その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は伊集院敦・日本経済研究センター(編著)の『 アジアの経済安全保障 新しいパワーゲームの構図 』です。

【はじめに】

経済安保が促すアジアと世界の変化

 日本を取り巻くアジア地域が「経済安全保障」の波に揺れている。アジアは冷戦後のグローバル化の恩恵を受けて経済を成長させてきた地域だが、世界的な安全保障環境の変化により、新たな対応を迫られているのだ。経済と安保が重なる経済安保はこれまで一般にはあまりなじみのない概念だった。それが、新たな安保環境のなかで各国の政府と企業が浮沈をかけて取り組まざるを得ないテーマに浮上したのである。

 最大の環境変化が米中関係の激変であることは論をまたない。中国への関与政策を進めてきた米国は強大になった中国を「唯一の競争相手」と位置づけ、大国間競争が激化した。もともと台湾問題や海洋安保などで対立してきた両国だが、戦略競争が経済分野に広がり、軍事につながる先端技術をめぐる覇権競争が本格化した。ロシアによるウクライナ侵攻が大国間競争に拍車をかけた。

 2023年版の『外交青書』は昨今の情勢について「国際社会は歴史の転換期にある」と指摘し、「ポスト冷戦期が終焉した」と表現した。

 冷戦の終焉後は米国など先進民主主義国が普遍的価値や原則にもとづく国際秩序の維持・発展をリードしたが、新興国・途上国の台頭が国際社会にパワーバランスの変化をもたらし、地政学的な競争が激化した。国際関係は「対立や競争と協力の様相が複雑に絡み合う状況となっている」との認識だ。

 米国の経済安保のターゲットは中国通信大手の華為技術(ファーウェイ)に代表される高速通信規格「5G」から半導体などの戦略物資に広がり、同盟国や友好国に対中輸出規制への同調を求めている。中国も独自の安全保障観にもとづく経済安保の対抗策を矢継ぎ早に打ち出し、中国への経済依存度が高いアジアの国々は米中双方への目配りが欠かせなくなった。米国相手でも中国相手でも、外交やビジネスを展開するうえで、いまやサプライチェーン(供給網)の問題を避けられない。

 米中に向き合う姿勢は国によって様々だが、各国とも対外関係と国内体制の両面で経済安保の対応を求められるようになっている。

 日本は22年5月に多角的な政策を盛り込んだ経済安全保障推進法を制定した。①重要物資の供給網の構築、②基幹インフラの安全確保、③先端重要技術の開発支援、④特許の非公開制度の創設――の4つの柱からなる。政府は同年末に改定した「国家安全保障戦略」で初めて経済安保を正面から取り上げ、今後の安保政策の柱に位置づけた。23年3月末には米国に歩調を合わせ、先端半導体の製造装置など23品目を輸出管理の対象に追加すると発表した。

 経済安保は日本が23年の議長国を務める主要7カ国(G7)の会合でも重要な議題となった。4月の貿易相会合では、中国を念頭に貿易の制限などで経済的に圧力をかける「経済的威圧」にG7が共同で対応を検討する方針を決めた。続く外相会合では共同声明に初めて独立した項目を設け、新興国や発展途上国を含む志を同じくするパートナーと協働する重要性も強調した。この声明に中国は「強い不満と断固とした反対」を表明した。

 海外に移した生産拠点を再び自国へ移転する「リショアリング」や、同盟国や友好国などに限定したサプライチェーンを構築する「フレンドショアリング」という言葉がにわかに広がり始めた。

 米中は経済安保を意識して、それぞれにインド太平洋経済枠組み(IPEF)や広域経済圏構想「一帯一路」、東アジアの地域的な包括的経済連携(RCEP)など自国主導の協定や枠組みを使って仲間の囲い込みを競っている。その主戦場が、経済成長を続け潜在力も大きいアジア地域なのだ。

 東南アジアや南アジアの国々の多くは米中の草刈り場になることを警戒しつつ、それぞれに生き残りを模索する。サプライチェーン再編の波に乗って企業誘致を進めようとする国もあれば、自国の資源の囲い込みによる産業力強化や国際政治での存在感向上を図ろうとする国もある。

 経済安保を軸とする合従連衡が繰り広げられ、アジアは乱世の時代に入った。今後は域内の国々のなかでも経済安保の取り組みによって浮き沈みが激しくなるだろう。経済安保は民間の役割が大きく、アジアの産業地図は数年のうちに一変するかもしれない。

 大波のなかで漁夫の利を得られるならよいが、経済のブロック化や分断が進めばグローバル市場相手の貿易で成長してきたアジアの経済は甚大な影響を受ける。軍事の安全保障と同様、経済安保でも自衛の措置が相手のさらなる行動を誘発する「安全保障のジレンマ」に陥ることが懸念される。それが国家間の対立や紛争に発展するリスクも否定できない。今後の展開によって、アジアは経済のみならず、政治、社会、文化など様々な面で大きな変貌を遂げる可能性がある。

 公益社団法人日本経済研究センターは日本経済新聞社からの受託研究として、アジア研究プロジェクトを継続的に実施している。外部の専門家を交えたプロジェクトで、2022年度の研究成果として23年3月に『東アジアのリスクと経済安保』と題する2部構成の報告書を発刊した。本書はアジアの経済安保を取り上げた第2部に加筆修正し、再編集したものだ。

 第1章では米国が中国との競争で最も重視する半導体戦略の最新動向を紹介した。経済安保には自らの強みを生かす攻めの政策と弱点を克服する守りの対策があり、第2章から第4章にかけて米国に対抗する中国の経済安保政策を多角的に分析した。第5章では最先端半導体の生産で世界をリードし、経済安保のホットスポットにもなっている台湾の動向を取り上げた。

 第6章では米中両国の狭間で独自の対応を探る東南アジア諸国連合(ASEAN)の国々、第7章では「グローバルサウス(南半球を中心とした新興国・途上国)」の一角として発言力を強め、ウクライナ侵攻で西側諸国から非難されているロシアとの関係を含めた多元的な独自外交を展開するインドを取り上げた。第8章では半導体と並んで経済安保に不可欠な要素となるエネルギーの問題を、アジアにおける脱炭素化の動きと絡めて論じた。終章では経済安保政策の推進に伴う各種のリスクを点検し、アジアの安全と経済の好循環を目指すうえでの課題を検討した。

 22年度のアジア研究プロジェクトの座長は、元駐中国大使の宮本雄二・宮本アジア研究所代表にお願いした。22年は日中国交正常化50周年に当たり、プロジェクトの一環として日中の有識者による東アジア・リスクウェビナーを開催。分断のリスクやリスク軽減のためのリスク・コミュニケーション、地域安保の火種になっている北朝鮮リスクなどをテーマに意見交換し、講演の抄録を報告書の第1部に掲載した。ご覧になりたい方は当センター発刊の報告書を参照していただきたい。ウェブサイトでも公開している(https://www.jcer.or.jp/research-report/20230323-2.html)。

 宮本氏は米中両国やミャンマーなどでの駐在のほか、旧ソ連、軍備管理・科学など幅広い分野での外交経験があり、実に多くの点で助言をいただいた。記して感謝の意を表したい。報告書と書籍の編集は、日本経済研究センター首席研究員の伊集院敦が担当した。不十分な点があるとすればひとえに編集者の責任である。

 新冷戦か、多極化か、それともまったく別の構図か。現在の国際社会は『外交青書』で「歴史の転換期にある」と指摘されたものの、終焉したとされる「ポスト冷戦期」の後の世界がどのような景色になるのかは現時点では予想がつかない。確かなのは、アジアが人口で世界の半分を占め、国内総生産(GDP)の規模でもすでに世界の3割を超す存在になっているという事実だ。世界情勢がアジアに影響すると同時に、アジアの動向が世界情勢に大きな影響を与える時代だ。

 新たな国際秩序がどうなるのか。それを占うカギのひとつがこの地域の今後にかかっていると言っても過言ではない。アジア情勢から一段と目が離せなくなっているゆえんであり、経済安保を切り口にした本書が読者のアジア情勢理解の一助になれば幸いである。

2023年5月   日本経済研究センター首席研究員 伊集院 敦


【目次】

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