その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日はコリン・メイヤー(著)、宮島英昭(監訳)、清水真人、馬場晋一(訳)の『 資本主義再興 危機の解決策と新しいかたち 』。「序文」と「日本語版への序文」をお届けします。

【序文】

 本書を執筆している今、世界はさまざまな危機に瀕している。ロシア・ウクライナ戦争、干ばつ、洪水、パンデミック、エネルギー危機、食糧危機、気候危機、そして民主主義と政治システムの危機である。少し前、世界は金融危機に直面していたが、現在はインフレと景気後退が問題となっている。あなたが本書を読むころには、さらに別の危機が発生しているだろう。

 危機は頻度と激しさを増しており、根幹の問題が解決されるまで間違いなくそれは続く。その問題とは、資本主義システムだ。資本主義システムは、繁栄や成長、雇用、貧困緩和の源であると同時に、耐え難い苦しみや災難、不平等、環境破壊、社会的排除を引き起こしている原因でもあり、状況は悪化の一途をたどっている。

 本書は、この問題を解決するための一冊であり、三部作の第三弾に当たる。最初の本『Firm Commitment(邦題『ファーム・コミットメント』)』では何が問題なのか、2作目の『Prosperity(邦題『株式会社規範のコペルニクス的転回』)』ではそれらの問題の解決策について書いた。本書は、資本主義システムに必要な根本的な変革について書いた。

 最初の本では、市場主導のシステムにおいて信頼とコミットメントの欠如が問題だと指摘した。2作目では、問題の解決策として「パーパス(目的)」を取り上げた。本書は、信頼とコミットメントが欠如している現在の状況から「パーパス」に向かうための根本的な変革の方法について述べる。

 前の2作では、何がうまくいかなかったのか、なぜ問題が生じ、その解決のために何が必要なのか、さらに、私たちの未来に何が必要なのかを考察し、過去にとらわれるのではなく過去を尊重し、革命ではなく未来と過去から何が学べるかを説いた。

 1作目では、私たちの生活で最も重要な制度の一つである企業がテーマだった。2作目は、経済と法制度にまで範囲を広げた。本書では、すべての制度や組織(つまり、経済、法律、政治、公共、社会、商業)に視野を広げ、これらすべてに変革をもたらす共通のアプローチがあることを強調している。

 それを理解する鍵は、制度と組織をシステムとして認識すること、つまり、制度と組織を刷新するにはシステムの根本的な変革が必須だということだ。

 これは、政策をいくつか実行してシステムを部分的に調整することではなく、首尾一貫した矛盾のない一連の政策が求められる。

 同様に、良いものを切り捨てたり、弱体化させたりせず、21世紀にふさわしいパーパスにかなうように、既存の仕組みを強化し改革することである。

 それらは現在のパーパスには合っておらず、少数の人たちだけに都合の良いものとなっている。残りの人々は、貧しく、不利な立場に置かれ、満たされず、排除され、不公正な扱いを受けている。現在の資本主義システムは、政治、社会、経済、環境を脅かし、もはや容認できないほどの不満の根源となっており、一刻も早く変革を実現しなければならない。

 ただし、それが人々の利益とならない限り実現しないだろう。企業や投資家が儲からないのであれば、それは非現実的な夢物語にすぎない。たとえ私たちが、国や組織のリーダー、投資家、地域社会、社会の善意をどれほど信頼していたとしても、利益が伴わない限り、変革は実現不可能だ。資本主義システムを正しく再興するためには、何が必要かを現実的に考える必要がある。

 利益は、資本主義システムのなかで鍵となる企業の原動力であるということが、正しく認識されなければならない。利益とは企業が存在する理由であり、ビジネスの目的、すなわち存在意義である。企業は利益を上げるために存在する。そして、利益は進歩を促し、進歩は繁栄を生み出す。

 しかし、利益は深刻な問題も生み出し、資本主義はいくつもの制御不能な問題の原因になっている。利益は恩恵も災いももたらすが、利益が引き起こす問題が深刻化するにつれ、災いの面が顕著になっている。なぜだろうか。

 答えは、利益は問題を解決することだけでなく、問題を引き起こすことからも得られるからだ。利益は、環境、健康、家庭、隣人関係、地域、社会にとって恩恵となる一方で、それらを犠牲にしても得られる。他者の犠牲のうえに利益を得てはならない。利益は、問題を引き起こしてではなく、問題を解決することで得られるべきだ。

 企業は利益を稼ぐために存在し、企業の目的は利益を得ることだ。しかし、これまで問われていなかったのは、その利益がどこから来るのか、利益の源泉は何かという点である。他者の問題を解決することでもたらされるのはすべて「良い利益」であり、それ以外は「良い利益」ではない。

 利益は問題を解決することで得られるべきであり、問題を引き起こすことで得られるべきではない。言い換えると、企業の目的とは、人々や地球が抱える問題に有効な解決策を考え、それを実行して利益を上げることであり、問題を引き起こして利益を得ることではない。つまり、問題ではなく解決策を生み出すことで利益を得るのである。

 この点は非常に重要だ。単に地球を救えるとか、私たちの健康やウェルビーイングを守れるというだけではなく、そのほうが、人間の根源的な部分で心と動機を一致させることにつながるからだ。利益の追求によって、私たちの動機と「人間らしい感情」が食い違うようになり、お金の道徳性は矛盾したものになっていった。資本主義が危機の原因ではなく打開策となるためには、両者が食い違ってはならない。

 「利益は他者の抱える問題を解決することで得られるものだ」と認識されるようになれば、私たちの感情と理性的な動機は食い違うどころか見事に一致し、自分たちを取り巻く世界とも一致する。利益とは問題を引き起こすことによってではなく、問題を解決することで得られ、その結果、すべての人々や地球全体の利益のために、世界の資源を活用する力が生まれる。

 利益をこのように捉えることが重要なもう一つの理由は、市場と経済が機能するためには利益が不可欠だからだ。他者を犠牲にして利益が得られるなら、人はそれをやり続ける。そうしない者は、愚かで、ナイーブで、独善的だと思われるだろう。

 不当な利益が及ぼす害悪を過小評価してはならない。なぜなら、他者の犠牲から利益を得る行為は、そのやり方を望まない人々を弱体化させるからだ。不当な利益獲得は、競争を阻害し、人々のウェルビーイングの促進という経済学が示唆することとは正反対の結果を生み出す。

 破壊を伴わないイノベーション、無駄ゼロの効率性、問題のない利益など、負の部分なしに資本主義の良い部分を享受することなどできない、と考える人もいる。しかし、この考え方は的外れだ。悪いことが許されれば、良いことの実現は不可能だ。問題解決に焦点を当てることで、イノベーション、効率性、利益を追求する意欲は、減るどころか高まっていく。

 問題を引き起こして利益を得ることを禁止することによって、問題解決から利益を得ることが唯一の行動となる。それは私たちを単なる利益追求から、公正な利益に導き、利益を尊重しながら正義を実現することにつながる。また、私たちに力を与え、可能性を広げ、豊かにしてくれ、思いやりがあり、共同参加的であり、思慮に満ちている。

 さらに、利益は当然ビジネスと関連しているが、私たちの生活、経済、政府、社会のあらゆる側面と関わり合っている。現在世代が将来世代を犠牲に、ある国(地域)が他の国(地域)を犠牲に、ある個人(グループ)が別の個人(グループ)を犠牲に利益を得たり、あるいは、自然界で何かを絶滅させて人類が繁栄したりすることを容認してはならない。

 これらは、誰(何)かの犠牲によってもう一方の当事者が利益を得る「不当利得」の例だ。資本主義が拡大し、とてつもない繁栄をもたらすと同時に、個人や地域、社会、自然界の犠牲から生じる不当利得の規模も巨大化した。このような状況から人々を守り、貢献に応じて利益を享受できるようにすべきだ。

 これは、富裕層と貧困層との間での所得や富の分配に限った話ではない。分配だけでなく貢献も重要であり、成長、発展、繁栄、隆盛、イノベーション、投資、金融、リスクテイキングにも関わる話だ。これらに対する個人や集団の貢献を促進することが重要なのだが、現在の資本主義システムはまさにこれとは正反対のことを行っている。

 利益は成長の原動力であるのに、どうしてそうなってしまうのか。その答えは、利益を誤った方法で測定しているため、すべての資源(今あるものから、将来、未知のものも含め)が誤って分配されているからだ。原則として、現在の経済システムは、収益性の高い投資機会を見つけ出すことにおいて自己調整的であり、それがどこに隠れていても見逃さない。よく言われるように「金儲けのチャンスを逃さない」のだ。

 収益機会が最大であれば、流れ込む資金も最大となる。資本主義における金融は、ニーズと利益の大きいところへ向かう。そして、社会的ニーズが私的利益を超え、必要なものを市場が供給できなくなっても心配する必要はない。民間企業が埋め切れなかった空白を埋めるために、政府が駆けつけてくれるだろう。

 だがこれは、システムがきちんと機能していればの話だ。実際には、不幸にも正反対のことが起きている。資金は貧困で苦しんでいる地域には流れず、むしろ、そうした地域を避けて、発展した豊かな地域に引き寄せられる。なぜなら、そこにはお金があり購買力もあるからだ。これは著しく不公平で非効率である。

 「それは民間の役割ではなく、政府と公共部門の役割だ」との主張は、基本的には政府を信じていないが都合のいいときだけ政府の役割を強調する人々にありがちな反論だ。原則的には、空白を埋めるのは政府の役割だが、実際にはそうならない。

 どこに資金を投入すべきかという点で、政府は民間部門と同様の圧力にさらされており、ある意味で、民間部門よりその圧力に弱い。政府も民間部門と同じように資金による制約から完全に開放されているわけではない。「身の丈に合った生活」という言葉は、1980年代に英国のマーガレット・サッチャー元首相が緊縮財政を正当化するために用いた例えだ。

 問題は、私たちが民間と公共の両部門において、システム全体を根本的に誤解していることだ。どちらも誤った尺度に基づいて動いている。私はその尺度を「利益」と呼んできた。他者を犠牲にして利益を得ることの不公平さを理解しやすいからだ。このことは、あらゆる形態の収入に当てはまる。個人の収入と企業の収益、公的および私的な収益、個人および社会の収益、国の歳入および国際的な収益などだ。これらは、問題解決によって得た利益から、問題を引き起こして得た利益を差し引いていないため、著しく誤って計上されている。

 わかりやすい例を挙げれば、医薬品や公衆衛生による支出と収入の多くは、アルコール、自動車、タバコ、ソーシャルメディア、公害によって生じた支出と収入を単に裏返したにすぎない。私たちは、実際には害を生じさせる活動から得られるものを、利益やウェルビーイングとして捉えている。

 しかし、この説明も、問題の根本原因を捉えていない。真の問題は、原因と結果の混同から生じている。私たちはお金ではなく、問題の解決策を追い求めるべきだ。あなた、私、家族、友人、地域、国家、自然界が直面している問題はどこにあるのか探し出し、持っている能力を最大限活用して問題の解決に当たるべきだ。

 そして、問題解決を実行に移すために必要なツールや支援が、私たち全員に提供されるべきだ。なぜなら、他者の問題解決こそが私たちの存在理由だからだ。プラトンが紀元前387年のギリシャで、キケローが紀元前44年の共和政ローマで示したように、私たちは他者を手助けするために存在し、他者もまた別の者を手助けするために存在し、その過程で収入を得て利益を上げることができる。しかし、収入や利益は私たちが存在する動機や目的ではなく、他者を手助けするという目的から派生するものだ。

 これが、資本主義システムが狂い始めている根本的な理由だ。もし私たちがお金を追求するならば、必然的に、世界の大部分やお金とは無縁の自然界全体を無視することになる。それが単に時間の問題であり、長期的に見ればすべてが上手くいくと信じてはならない。社会の底辺にいる人々にもいつか富が滴り落ちてくるという期待を抱くべきではない。トリクルダウンはけっして起こらない。

 これは「長期的に見れば私たちは皆死んでいる」あるいは「人は皆そのうち死ぬ」という問題ではなく、何も変わらなければ、短期的であれ長期的であれ、貧しい者は貧しいまま、恵まれない地域は恵まれないまま、金持ちはより裕福になり、自然は消えていく。

 資本主義システムは自己調整的ではない。金銭が目的であり、ウェルビーイングが金銭的利益追求を巡る競争の副産物である限り、逆の事態が生じる。富を持たない者はゲームから排除されるからだ。目的をウェルビーイングの促進に切り替え、金銭をその結果と位置付けると、排除されていた者たちは、テクノロジー、ビジネス、社会的・公的なイノベーションの組み合わせによって、ゲームに参加できるようになる。

 私が社会的ウェルビーイングや福祉だけでなく、問題解決と創造について語るのはそのためだ。私たちは問題に積極的に取り組み、解決策を見つけるべきであり、問題が発生した後にそれを是正するための分配政策を実施するだけでは不十分だ。

 なぜなら、私たちが抱える問題は、西洋文明や資本主義だけでなく世界中の多くの文明で採用されている、基本的な道徳基盤の欠陥に起因しているからだ。その道徳基盤とは、「自分がしてほしいと望むことを他者にしなさい」という黄金律だ。この教えは一見、啓発的に思えるが、結果は全く逆だった。この教えが、団結ではなく対立を、共通の利益ではなく自己利益を、共同体主義ではなく個人主義を助長していった。

 その理由は、黄金律が自己参照的[自分の視点や基準に基づいて他者や状況を評価する]だからだ。黄金律は私たちに、自分自身を超えた世界を認識し他者の利益に従って行動するよう説いているが、他者ではなく自分の視点で判断して行動せよと言っている。これにより、相手に何かしてあげる際に、私たちの好みや優先順位を押し付けることになる。もし、自分が相手の立場にいたらと考え、自分にしてほしいことを相手に実行する。

 これとは対照的に、「他者がしてほしいと望むことを他者にしなさい」と再定義された黄金律は、相手がどのような人で何を望んでいるのかを理解し、それを尊重する形で他者に接し、行動することを求めている。つまり、他者にとって真に利益となる行動をとることが、自分自身にとっても利益になるということだ。再定義された黄金律は、私たちにより厳しい要求を突きつけるが(だから、従来の黄金律はこうした表現にならなかったのかもしれない)、これが浸透すれば、私たちの生活や制度・組織の運営は大きく変わるだろう。

 私たちはどこで間違えたのだろうか。答えは、「最初から」だ。18世紀後半に資本主義の救世主ともいえるアダム・スミスがこの世界に降臨した。彼は資本主義の教えを説いたが、私たちはその半分しか読まなかった。まるで、石板を裏返すことを忘れ、反対側に記された文章を読み損ねたようなものだ。

 これは、私が学校で初めて受けた試験でやらかした過ちと同じだ。試験問題の最後は、略語(例えば「e.g.」など)がいくつか示され、その説明をするというものだった。私は次々と答えを書き込んだが、最後の「PTO」だけは意味がわからなかった。そのため問題用紙を裏返さなかったので、出題の半分について解答し損ない、落第してしまった[PTO=Please turn over(裏面に続く)]。

 アダム・スミスについても、順序が逆なだけで、同じ過ちを犯した。2番目の著書『国富論』に熱中する一方で、最初の著書『道徳感情論』を都合よく忘れてしまったのだ。「金儲け」をすることが市場の発展に貢献し、私たちの底知れない欲望を和らげるのに役立つという話を喜んで受け入れてきたが、市場が機能するために必要な道徳的な前提条件に関する1作目の教えは無視してしまった。後者がなければ、市場は健全に機能するどころか悪意に満ちたものとなってしまう。

 資本主義の出現とともに、政治における左派と右派の分裂、特に、生産手段の公的所有と私的所有の区別が生まれた。左派にとって公益の問題を解決する方法は公的所有であり、右派にとって公有制の明らかな問題は私的利益だった。中道派は、問題自体に関心を示さなかった。

 ここに問題の核心がある。所有とは、「生産手段(資産)を所有する」ことだけではなく、それらの資産が関わっている「問題を解決する責任を負う」ことなのだ。その意味では、ほとんどの場合、生産のための資産を所有している者も、それらの資産が引き起こした問題に対し責任を負う者も誰もいない。

 資産を所有しそれが引き起こす問題の解決を図る、という順序にすべきではない。そうではなく、問題の認識から出発し、問題を解決するのに必要な資産を決定すべきだ。そうすれば、機会と収入の不平等に対処するために必要な人的能力と物的資源への投資を怠ってきた、マクロ経済上の緊縮政策の失敗が是正されるだろう。

 本書は、私たちが自身の存在理由は何か、その存在理由が生活や制度のあらゆる面にどのような影響を与えるのかを認識することによって、現在の世界に必要な変革を成し遂げる方法について述べている。これらは、非現実的でも希望的観測でもない。この変革は実行可能であり、民間、公共、非営利の各部門で、優れたマネジメント、健全な政策、ベストプラクティスとなるものだ。

 会社法を変える必要はない。これらの考え方は、世界の一部地域において、会社法を解釈し、企業の成功を評価する際の基礎となっており、このやり方を実践している国が少なくとも一つある。国民1人当たりの所得水準と幸福指数が非常に高く、不平等レベルがきわめて低い国デンマークだ。

 これは希望的観測ではなく、私たちが望んでいることから出発し、そこに到達するにはどうすればいいかを逆算する思考だ。所与のものを不変であると決め付けてはならない。資本主義をつくりあげたのは私たちだ。私たちには資本主義を、望む形、必要とする形につくり変えることができるポテンシャルがある。

 本書はまさに、それについて論じている。『Firm Commitment(ファーム・コミットメント)』では、解決すべき問題としてコミットメントと信頼の欠如を挙げ、『Prosperity(株式会社規範のコペルニクス的転回)』では、パーパスと繁栄を解決策として示した。本書は、資本主義を再興し危機を乗り越えるための問題解決方法と利益について書かれている。まずは、私たちは現在どこにいるのか、どうしてそこに至ったのか、その結果どのような問題が引き起こされたのか説明する。そして、どこを目指すのか、どうありたいのかを決定するための原則を示す。

 次に、現在地からその目的地までどのように進んでいけばいいのか、法律、株式所有、ガバナンス、測定、成果、金融、投資の各分野で、どのようなシステム改革が必要なのかを述べる。本書では、私たちが必要とし望むものを実現するために、現在あるものから何をどう変えるべきか、一貫した実用的なプログラムを提供する。もし、これらが実現すれば、21世紀の時代は、大勢の人が懸念している壊滅的な崩壊どころか想像を絶するほどの恩恵を、少数ではなく大多数の人々に、現在世代だけでなく将来世代にももたらすだろう。

 本書では、新型コロナウイルスの世界的流行の収束、ロシア・ウクライナ戦争の激化、気候変動による影響の深刻化、西側の民主主義政府の機能不全など、ここ数年の状況と経験が生かされている。これらの出来事から見えてくるのは、全世界が切望しているグローバル・リーダーシップが欠如していることだ。

 私たちは、共通の利益より自己の利益を、実用主義より理想主義を、パーパスより利益を、地球上の問題より国内問題を優先させるシステムをつくりあげてしまった。私たちはどこへ行こうとしているのか、どうすればそこにたどり着けるのか、直面している巨大で深刻な問題にどうすれば協力しながら対処できるのかを見失ってしまった。

 本書の執筆が終盤に差しかかったころ、私は両眼の白内障手術を受けた。この手術の驚くべき点は、世界の見え方を劇的に変える力があることだ。アイデアにも、同様の力がある。眼は持ち主(の寿命)よりも長く持たないが、アイデアは永遠に持ちこたえることができる。私に付いて来てほしい。幾つかのシンプルなアイデアが、人類と資本主義システムに対する信頼を回復するのに役立つことを、これから説明しよう。

2023年1月31日 オックスフォードにて

【日本語版への序文】

 日本の企業社会は今、大きな変革期を迎えている。日本企業の業績向上、効率性の改善、投資の促進、経済成長の実現などの要請に応える形で、株式所有構造、ガバナンス、規制、経営に関する一連の制度改革が取り組まれてきた。それにより、日本企業の株主構成も変化し、伝統的な株式の持ち合いや、金融機関や系列企業による投資は、新たな提携、グローバルな機関投資家によるポートフォリオ保有、海外投資家による直接投資へと大きく移行している。

 しかし、高齢化、人工知能、気候変動、環境問題などへの取り組みについては、依然として多くの課題が残っている。これらの問題の中には、相反する政策対応を必要とするものもある。すなわち、投資、成長、雇用を促進し、効率性を引き上げるためには、利益に焦点を当てることが必要である一方、環境や社会への影響をより重視することも要請されている。

 これらの問題は、19世紀の明治時代に近代資本主義が誕生して以来、議論されてきた。しかし、21世紀に入って、企業が環境や社会に与える影響が顕著になるにつれ、これらの問題は新たな緊急性を帯びてきた。本書で論じられている考え方は、これら一見して対立すると思われる問題を解決し、日本の企業、経済、環境、社会の繁栄を促す形で、これらの問題に取り組むための新たな洞察を提供する。

 その核心には、日本の資本主義の原動力である「利益」がある。利益は資本主義を推進し、企業にインセンティブを与える原動力である。利益がなければ資本主義の資本は存在しない。しかし、私たちは利益の本質を誤解しているのだ。利益はラテン語のproficere/profectus(前進、進歩)に由来する。利益はまさに、前進と進歩から得られるべきものである。しかし、問題や損害を引き起こすこと、すなわち環境、従業員、消費者、サプライヤーに損害を与えることによって利益がもたらされることがあまりにも多い。

 本書で私が提示するのは、ビジネスを動機づけ、その源泉ともなる利益を、ビジネスが環境や社会に与えるインパクトと整合させる、明確かつ効果的な方法であり、この方法を通じて、日本は直面する課題に取り組むことができる。それは、道徳的な基盤をしっかりと備えながらも、非常に現実的な応用が可能なシンプルな命題、すなわち、ビジネスは「他者を傷つけることなく利益を得る」べきだという命題から導かれる。

 私は本書の中で、この考え方が、ビジネスが社会の悪影響を回避するだけでなく、競争と市場の機能にとって不可欠であることも説明している。その理由は、この考え方が、企業に他者への影響を考慮するように適切なインセンティブを与えるだけでなく、公平な競争市場の条件を担保するからである。これによって、多くの企業が現在直面している、正しいことをしようとしても、そうでない企業と競争できないという困難を回避できるのだ。

 私は、これらは新しい発想だと述べているが、これは、由緒正しき新しい発想である。西洋の経済では、これらは、資本主義の父であるアダム・スミスと、特に彼の著書『国富論』と関連づけられている。本書では、競争と市場が、利益を求める私利私欲によって動機づけられた企業が「見えざる手」によって導かれ、社会的な利益を生み出すことをいかにして確実にするかが論じられている。しかし、しばしば忘れられている点は、競争市場がこのように機能するためには、必要な道徳的条件があり、これについては、彼の初期の著書『道徳感情論』に述べられていることだ。

 アダム・スミスが西洋の資本主義の父であるように、渋沢栄一は日本の資本主義の父である。渋沢は『論語と算盤』で、利益の重要性を強調し、「正しい方法」で得られた利益は、孔子の論語と矛盾することはないという見方を示した。渋沢が主張したのは、利益は目的としてではなく、社会の調和を促進する過程の産物と捉えるべきであるということだ。言い換えれば、利益は「害を及ぼさずに」、つまり他者に損害を与えずに得るべきであるということである。

 このことから見えてくる興味深い特徴は、私がこの本で提案していることが、1世紀以上前に渋沢が日本で提唱していたこととほぼ正確に一致しているということだけでなく、世界中の資本主義システムを支える道徳原則が類似しているという事実だ。しかし、私たちはこのことを見失ってしまった。こうした考え方は、ミルトン・フリードマンが提唱した「企業の社会的責任は利益の増大のみである」という教義(ここには利益を上げる際には環境や社会に害を与えないという条件が含まれていない)などの、より新しい考えに取って代わられてしまったたからだ。

 本書や、渋沢の提唱したことが、単なるステークホルダー資本主義論ではないことを理解することは重要だ。企業は慈善事業や博愛団体ではない。企業は環境や社会に害を与えて利益を得るべきではないが、社会の利益に相応して、利益を得られることを目的として活動を行うべきである。その目的は、人々や地球の問題に対して利益を生み出す解決策を提示することであり、問題を生み出すことで利益を得ることではない。この見方は、もっぱら利益(もっとも、この利益は、他者に問題を生じさせず、他者の問題を解決することで得られる利益を意味する)に焦点をあて、しかも、複数のステークホルダーではなく、唯一株主に対してのみ説明責任を果たすという単純さを維持している。

 これを実現する条件は、企業がどのように組織され、運営されるべきかに関して深い意味を持つ。他者に問題を引き起こすのではなく、問題を解決することで長期的に利益を確保するために必要とされる安定性を日本企業に提供するため、本書は企業の所有の重要性を強調した。同時に、企業が効率的かつ生産的に運営されていることを保証するため、外部からの監視と関与を担う外部株主の必要性についても指摘している。本書で述べているように、この長期的なコミットメントとエンゲージメントを並行して行う外部株主という形態は、まさに現在、日本をはじめとする各国で台頭しつつある所有形態である。

 しかし、本書では企業業績の向上とより良い社会・環境成果の双方の利益を達成するうえで、所有形態に加えて、会社法、リーダーシップ、ガバナンス、金融、投資、会計、業績報告の組み合わせが果たす重要な役割についても指摘した。実際、本書が提示しているのは、他者に損害を及ぼすことで利益を得ることを避け、他者に害を及ぼす問題の解決ではなく、他者に損害を与えない問題解決によって、資本効率、収益性、企業の競争優位性を高めるビジネス慣行と公共政策についてである。したがって、本書は、21世紀型の「正しい方法」でお金を稼ぐためのアプローチを提案するという意味で、渋沢の足跡をたどっているともいえるのだ。

2024年8月 オックスフォードにて


【目次】

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