧な点も多かった。犠牲になるのは誰なのか。排出量を算出する際、なぜ消費者である私たちの排出量だけを問題にしたのか。私たちの消費を可能にした企業や、企業の事業拡大のために資金を提供した投資家や銀行はどこにいったのか。実際に責任を負っているのは誰で、「犯行現場」には誰が居合わせたのか。さらに言えば、「殺人犯」は気候変動だけではなく、ほかにも複数いるのではないか。

 そこで私は「捜査」を開始したのだが、調べれば調べるほどに多くの「被害者」が見つかった。気候変動を原因とする熱波により熱中症で死亡した日本の6歳児。ソーシャルメディアによって自殺に追い込まれたイギリスの少女、モリー・ラッセル。ロンドンのシティで3日間、不眠不休で仕事に打ち込んだ末に亡くなったモーリッツ・エアハルト。ガーナの首都アクラでプラスチックと電子ごみの煙に巻かれて死んだ青年。ギャングの抗争の犠牲となり、メキシコで殺された19人。私の捜査は、どこか奇妙な自己発見の旅となった。それまでの私は、世界のサステナビリティーを向上させることにキャリアを捧(ささ)げつつも、気候変動について語るときは人や物語ではなく数字で語るのが常だった。木々や野生動物、サンゴ礁に関する論文は読んでいたし、もちろん統計上の死者数も知っていた。だが、そのどこに人間がいただろうか。

 もちろん、サステナビリティーは人間だけの問題ではないし、パンダだけの問題でもない。人間の営みの結果進んでいる生態系の破壊の恐ろしさは想像を絶するほどだ。プラスチックごみが原因で死んでいる生き物の数は、毎年何百万にものぼると推定されている。その恐怖に見合った配慮ができないのは、私たちが破壊の規模を理解できていないせいだ。宇宙の果ての、その先にあるものを考えられないのと同じように、生態系の破壊は人間の理解を超えた規模で起きている。加えて、大半の人が自分たちのことしか考えていないことも大きな理由だ。サステナビリティーの専門家も、環境破壊が人間社会にどれほどの悪影響を及ぼすかを正確に説明できずにいる。海面上昇もハリケーンも熱波も、問題なのは誰もが知っている。だが、それらが誰に、どの程度の影響を及ぼすのかはきちんと把握できていない。問題は、サステナビリティーの重要性についての言及がまだまだ足りないことなのだ。

 そこで登場するのが「死」だ。『ハリー・ポッター』のアルバス・ダンブルドアに言わせれば、きちんと整理された心をもつ者にとっての「次の大いなる冒険」ということになる。サステナビリティーにまつわる問題は、多くの人を死に追いやっている。サステナビリティーのPRにおける大失敗とは、私たち専門家が単純な事実をきちんと伝えてこなかったことだ──持続不可能な消費、生産、投資を選択することで私たちが人を死なせているという事実、そして、その影響の大きさを測定してスコアをつけられるという事実を。

 その結果、企業は、自分たちが年間何人の人間を死に追いやっているかを開示する代わりに、温室効果ガスの排出量、全災害度数率、休業災害度数率、気温スコア[企業が温室効果ガスの排出を通し、地球温暖化をどの程度助長しているかを数値化したもの]、慈善事業として建設した学校の数といったことばかり開示している。投資家は、自分たちがもたらした悪影響について話す代わりに、グリーンボンドに投資したことを自慢している。そして消費者は、自らのキルスコアを算出する代わりに、オンラインのカーボンフットプリント計算機を使っている。

この本のミッション

 私が本書を書いたのは、こうした現状を是正するためだ。持続可能な生活の中心課題となる4つの分野(環境分野2つと社会分野2つ)について、これからキルスコアを検証する。さらには、暴力・戦争・紛争という第5の犯行現場にも捜査の手を伸ばしていく。最初の4つとは少し関係が薄いこの現場が、キルスコアの物語でどんな役割を果たすことになるのかは追って説明しよう。

 本書では、まず気候危機から廃棄物へ、さらには危険な労働環境から匿名消費へと旅していく。そこから、私たちの選択が今後幾世代にもわたって及ぼす影響が見えてくるだろう。さあ、旅に出よう。私のキルスコアを、あなたのキルスコアを知る旅に。私たちが、企業が、金融機関が引き起こす恐れのある死について知る旅に。

 本書はある意味、私の旅の終わりを告げるものでもある。私はこれまで、サステナビリティーの専門家として、フットプリントの開示方法を考える何百もの金融機関に手を貸してきた。私が考案した評価基準のいくつかは光沢紙に印刷された立派なサステナビリティー・レポートに掲載され、法律や規制の文中でも言及されている。しかし、どうしても考えてしまうのだ。金融機関や政府を、誤った道に進ませてしまったのではないか、と。私はこれでもかというほど精緻な評価基準や方法を使いながら、それを理解する手立てをまったく用意していなかった。それが私たちの生きているこの世界で何を意味するのか、誰もが理解できるように伝える手立てをもっていなかった。「地球を救え」という看板を掲げておきながら、真実を掘り起こすどころか、埋もれさせてしまったのだ。

 評価基準をどこまでも複雑にしていけば、落とし穴が待っているのはわかっていた。けっして問題が見えていなかったわけではない。そこで私は、その評価基準が「良い」か「悪い」か、顧客が「1位」になるか「最下位」になるかを示す標識をつくることで、この問題を解決しようとした。それが、サステナビリティーのPRにおける難問を解決するための私なりの方法だったのだ。

 問題解決のためにこの分野のプロが使う手法が、もうひとつある。すべてのサステナビリティー指標を、ドルやセントといった財務数値に置き換えるのだ。自然を数値で表そうとするこうした手法は「自然資本会計」と呼ばれる。巧妙なやり方だが、当然ながら大きな欠陥もあり、信頼性にも疑問が残る。第一に、自然には値段のつけようのないものが山ほどある。すべてをお金に換算したところで、ありがたがるのは最高投資責任者(CIO)だけだ。一般の人々からすればとくにメリットはない。そして結局、そういう会計は、環境保護活動を数字の裏に隠すためのマントや仮面のような役割を果たすようになった。森からツリーハガーを追い出すことはできても、ツリーハガーの心から森を消すことはできないにもかかわらず。

 だが、パーンカットの論文のおかげで、もっといい方法があるとわかった。指標を説明するために標識を使うのではなく、標識が不要になるほど明確でわかりやすい指標を使えばいい。それがキルスコアだ。

 さて、あなたは一生のあいだに何人の人を死に追いやっているだろうか。あなたが殺人者や死刑執行人でないかぎり、「ゼロ」と答えるだろう。だが残念、不正解だ。世界には、若くして死ぬ人が大勢いる。その要因は気候変動、喫煙、病気などさまざまだが、その死には私たち個人も関与している。平均的な欧米人は、自らのカーボンフットプリントによって、生涯で約1人の人間を死なせるというのがパーンカットの結論だ。もちろん、研究者の中には、パーンカットより若干少ない「3分の1人から2分の1人程度」と主張する人もいれば、パーンカットより多く見積もる人もいる。

人を死に追いやるということ

 ここまで読んで、ページを繰る手が止まったとしてもしかたない。私の考えはあまりに単純で、これから語られるであろう内容を読みたくないと思う人がいてもおかしくはない。ある友人のように、自分のカーボンフットプリントで人を1人死なせたとしても、そんなことはたいしたことではない、と言う人もいるかもしれない。ニュース番組が「衝撃と驚き」を延々と与えつづけるせいで、私たちは匿名の個人の悲劇に慣れきってしまったのだ。

 よく知られている思考実験を例に挙げよう。いわゆるトロッコ問題だ。トロッコが線路を暴走している。進路を変えなければ、線路の先にいる5人が死ぬ。進路を変えると、そちらにいる1人が死ぬ。さて、どちらを選ぶべきだろうか? ほとんどの人は進路を変えるほうを選ぶ。だが、アメリカの哲学者マイケル・サンデルが指摘するように、設定を少し変えるだけで回答の割合は変わる。トロッコの進路を変えるのではなく、太った男を線路に突き落としてトロッコを壊せば、5人を救えることにするのだ。この場合、1人を死なせることに対する抵抗は最初より大きくなる。最初の設定にはなかった主体性がかかわってくるからだ。そして、問題はもはや「5人の命を救うか否か」だけではなくなった。なぜなら、太った男には文字どおり「輪郭」があるからだ。彼の死は匿名の死ではない。

 サステナビリティーをめぐる問題は、ある意味ではトロッコ問題とよく似ている。環境汚染による統計上の死の話を、ガーナのフセイニやロンドンのエラの話に置き換えよう。そして、その過程で私たちが環境に及ぼしている生態学的・社会的な負荷を追跡するのだ。誰かを死なせるということがどういうことなのかを想像してみてほしい。目を閉じて、銃を抜く自分を思い浮かべる。想像の中で、未来の男性や女性、子どもの顔を見ながら引き金を引く。それでもまだ、あなたは思うだろうか。1人ぐらい殺しても、たいしたことではない、と。

 私たちには主体性があるが、企業や投資家にも同じように主体性がある。企業のキルスコアを算定すると、それがはっきりとわかる。パーンカットの結論をそのまま当てはめるなら、某多国籍ファストフードの巨大企業の場合、ハンバーガーの販売によるフットプリントだけでも、ほぼ30分に1人の割合で未来の人を死なせている計算になる。

「殺人犯」を追跡するうちにわかってくることがある。環境と社会に悪影響を与える私たちの選択が、どれだけのフットプリントを残しているのか。そのフットプリントが人の死にどうかかわっているのか。食品をスーパーマーケットで選ぶとき、オンラインストアで注文するとき、Uberに電話するとき、店から配達してもらうとき、私たちの選択がどのように人を死に追いやるのか。そして、私たちに何ができるのか―そうした問いへの答えが見えてくるはずだ。

 私はいまも、本質的にはビーンカウンターだ。ビーンカウンターらしく、本書でもやはり、注釈や微妙なニュアンスに頼らざるを得ないだろう。というのも、この本はさまざまな意味で「犯罪小説」だからだ。まず、解決すべき大きな疑問がある。私たちはなるほど人を死に追いやっているのかもしれないが、その因果関係の責任は誰にあるのだろうか。アトリビューション(帰属)研究と行動科学の両分野におけるいくつものブレークスルーのおかげで、責任というものに対する私たちの理解はずいぶん深まった。そのため、責任については説明できるかもしれない。だが、賠償すべきは誰なのだろう。本格犯罪小説を気取って、私たちも法廷に入り、罪を追及してみよう。その過程で、黎明(れいめい)期にある環境訴訟について、90年代のタバコ訴訟について、そして殺人をめぐる法理論について学ぶことになるだろう。

 私たちは社会全体で、キルスコアを無視するという協定を結んでいる。そこには原告もいなければ裁判官もいない。だから被告も存在しない。

 だが、被告はいまこそ原告に向き合うべきだ。裁判官の前に立つべきだ。本書が明らかにするのは現代社会における最大規模の殺人であり、消費者、企業、金融機関のそれぞれが人々の死に負っている相対的責任だ。もちろん被告は、500万本のタバコ(受動喫煙による死者1人あたりの喫煙本数)の煙を誰かの顔に吹きかけた罪で被告席に座っているわけではない。だが、私たちは選択を通じて、たしかに人を死に追いやっている。これはけっして比喩的な話ではない。

逃げることなく認識せよ

 犯行現場に立ち会う心の準備ができたところで、プロローグを終えることにしよう。だがその前に、本書におけるビーンカウンターに勝るとも劣らず重要な存在を、ここでもう一度紹介したい。冒頭でその世間的評価について取り上げたきり、いままで置き去りにしてしまったツリーハガーだ。ビーンカウンターが意図せず真実を「抽象という氷の砂漠」に埋もれさせたとすれば、ツリーハガーはどんな失敗をしたというのだろう。

 ビーンカウンターを笑うのは簡単だった。私自身がビーンカウンターだからだ。だが、相手がツリーハガーとなると腰が引けてしまう。悪意のこもったステレオタイプが広く世間に知れ渡ったせいで、ツリーハガー個人の人となりが完全に覆い隠されているからだ。とはいえこのステレオタイプにも、少なくともふたつの真実が含まれている。

 ひとつは、ツリーハガーが語るストーリーの力だ。ツリーハガーのストーリーは、私たちの視線を(「惑星B」は存在しない、というあの環境保護のスローガンで)たったひとつの「惑星」に向けさせ、個人の悲劇やトラウマから引きはがすことに大きな力を発揮してきた。

 ふたつ目は、「傷つけてはならない」というツリーハガーの主張だ。この大前提には共感できる。だが、キルスコアを数値化するにあたっては、「正しいキルスコアとは?」という問いに何度も立ち返ることになるだろう。典型的なツリーハガーなら「ゼロ」と答えるだろうが、そんなものは理想論にすぎない。高価な最新医療の認可であれ、高速道路の保全や整備であれ、社会福祉プログラムであれ、私たちは常に生と死、そして自身の経済的利益と想定されるニーズを天秤(てんびん)にかけ、何かを手に入れるために何かを犠牲にしている。こうしたトレードオフには経済的なものが多いが、さまざまな道徳や嗜好(しこう)に基づいて何かを選択することも同じくらい多いはずだ。いまさらこの原則を放棄するよう言われても、とうてい納得できない。

 死について語るのはけっして容易ではない。「人を死なせる」となるとなおさらだ。誰だってそんなことは考えたくない。だが残念なことに、死に関する話題がタブー視されるこの傾向は、世間の目を自身のフットプリントからそらしておきたい者にとっては好都合なのだ。また、これを「トレードオフ」と呼んでしまうと、どうしても冷笑的な態度をとっているように見える。だが私たちは、好むと好まざるとにかかわらず、トロッコ問題と同じように、さまざまなトレードオフをせざるを得ない。

 間違ったトレードオフもあれば、正しいトレードオフもある。単に、トロッコにブレーキがついていたのに見つけられなかっただけというケースもある。そしてもちろん、イギリスの哲学者アイザィア・バーリンが言うように、私たちは「内なる砦(とりで)に引きこもり」、自身を世界から切り離すこともできる。そうすればフットプリントを残すこともなくなるだろう。だが、それは必ずしも幸せな道とは言えない。社会的に孤立し、公的なかかわりも私的な楽しみも放棄することになる。私たちも、生きなければならないのだ。ニーチェを信じ、存在から最大の実りと楽しみを収穫しようとするなら、ときには危険を冒してでも生きなければならない。人間であるかぎり、フットプリントと無縁ではいられない。私たちは主体性(人によっては「力」と呼ぶかもしれない)をもち、フットプリントを残して歩いている。風向きによっては思うように進めないかもしれない。しかも私たちは、年齢や国籍、経済的条件や社会的条件に囚(とら)われた存在で、そのせいで力が制限されることもある。だがそれでも、主体性は損なわれない。

 行為主体としての道徳性はおそらく、内なる砦への引きこもりと、不注意で危険な生活という、両極端の中間のどこかに位置しているのだろう。しかし、最終的にどんな道徳観に行き着くとしても、人が死んでいるという重要な真実に変わりはない。誰が責任を担い、賠償し、非難されるべきかにかかわらず、「正しい」フットプリントの数値にも関係なく、私たちは人を死に追いやっている。これは残酷な真実だ。そして私たち全員が、いま向き合うべき真実だ。ツリーハガーもビーンカウンターも、いまこそPRを一新しなくてはならない。行動する時がきたのだ。

 だが、そのためにはまず、死について再認識する必要がある。正直に言えば、この本格犯罪小説には、少々むごたらしいシーンが多いかもしれない。だが、本書はサステナビリティーを再認識する、ユニークで新しい機会にもなるだろう。

 断っておくが、ハッピーエンドは約束できない。結局のところ、この話の結末を決めるのは、私ではなくあなたなのだから。「キルスコア」へようこそ。


【目次】

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