中東地域研究者で日本女子大学教授の臼杵陽さんが選ぶパレスチナ問題を知るための本、2回目はエドワード・W・サイードの『遠い場所の記憶 自伝』と『エドワード・サイード OUT OF PLACE』。サイードは代表作『オリエンタリズム』をはじめ、故郷を失ったパレスチナ人の苦難を言葉で表現してきた知識人の代表として、日本にも数多くの読者がいる。
第1回 「イスラエル・ハマス衝突 小説からパレスチナ人の苦悩を知る」
アメリカ国籍を取得したパレスチナ人
前回はパレスチナ人の小説家ガッサーン・カナファーニーを紹介しました。今回は文学研究者、批評家であるエドワード・W・サイードを取り上げたいと思います。
サイードはパレスチナ人のキリスト教徒としてエルサレムに生まれました。彼の父親はカイロで雑貨商を営んでいましたが、第1次世界大戦のときにアメリカ軍に入隊し、アメリカ国籍を取得します。
そのためサイードもアメリカ国籍を取得することができ、カイロで教育を受けた後、アメリカに移住。プリンストン大学、ハーバード大学で学び、英文学と比較文学の教授として40年間、コロンビア大学で教壇に立ちました。また、パレスチナ解放機構(PLO)の評議員も務めましたが、1993年のオスロ合意(イスラエルとパレスチナの相互承認)以降はアラファトPLO議長(当時)とたもとを分かち、アメリカの外交政策を批判し続けました。
実は私も1990年から1992年までエルサレムの中心地に住んでいたことがあり、サイードの生家までは徒歩10分ほどでした。エルサレム西部には19世紀末ぐらいからキリスト教徒を中心に高級住宅地がつくられましたが、サイードが生まれ育ったのはそうした一画です。
商業ブルジョワジーの家庭に生まれ、幼い頃からアラビア語、英語、フランス語に触れ、ピアノも習うような環境で育ったサイードは、いわゆる「パレスチナ難民」とはかなり違う存在です。ですからサイードをパレスチナ人の典型と言うことはできません。しかし、アメリカに移住後は「アラブ人」として差別され、ユダヤ人との衝突もあり、パレチスナの問題を発言し続けてきた代表的知識人です。
そんなサイードの生い立ちがよく分かるのが、『遠い場所の記憶 自伝』(中野真紀子訳/みすず書房)です。
サイードの著作で最も有名なものは『 オリエンタリズム(上)(下) 』(板垣雄三、杉田英明監修/今沢紀子訳/平凡社ライブラリー)ですが、この自伝のほうが読みやすいと思います。
サイードは『オリエンタリズム』で19世紀以降、いかに西欧諸国がアラブやイスラム圏、アジアに対して誤ったイメージを抱いてきたか、そのイメージを植民地主義の正当化のために利用していたかを徹底的に批判、西欧諸国によってつくりあげられたオリエンタリズムを根底から覆しました。
初版が出たのは1978年で、日本では比較的早い1986年に翻訳が出版され、今も読み継がれています。
アラブ人学者がここまで日本で読者を獲得し、読まれ続けているのは珍しいことです。西欧諸国ではジャポニズムもブームになりました。おそらく「西欧諸国がいかに非西欧を誤解してきたか」をアメリカにいながらサイードが批判してくれたため、「我が意を得たり」と感じた日本人が多かったのではないでしょうか。他国ではサイードの本は絶版になっているものも多いのですが、日本では大半の本が訳され、読まれ続けています。ファンが多いことの証明ですね。
日本人映画監督が記録したサイード
サイードに関する本をもう1冊、ご紹介しましょう。ドキュメンタリー映画監督・佐藤真さんがサイードの生涯を追った『エドワード・サイード OUT OF PLACE』というドキュメンタリー映画がありますが、同じタイトルで映画のシナリオを全編採録した1冊が出ています。
この本にはサイードの妻や娘、ともにアメリカの外交政策を批判したノーム・チョムスキーなど、映画では使い切れなかった関係者のインタビュー(それでも映画は2時間17分という大作)、佐藤さんの制作ノートも収められていて読み応えがあります。佐藤さんがこの映画を撮影していたとき、私もたまたまお話しする機会があり、映画の完成までアドバイスなどを含めてお付き合いしましたので、懐かしい1冊でもあります。
残念ながら私はサイード本人とは面識がなく、学会などで講演を何度か聞いたことがあるぐらいです。やはり知識人というか、内的で思索的な話し方をするような人で、ちょっと難しい人物なのかなという印象でした。しかし、この本を読むといつも素晴らしい食事を用意し、客人をもてなしていたなど、サイードのまた違った一面が見えてきます。
寄せ集めのアイデンティティー
先ほども言ったように、サイードは「パレスチナ人でありキリスト教徒」「教育を受けたのはカイロ」「アメリカ国籍を取得し、アメリカに移住」と、本人いわく「ちぐはぐな寄せ集めのアイデンティティー」で、一般的なパレスチナ人とは異なる境遇で育ちました。しかし、生家や財産はイスラエルに没収されていて、帰ろうにもその場所はない。ほかのパレスチナ人と同じく、祖国・パレスチナを思う気持ちは強かったのではないかと思います。
私は1984年から1987年までヨルダンの大使館に勤めていましたが、そのときにアラビア語を教えてくれた先生の故郷がアッバースィーヤという村でした。たまたま私がアッバースィーヤを訪れ、写真を撮ってきて見せたところ、非常に感激されました。改めて帰りたくても帰れない、祖国を思う気持ちはこんなにも強いのかと感じました。
祖国を失い、離散した人々のことをディアスポラ(diaspora)と呼びます。ディアスポラの語源はギリシャ語で「種があちこちに散らばる」という意味です。サイード自身は生涯のほとんどをアメリカで過ごし、エルサレムを訪れることはあまりありませんでした。やはりサイードもディアスポラの悲しみの象徴と言えるかもしれません。
文/三浦香代子 取材・構成/桜井保幸(日経BOOKプラス編集部) 写真/小野さやか


