その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は西村和雄さん+八木匡さん(編著)の『 学力と幸福の経済学 』です。
【はじめに】
私自身の主な研究分野は経済理論、それも非線形経済動学あるいは複雑系経済学である。最近注目されている経済成長の要因のひとつは人的資本である(Romer[1986];Lucas[1988])。人的資本を蓄積する代表的な投資というと教育なので、経済成長を考えるうえで、教育の効果を無視するわけにはいかない。私が経済動学に関するプロジェクトとして、理論的研究のみならず、教育に関する実証研究を行ってきたのはそのためでもある。
経済動学の理論研究については、邦文で『マクロ経済動学』(共著、岩波書店、2007年)、英文で、Nonlinear Dynamics in Equilibrium Models-Chaos, Cycles andIndeterminacy: Selected Papers by Kazuo Nishimura, Springer 2012として、出版されているので、それらを参考にしてほしい。それに対し、本書は、私が日本の教育に関して執筆してきた主な論文を編集したものである。
人的資本への投資、あるいは教育は、個人レベルでは将来の所得や学歴に及ぼす影響が大きい(Card and Krueger[1992])。また、就学前教育がその後生涯にわたっての成果に影響することも指摘されている(Heckman[2006];Heckmanet al.[2010])。
所得が労働市場の評価を反映して、生産性の代理変数とみなされるという観点から、本書でも、教育成果を測る指標のひとつとして卒業後の年収を採用している。後半では、所得や学歴に加えて、安心感、前向き思考、幸福感、倫理観なども指標として採用する。
私が教育についての論文を書くようになったのは、『分数ができない大学生』(1999年)の出版がきっかけであるが、本書の論文の基礎になる研究を始めたのは1983年ごろまでさかのぼる。当時の日本で子供の問題行動、特に家庭内暴力、校内暴力、そしてその後に蔓延するようになる「いじめ」が増えていることに胸を痛めていた。当時私はアメリカの大学で経済学を教えていたが、自分の子育てに役立てるためにも、心理学の勉強もするようになっていた。そのときは、自分のための勉強であった。
本書のもととなる論文は、ディスカッションペーパー、大学の紀要、邦文学会誌、単行本、英文国際学術誌など様々な媒体で発表してきたものである。必ずしも特定の分野の学術誌に限らなかったのは、学際的に研究し、課題の解決につながる結果を広く伝えることを念頭において研究していたからである。学際的という点では、本書には含まれていないが、脳科学分野の研究成果(Nishimura et al.[2015;2020])は本書全体の内容に大きく影響している。
以下では、本書を構成する、序章、第Ⅰ~第Ⅳ部、終章の狙いについて紹介したい。
序章(「少数科目入試の罪と罰」)は、冒頭で、アメリカ教育省の報告書A Nation at Risk(危機に立つ国家)(1983年)や、エリック・ハーシュによるCultural Literacy(教養が、国をつくる。)(1987年)を紹介する。これらの書に記述されたアメリカの教育の状況は、まるで、現在の日本の教育のようである。
続いて、問題を不透明にしてきた、偏差値教育、個性、独創性、真の学力などの概念について考え、最後に、個別指導を可能にする方法として、教科書を自学自習が可能なものにすることを提案する。この提案は、自学自習教材『学ぼう!算数』を数研出版から2005年に出版することにつながった。
第Ⅰ部は、学力調査に関する論文2本と、日本の研究開発力への影響の論文からなる。1994年に日本数学会は大学基礎教育ワーキンググループを立ち上げ、私と慶應義塾大学経済学部戸瀬信之教授はそのメンバーであった。2人は、全国の大学教員の協力を得て、4月の最初の授業で大学1年生の数学力調査を実施した。
文科系でも理工系でも、学力の高い大学生が多数である。しかし、国公立あるいは私立の最難関の大学を卒業していても、誰もが理解していると思われる小学校や中学校の基礎的な素養に欠けている大学生がいるのも事実である。
もし、理工系の大学生の学力が保証されていないとすれば、企業の技術者・研究者の学力も必ずしも保証されないことになる。我々は2014年に、日本の製造業大手9社の協力を得て、若手技術者1,226人の学力調査を行ったことがある。小学校・中学校・高校で学ぶ数学および物理の初歩の問題である。結果、満点がいる一方、全くできない技術者もいて、平均点は予想以上に低かった(西村ほか「2014年度企業学力試験結果」日本経済新聞2015年12月2日付朝刊)。
そのような教育を続けていると、日本の研究開発力はどのような影響を受けるか。第3章は、第1;第2章の学力調査から約20年後に行われた調査論文である。2005年をピークに減少しつつある日本の特許出願数に注目して、学習指導要領の変化が、日本の研究開発力にどう影響してきたかを分析した。
第Ⅱ部は、広い意味での勉強の効用に関する論文からなる。本書には掲載していないが、我々は、大学入試を数学で受験した人と社会科で受験した人の平均所得を比較したところ、数学で受験した人の平均所得のほうが高いという結果を得て、『日本経済研究』に発表し、一定の反響を得ていた(浦坂ほか[2002])。
そこで、第4章で、数学や社会のような受験者と未受験者に分かれる科目と、英語のように全員が受験する科目を比較できるように、科目の得意・不得意を尋ねて、得意科目別の卒業後の平均所得を調査した。第5 章以降は、「親の学歴」が数学の得意・不得意、受験・未受験などにどう影響するか、「理系と文系」ではどちらの年収が高いか、理系学部卒業者では「物理、化学、生物、地学」のどの教科を得意な人が労働市場でより高く評価されるか、一般入試、AO入試や推薦で評価された大学入学者の比較などについて検証する。
第Ⅲ部は、家庭教育や子育てで多くの親が悩むと思われる問題を扱っている。すべて学校教育にも当てはまる問題である。
ゆとり教育は、校内暴力、いじめ、不登校など、学校教育に関わる子供たちの問題行動の増加と無縁ではない。ゆとり教育は1980年代初めに導入されたが、1970年代後半から子供たちの問題行動、1980年ごろから校内暴力、1980年代半ばから「いじめ」が大きな社会問題とされていた。そのような背景もあって道徳教育を強化する必要性が叫ばれ、それまでもあった「道徳の時間」が、小学校は2018年、中学校は2019年から、「特別の教科 道徳」となり、検定教科書も用いられるようになった。
最初に調査したのは、人々が身につけている規範である。幼児期に受けた躾のなかで、より高い学歴や所得と相関がある躾(規範)を調べた。
次に調べたのは、子育てのタイプとその影響である。どのような子育てがよいのかも、多くの親が迷う問題である。我々は、5つの子育てタイプを定義し、それぞれが、成人後の子供の状況にどう影響するかを調査した。
また、褒めるとき、叱るとき、どのように子供に声かけをすればよいのかを調査・分析した。これも、学校の教員と児童・生徒の間の関係にそのまま応用できることである。
最後に、日本人の幸福感の調査も行った。日本の幸福度ランキングは、例年世界で50位前後であり、それほど高いほうではない。日本人の幸福感に影響しているものが何かを分析した。
第Ⅳ部は、これまでの結果を実際に応用する際に重要となる論文である。まず第13章で、回答者の行動特性から行動変容を促す要素を抽出し、その強弱によって行動変容を説明することを考える。仮に、思考に違いがあれば、状況や物事の認識の違いとなって表れ、それが意思決定や行動の違いとなって表れるのだろう。
私はかねて、人の行動でも、思考タイプの違いによって説明できる部分に関心をもち、1995年ごろからは、産業技術総合研究所の協力で、脳活動を測定する研究を行ってきた(日本経済新聞2002年7月26日付朝刊、Nishimura et al.[2015;2020])。第14章では、回答者の思考の傾向、職業、職業で要求される能力、学習における教科の得意度などについて分析する。
終章は、公立学校現場での実践の報告である。最初は、自学自習教材を使用した実践、次に、大阪市での児童・生徒の暴力行為を減らす実践、学力向上の実践、最後に理科教育への関わりを紹介する。
本書は、同志社大学の八木匡教授との共同編集である。本書の大半(第3~第14章)が八木教授との共著であり、編集する際にも協力していただいていることから、このような形をとらせてもらった。
西村 和雄
【目次】









