その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は松浦晋也さんの『 ロケットサバイバル2030 国産H3は世界市場で勝てるか 』です。

【はじめに】

 またずいぶんとかかったものだ──2024年11月4日、日本の基幹ロケット「H3」4号機の打ち上げをインターネット中継で見ながら、私はそんな感慨にふけっていた。

 仕事として日本の宇宙開発を取材するようになったのは1988年の3月。それから36年が経った。当時、宇宙開発事業団(NASDA)は「H-I」ロケットを運用していた。純国産の「H-Ⅱ」ロケットの開発は1985年から始まっている。H-Ⅱの初号機打ち上げはこの時点で1992年を予定。1988年は新規開発のLE-7エンジンの難航が見え始めた時期で、角田宇宙センターでは液体水素ターボポンプが試験のたびにトラブルを出していた。

 新人宇宙記者として先輩に「とにかくあいさつ回りだ。行ってこい」とあちこちの取材に行かされた中に、欧州Arianespace(アリアンスペース)東京事務所があった。当時はジャン・ルイ・クロードン氏が代表を務めていた。

 クロードン氏は流暢な日本語で、右も左も分からぬ新人記者に同社のアリアンロケットについて説明をしてくれたが、一段落したところで話がH-Ⅱロケットのことになった。

 「H-Ⅱは大変なロケットですね。とっても大型の開発で日本は全力を出さなくてはいけない」とクロードン氏は言った。

 「ここまで日本は、アメリカのデルタロケットの技術を入れて、短期間でN-I、N-Ⅱ、H-Iとロケットの開発を重ねてきたけれど、今後はそうはいかないでしょう。当分……まあ20年以上は、その次のH-Ⅲロケットはないでしょうね」

 もちろんこの時クロードン氏が言った「H-Ⅲ」は仮称であり、単純に「H-Ⅱの次のロケット」という以上の意味はなかった。が、このとき私は初めて、宇宙関係者の口から「えいちすりー」という言葉を聞いた。

 H-Ⅱは予定から2年遅れて、1994年に初号機の打ち上げに成功した。その次はH-Ⅲではなく、H-Ⅱと同規模のコストダウン型である「H-ⅡA」だった。

 「コストダウン型といっても、ずいぶんあちこち変えているから実質は別ロケットですよ」と言ったのは、当時NASDAの宇宙輸送系を率いていた副理事長の五代富文氏だった。H-ⅢではなくH-ⅡAなのは、多分にロケットの打ち上げ能力がH-Ⅱと同等だったからなのだろう、と私は勝手に理解した。

 H-ⅡAもまた、1999年初打ち上げの予定が2年遅れて、2001年から運用を開始した。その2年後の2003年に、宇宙3機関統合があり、宇宙開発事業団と宇宙科学研究所、航空宇宙技術研究所がひとまとまりになって、現在の宇宙航空研究開発機構(JAXA)が発足した。

 JAXA発足後、初のロケット打ち上げは2003年11月29日のH-ⅡAロケット6号機だった。内閣衛星情報センターの情報収集衛星2機を搭載した6号機は、午後1時33分に雲が低く垂れ込める種子島宇宙センターから打ち上げられた。

 すぐにロケットが雲中に隠れる、いわゆる「雲ズボ」の打ち上げであった。宇宙センターのプレスセンター屋上で取材をしていた私たち取材関係者はすぐに下に降りてきて、「あまり良い打ち上げではなかったね」などと会話をしていた。既にH-ⅡAは5号機まで連続で成功していたので、何の心配もしていなかった。

 が、その時、構内アナウンスが「H-ⅡAロケット6号機は、打ち上げを継続できる可能性がなくなったので、指令破壊信号を送信しました」と告げた。

 その後の事故調査で、固体ロケットブースターのノズル壁面が浸食されて穴が開き、吹き出した炎がブースターの分離信号を伝える配線を焼き切ったことが判明した。このため燃焼終了後のブースターの分離ができず、打ち上げは失敗したのだった。その後事故調査と対策を経て、7号機が打ち上げられたのは2005年2月26日。5号機の失敗から455日が経っていた。

 その後H-ⅡAは成功を重ねていったが、H-Ⅲは未来のものであり続け、間でH-ⅡAの能力向上型としてH-ⅡBが開発された。

 「H-ⅡAの次のロケット」はH-Ⅲではなく、「H3」となった。H3の開発は、開発期間7年、初号機打ち上げ2020年度予定で、2014年から始まった。H-Ⅱの開発が始まった1985年からは29年目。1988年のクロードン氏の言葉は正しかった。

 H-Ⅱ、H-ⅡAと同様に、H3初号機打ち上げは2年延期された。

 2023年3月7日の初号機打ち上げを、私は種子島宇宙センターで取材していた。一番の懸念は新規開発の第1段用エンジン「LE-9」がきちんと動作するかであり、同じく新規開発の固体ロケットブースター「SRB-3」の分離機構が正常動作するかであり、さらにはこれも新規開発の発射台など射点設備が異常なく動作するかであった。

 午前1時37分55秒、地球観測衛星「だいち3号」を乗せたH3初号機は、晴天の種子島の空に向けて上昇を開始した。

 ぐんぐん昇りゆく機体で、射点設備が正常動作したことが分かった。打ち上げ後116秒で、燃焼を終了したSRB-3を分離。双眼鏡で見ていると、遠ざかっていく機体から、2本のSRB-3が離れていくのがはっきり見えた。分離機構は正常に動作した。

 打ち上げ後296秒でLE-9エンジン燃焼終了。はっきりほっとした。H3開発が2年延びたのは、LE-9の開発が難航したからだった。そのLE-9がうまく動作した。打ち上げで難関と思われていたところは、すべてクリアした。

 しかし、私は「まだ安心できない」と感じていた。H-ⅡA6号機の時を思い出せ。安心しきっていたら失敗を告げられたではないか。最後の最後まで何があるか分からないのがロケットの打ち上げだ。ここでほっとして気を緩めてはいけない。

 そのタイミングで打ち上げの経過をアナウンスする宇宙センターの構内放送が途切れた。続く沈黙に疑念が膨れ上がっていく。

 どうした、なぜ構内放送は黙っている?

 果たして沈黙を破ったのは、「打ち上げ成功の見込みがないため、指令破壊を行いました」という放送だった。

 そこから、原因究明と事故対策を行って、2024年2月17日にH3の2号機が打ち上げに成功するまで、347日かかった。

 宇宙分野を取材し、メディアに執筆して、36年が過ぎたが、結局のところ、私は見物人に過ぎない。36年間、いわば特等席でロケット開発という仕事を見物しただけであって、実際に頭を痛めて知恵を絞り、限界を極め妥協点を探り、実験し、計算し、推測して設計し、作り、試験をして、ロケットという巨大なシステムを組み上げた人々の横にいて、ヘイヘイと気楽に踊っていたにすぎない。

 が、そんな気楽な踊りも36年続けると、それなりに見えてくるものがある。

 ロケット開発のような、極限を目指す技術開発というものは、時として手ひどく失敗をして、それでもひるむことなく、むしろ失敗をしてこそ進むものなのだということである。

 私の36年間は、H3の開発期間を通じてJAXAでH3プロジェクトマネージャを務めた岡田匡史氏(現JAXA理事)のロケット技術者人生とほぼオーバーラップしている。新人記者の私が、LE-7用液体水素ターボポンプの取材で角田宇宙センターを訪問した当時、岡田氏は新人技術者で実際に液水ターボポンプ開発に従事していた。もちろん当時はそんんなことは知る由もない。同年配ならではである。

 岡田理事、いや、岡田プロマネは開発期間中に何回もあった記者会見で、「ロケットエンジンの開発には魔物が棲む」と繰り返した。

 「その通りだ」としみじみ実感する程度には、私はロケットの開発というものを見ることができたか、と思う。

 いや、もう少し拡張してもいいだろう。

 「ロケット開発には魔物が棲む」

 魔物の名前は「物理現象」という。ロケット開発とは、魔物を飼い慣らし、友だちになり、魔物と協力できるようになるプロセスそのものだ。ロケットの打ち上げは、魔物と肩組み協力して行う仕事なのである。

 だから本書に描くのは、「技術者がいかにして魔物と仲良くなったか」だ。以下、具体的に魔物がどのようなもので、どうやって仲良くなったかをご覧あれ。

2024年11月 松浦晋也


【目次】

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