その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」と「目次」をご紹介します。今日は玉井克哉、兼原信克(編著)の『 経済安全保障の深層 課題克服の12の論点 』です。
【はじめに】
米中大国間競争時代が幕を開けた。冷戦終了後、自由主義社会が地球的規模に広がり、マーケットの力が地球の隅々にまで及び、世界経済は一つになって平和と繁栄が訪れるという神話が崩れた。「世界経済はマーケットの力に任せよ」という新自由主義の思想は急速に色あせていった。
マーケットが機能する前提は、主権国家間の権力関係の安定と国際秩序に対する信頼である。この地政学的な安定があって初めて、世界大の市場経済が機能する。言い換えれば、安全保障という花壇のなかに、経済的繁栄という大輪の花が咲くのである。
米中大国間競争は、中国の劇的な台頭の故に、世界秩序全体を揺らすマグニチュードを持つ。
ソ連邦の崩壊と東欧共産圏の崩壊により、米欧の帝国主義国家による支配をイデオロギーと武力革命で倒そうという急進的な思想は力を失った。多くの国が、市場経済と自由貿易を利用して、先進技術を取り込み、直接投資を呼び込み、工業化を進め、巨大な先進国のマーケットに自国の廉価な製品を売り込んで成長したいと考えている。未だ保護主義的な色彩が強いが、彼らの望みは、自由主義世界を多極化させ、その雄となることなのである。
その先頭を走るのが中国であった。ところが、中国は反転した。巨大化した中国経済は、中国を自信過剰にした。西側の自由思想は、共産主義独裁を脅かす思想として排斥し始めた。中国企業でさえ、巨大化すれば、共産党支配を脅かすものとして掣肘される。現在の中国指導部は、国際的視野が狭く、イデオロギー的には復古的である。習近平主席の指導の下で、中国は独自の勢力圏の構築を夢想し始めている。
今の中国は、理念の帝国として20世紀後半の国際秩序を率いてきた米国を強く刺激する。21世紀前半の国際政治を彩るものは、自由主義世界を主宰する米国と、独自の勢力圏を復活させようとする中国の覇権争いである。
そのただなかに台湾問題がある。中国と台湾の共存と現状維持を政策とする日米同盟と、台湾の併合を国家的課題とする中国が武力衝突しないのは、日米同盟の力が圧倒的だったからである。しかし、その前提が崩れつつある。
米国は、中国との長い対峙に備えて、あるいは、台湾有事に備えて、自由貿易のルールに変更を加え始めた。安全と安定がなければ、そもそも世界市場経済も自由貿易も機能しないからである。最先端半導体の対中輸出規制はその典型である。
それは公正な貿易を恣意的にゆがめる中国への対抗策でもある。中国にとって対米関係は競争ではない。マルクスの言う闘争である。また、中国にとって自由貿易は、中国が利用するだけのシステムである。貿易における相互依存関係は、いざとなれば中国によって容易に武器化される。例えば、重要鉱物資源の供給を寡占、独占し、自らの意向に反する国には、突如、供給を断絶したりする。サプライチェーンの強靭化は、西側諸国が直面する深刻な課題である。
日本政府は、第二次安倍政権による外為法改正と対内投資規制強化、菅政権による土地等利用規制法の制定、岸田政権による経済安全保障推進法制定と、足早に各種対策を打ち出してきた。しかし、依然として問題は山積している。経済安全保障の問題は、現在、政府が取り組んでいる諸問題に限られるわけではない。視線を上げて欧米諸国の取り組みを見れば、まだまだ日本が登らねばならない峰々が聳えている。日本の経済安全保障は、まだ端緒についたばかりなのである。
例えば、中国はサイバー空間、ヒューミント(スパイ活動)を通じて情報を窃取する。それにどう対応するかは、喫緊の課題である。
また、戦後日本では、マッカーサー元帥率いるGHQ(連合国最高司令官総司令部)の指導の下、また独立後はソ連の影響力浸透工作を受けて、非現実的な非武装の理想が語られ、学術界は大きく左傾化し、産業界は軍事関連の仕事を忌避し、科学技術政策、産業技術政策と安全保障政策がほぼ完全に断絶されてきた。
そのツケは大きい。これから日本の技術を再編させるためには、特に、これまで安全保障目的でまったく活用されず、ほとんど政府資金がつぎ込まれることのなかった民間企業の民生技術のエンジニアや研究者を安全保障目的のためにどう活用するかを真剣に考えなくてはならない。マーケットの無い最先端安全保障技術分野でこそ、国家は巨額の支援を行うべきである。宇宙、サイバーといった最先端分野においては、なおさらそうである。
そうしてこそ、産業空洞化に悩む日本に、新しい産業分野が開かれる。青息吐息の防衛産業の再活性化も待ったなしである。防衛産業を復活させ、体力を回復させねばならない。短時日でアジア随一の武器輸出国に変貌し、ウクライナに武器支援している韓国のように、同盟国、同志国、友好国、侵略の犠牲国には、武器を輸出できるようにする必要がある。
玉井克哉東京大学教授を座長とする「技術安全保障研究会」[於(一財)安全保障貿易情報センター(CISTEC)]では、2017年11月から、日本の経済安全保障に関する課題を総点検するべく議論を重ねてきた。同研究会は、2018年に一度、2020年に一度、2023年には二度、積極的に提言を重ねている。本書は、その6年に及ぶ研究会の議論の成果を集大成して世に問うものである。
本研究会には、有識者の方々はもとより、防衛省、防衛装備庁、経済産業省、警察庁、公安調査庁、さらに、防衛産業、商社と非常に幅広い背景の専門家が参加しており、軍事、宇宙、技術流出規制、防衛産業育成、武器輸出、秘密特許、学術界との関係、サイバー、インテリジェンス、米国の動向など、可能な限り多角的に経済安全保障問題の全貌を捉えようと試みた。経済安全保障に関して関心が高まっている今日、本書が多くの心ある方々に読まれることを祈念してやまない。
本書の上梓に当たっては、日経BPの堀口祐介氏に大変お世話になった。同氏の協力なくして本書が世に出ることはなかった。この場を借りて、厚く御礼申し上げたい。
2023年10月 元国家安全保障局次長 兼原 信克
【目次】
