第一生命経済研究所エコノミスト、熊野英生さんの「インフレ局面に読んでおきたい本」3冊目は『波乱の時代(上)(下)』(アラン・グリーンスパン著/山岡洋一、高遠裕子訳/日本経済新聞出版)。グリーンスパンは米連邦準備制度理事会(FRB)議長として、物価上昇、金利上昇と数々の金融危機を経験しました。「マエストロ」の異名を持つグリーンスパンの回顧録は、これからインフレに対峙する私たちに貴重な視座を授けてくれるでしょう。
利上げに苦慮した「マエストロ」の実像
政治的な要職を退任した人物が、在任中の日々を赤裸々につづった回顧録を出す。日本ではあまり見かけませんが、欧米ではよくあります。古くは、イギリスの元首相ウィンストン・チャーチルの『第二次世界大戦』(河出文庫)などが有名でしょう。彼はこういう詳細な記録を残すことを、むしろ政治リーダーの責務と考えていたようです。
読者としては、歴史的な出来事の背後に何があったのか、当事者はどういうことで悩み、いかなる判断を下したのかをリアルに知ることができる。いずれしても一級の文献であることは間違いありません。
比較的最近の金融界に目を転じれば、アラン・グリーンスパンの『波乱の時代』もその一冊に数えられるでしょう。1987年から2006年まで、およそ20年にわたってアメリカの中央銀行に当たる米連邦準備制度理事会(FRB)議長を務めた人物です。2007年の刊行なので、金融や経済の本としてはいささか古い感じもしますが、実は今こそ読み返す価値があると思います。世界は久しぶりに物価上昇・金利上昇の局面に向かおうとしていますが、直近に同じような状況と対峙したのがグリーンスパンだからです。
彼の在任中には、数々の局面がありました。就任直後に直面したブラックマンデー(ニューヨーク株式市場大暴落)では、緊急利下げによる対処で名を上げます。その後、1990年ごろにはS&L(貯蓄貸付組合)の経営破綻を発端とする金融危機があり、97年にはアジア通貨危機がありました。2001年には同時多発テロとITバブル崩壊があり、そこから安定成長の時代を経て称賛されつつ退任。ただし、08年のリーマンショックにより評価は一変、まるで“戦犯”であるかのように批判されました。
とりわけ今日の観点で注目すべきは、90年代半ば以降に何度か訪れた利上げ局面です。物価上昇を抑えながら経済成長を下支えしたとして「マエストロ」と称されますが、内実はそう華麗なものではなかったようです。
「60階から飛び降りる心境」
例えば90年代半ば、過熱気味の景気を抑え込むため、FRBは果敢に利上げを行っています。目指したのは「軟着陸」ですが、その最終局面では「60階のビルから飛び降りて、両足で無事着地できるかどうか試してみよう」という心境だったとのこと。「我々は濃霧のなか、手さぐり状態で進んでいた」とも述べています。悩みながら、ギリギリの判断を下していた様子がうかがえます。
言い換えるなら、マーケットは中央銀行総裁でさえ頭を抱えるほど、しばしば予測不能な動きをするということです。もちろんそれは、今日も変わりません。
またこのとき、FRB理事だったジャネット・イエレン(後のFRB議長、現財務長官)は、「今日利上げを決めれば、後悔する結果になるのではないかと私は恐れている」と反対の意向を示していたそうです。
なお、同書は上下巻に分かれていますが、回顧録は主に上巻で、下巻は長年の経験を踏まえた経済論を展開しています。グローバリゼーションや教育・格差、高齢化、エネルギーなどテーマは多岐にわたりますが、いずれにも共通するのは、状況を真摯に把握しようとする実務家の姿と、そこにある謎を解き明かそうとする探究者の姿です。議会やメディアで堂々と語る中央銀行総裁としての姿は、一面にすぎません。
インフレと闘う姿勢示したパウエル議長
特に物価上昇局面になると、中央銀行の一挙手一投足が注目されます。現在のジェローム・パウエルFRB議長は、つい半年ほど前まで「今のインフレは一時的なもの」と語っていました。ところがその後、インフレリスクが台頭すると態度を急変させます。2022年3月16日の米連邦公開市場委員会(FOMC)では、年内に都合7回にわたって利上げする見通しを示しました。徹底的にインフレと闘う姿勢を示したわけです。
ハト派的な発言からタカ派的な発言へという振り幅の大きさが、グリーンスパンと同様、パウエル議長の苦悩を象徴しているように思います。
連続利上げとなれば、グリーンスパンの時代から約20年ぶりです。では、同書の知見がそのまま今日に生かせるかといえば、決してそうではありません。「歴史は繰り返す」といいますが、まったく同じ歴史が繰り返されるわけではない。もちろん、現在進行形の物価上昇局面とグリーンスパンの時代も違います。その意味では、同書をマニュアルのように読むことはできません。
かといって、現状の情報だけを捉えて対処法を考えたり、将来を予測したりしても道を誤りそうです。過去の経験から原理を学んだ上で、そこに現状の特殊要因を織り込んで自分なりに解釈する。それが「歴史に学ぶ」ということでしょう。グリーンスパンの闘いの記録は、これからインフレに対峙する私たちにきっと貴重な示唆を与えてくれるはずです。
取材・文/島田栄昭 写真/木村輝