最近、大きな問題になっている格差や貧困、資本主義の在り方に関する理解を深めたいけれど、どこから手を着けていいか分からない――。そんなときにまず読んでおきたい経済学の本を、経済学者で政府の「新しい資本主義実現会議」有識者構成員など公職を多数務める柳川範之・東京大学大学院経済学研究科教授に挙げてもらいました。

経済学を学んでいる必要はない

 コロナ禍以前は、通勤電車の中で本を読むのが日課でした。ちょっと仕事に行くのが億劫(おっくう)な日も「あの本が読める」と思うと足取りが軽くなるものです。

 今回はそんな本のなかから3回に分けて、お薦めの本を紹介します。1回目は私の専門でもある経済学の分野から。格差や貧困といった社会問題や資本主義の在り方に関する理解を深めたいけれども、どこから手を着けていいのか分からない……というときに役立つ3冊を紹介します。

 真っ先に挙げたいのは、 『良き社会のための経済学』 (ジャン・ティロール著/村井章子訳/日本経済新聞出版)です。

 ティロールは2014年のノーベル経済学賞を受賞した経済学者。本書は彼が初めて一般の読者向けに書いた本で、単に経済理論や金融を議論しているのではなく、「どうしたら社会が良くなるのか」「社会の仕組みがどうあるべきか」「そのために経済学者ができることは何か」を真摯(しんし)に論じています。

「どうしたら社会が良くなるのか」を真摯に論じている『良き社会のための経済学』
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「どうしたら社会が良くなるのか」を真摯に論じている『良き社会のための経済学』

 ティロールは、以前から幅広い分野で論文を書いており、ゲーム理論や産業組織論、行動経済学、銀行とファイナンスなどの分野で第一級の研究成果を上げています。そうした高度で緻密な研究結果に裏付けされているのが、この本の魅力といえます。

 全616ページという分厚い本なので手にするのをためらうかもしれませんが、ティロールも序文で、「経済学を専門的に学んでいる必要はなく、知的好奇心があって、現在の社会をよりよく理解したいという気持ちがあれば、それで十分」といっていますので、ご安心を。

 実際、本の中では、「気候変動」「失業」「競争政策と政治」「イノベーションと知的財産」といった多彩なテーマを取り上げていますので、まずは自分の関心のある分野から読んでみてはどうでしょうか。興味のおもむくまま別の章へと読み進めてもいいですし、参考文献として挙げられている論文に触れてもいいでしょう。経済学の百科事典としての読み方ができる1冊です。

著者の思考を推測しながら読む

 実は、私は経済書やビジネス書は1冊丸ごと読まなくてもいいと考えています。今の時代、情報はいくらでも入ってきますし、本は自分に必要な部分や章だけを取り入れて読めばいい。それでも読めばその人の身になりますし、「読む時間がない」「そんなに分厚い本は読めない」と敬遠してしまうよりは、ずっとプラスになります。

 余談ですが、ティロールは人としても素晴らしい人物です。私は大学院生の頃、彼に質問状を送ったことがあるのですが、無名の学生に対してもすごく丁寧に回答してくれました。膨大な仕事をこなしながら、世界中から山ほど寄せられる質問に、いったいどうやって目を通しているのかと感激した覚えがあります。

 学術書やビジネス書を読むと「知識を得よう」と必死になりがちですが、逆転の発想で、「著者は何を考えながら書いたのだろうか」と推測しながら読むのもいいと思います。本書の行間からティロールの人柄も感じてください。

資本主義と格差の問題を問う

 経済学に関する本として、もう2冊ご紹介しましょう。

 1冊は『セイヴィング キャピタリズム』(ラグラム・ラジャン、ルイジ・ジンガレス著/堀内昭義ほか訳/慶応義塾大学出版会)。

 こちらは資本主義やガバナンスの在り方について、経済学者2人が論じた本です。

 資本主義は自発的にはうまく回らないメカニズムで、放っておくと市場競争で勝者と敗者を生み出してしまいます。勝者、つまり市場経済で成功した既得権益者が政治的な面に介入し、市場経済の動きをゆがめ、発展性を奪うことから資本主義を守らねばならない。そのための努力や仕組みづくりが必要である、という論旨のため、原題は「Saving Capitalism from the Capitalists」(資本家から資本主義を救う)というタイトルになっています。発行は2006年ですが、今読んでも古くはなく、非常に考えさせられる内容です。

「『知識を得よう』と必死にならなくていい」と語る柳川範之さん
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「『知識を得よう』と必死にならなくていい」と語る柳川範之さん

 もう1冊は『貧困と闘う知 教育、医療、金融、ガバナンス』(エステル・デュフロ著/峯陽一ほか訳/みすず書房)。

 デュフロは2019年に46歳の最年少で、かつ女性としては2番目にノーベル経済学賞を受賞した人物です。経済学においては「貧困問題」は最重要ともいえる課題ですが、それを少しでも改善するにはどうしたらいいのかを論じています。

 デュフロは「世界の貧困軽減に向けたフィールド実験」を行っており、その成果についても本書で知ることができます。「経済学で貧困を改善」と聞くと、魔法のつえのように一振りすると劇的に変わる経済政策があるのでは、と期待してしまいがちですが、現実的にはそういったことは難しいんですね。やはり地道な政策、データの積み重ねが大事だと分かります。

 『良き社会のための経済学』『セイヴィング キャピタリズム』『貧困と闘う知』は直接、日本のことを論じた本ではありませんが、今は格差や貧困といった問題が大きくなってきています。日本が参考にすべき点も多いし、ビジネスパーソンとして知っておくべき課題です。ぜひ、手に取ってみてください。

取材・文/三浦香代子 写真/洞澤佐智子

日経新聞 2018年「エコノミストが選ぶ経済図書ベスト10」第1位!

 ノーベル経済学賞受賞のティロール先生が一般向けに書き下ろした経済書。なぜ経済学が社会問題解決に活用できるのか、というそもそも論から、マクロ的な経済問題、競争政策や産業政策、イノベーション、規制まで、幅広いテーマを取り上げています。

ジャン・ティロール(著)、村井章子(訳)、4620円(税込)