『利生の人 尊氏と正成』で第12回日経小説大賞を受賞した天津佳之さんがその次に主人公として描いたのは、今から約1400年前に即位した推古天皇。史上初の女性天皇とその時代から見える、現代社会へのヒントとは。『和らぎの国 小説・推古天皇』著者の天津さんと編集を担当した苅山泰幸さんに、執筆の舞台裏や思いを聞きました。今回は2回目。(聞き手は、「日経の本ラジオ」パーソナリティの尾上真也)
日本ならではの精神のなりたち
尾上真也・「日経の本ラジオ」パーソナリティ(以下、尾上) 今回も、『 和らぎの国 小説・推古天皇 』著者の天津佳之さんと、編集を担当した苅山泰幸さんにお話を伺います。苅山さん、本の帯にある「この国の精神のなりたちに迫る歴史小説」というコピーが印象的ですが、ここに込めた思いを聞かせてください。
苅山泰幸・日経BP編集者(以下、苅山) 天津さんが描かれたのは、「この国のなりたち」というより「祈り」に近いものなのではと感じたんです。この感覚は今の時代に必要なのではないかと考え、言葉を厳選し、「精神」を使うことにしました。
天津佳之(以下、天津) 飛鳥時代初期の推古天皇の時代は、国内では蘇我氏と物部氏など豪族の争いがあった一方、当時の国際社会である東アジア域に日本がデビューした時期だと解釈しています。さらには朝鮮半島や中国との外交関係から、仏教や儒教など新しい考え方が入ってきました。
そのような時代背景のなか、国際社会で日本がどのように国家としての体制をつくったのかというと、単に中国の文明をコピーしたわけではないと思うんです。例えば仏教においては、ベースになる日本的な考え方を踏まえた上で、アレンジして受け入れたのではと考えています。こうした精神のなりたち、そしてそれが「祈り」であると解釈していただけたのは、すごくうれしいですね。
尾上 日本はさまざまなものや考え方を自分流にアレンジして発展させていくのが得意といわれていますね。「祈り」は、ごく最初の歴史に残っているものなのかもしれません。
天津 仏教が入ってきたこの時代には旧来の考え方と対立したとよくいわれますが、もとからあった文化がどのようなものだったかについては、実は具体的には分かっていない気がします。それで、神道に詳しい方たちにいろいろお話を聞き、作中では基になる考え方や文化を構築した上に、仏教や「和」の考え方が出てきたという構成にしています。
主張が違っても同じ目標に向かうこと
尾上 十七条憲法に出てくる「和を以て貴しとなす」は有名な一文ですが、天津さんは本のなかで「和」を「和らぎ」と言い換えて表現されています。ここにはどのような思いがあるのでしょうか。
天津 この一文はもともと十七条憲法・第一条の条文に出てきます。『日本書紀』では「和」を「あまない」と読ませていますが、「あまない」ではあまりピンとこないですよね。
『日本書紀』は漢文で書かれていて当時の国際文書にもなっていますが、「和」という言葉のベースになった考え方は、実はすごく日本的なのではないかと発想しました。そこから、音読みの「和(わ)」ではなく、日本古来、神話の時代から同じ概念を表している「和らぎ」を選びました。
では「和らぎ」って何なのかというと、よく言われる仲良くするとか、同調圧力ではなく、一つの目標に向かってそれぞれの立場から力を注ぎ合ったときに出てくるものなのではないかと僕は思います。時に立場の違いから争いが起こることも許容しながら、互いの理解を深め目標に向かって進んでいく。そういう意味で、「和らぎ」は組織論を表す言葉でもあるのではないでしょうか。「和らぎ」をもって組織を回すことによって物事がうまく進み、実現していくと捉えています。
尾上 お互いを潰し合うのではなく、立場や主張を理解し合った上で、同じ方向に向かっていくのですね。
天津 作中で、聖徳太子と蘇我馬子の意見が分かれる場面があります。しかし、日本を中国と対等に渡り合える国にしようという2人の目標は共通している。その上で、選ぶ手段が違っていた……という感じです。
尾上 そこに推古天皇の思いも混ざり合ってくるのでしょうか。
天津 天皇はいろいろな役割の人たちがいるなかの中心で、目標に対する象徴となることによって、周りが頑張るという構造になっていると思います。
推古天皇が体現した「皇」と「和らぎ」
尾上 この本に出てくる「皇(すめらぎ)」は、天皇の存在を表す言葉という理解でよろしいですか。
天津 理想的な天皇という感覚で使っています。蘇我馬子による崇峻天皇の暗殺があったように、推古天皇が即位するまではしばしば争いがありました。崇峻天皇が暗殺された背景として、周囲が天皇として認めていなかったという一面があったのではないでしょうか。その一つの根拠として、『日本書紀』では、崇峻天皇暗殺に対して国内の動揺が一切見られないんです。
尾上 「皇」という言葉や「和らぎ」という考え方が、苅山さんのおっしゃっていた「精神」というワードにつながっていると思えてきました。
天津 「皇」は、作中ではわりとファジーに使っている言葉ではあります。ただ、例えば雲仙・普賢岳が噴火したときに、上皇さまが現地で被災された方々のそばでひざまずいて話をお聞きになっている姿に、皆さんはすごく感動したと思うんです。そして、「この方が天皇でいてくださってよかった」と感じる人も多かったでしょう。そのような心の動きや人物を、「皇」という言葉で置き換えられないかなと考えました。
尾上 推古天皇が長生きをして、その体制が保たれたことからも、「皇」と「和らぎ」を体現した時代だったのかな、とお話を伺っていて思いました。
天津 本作はフィクションなので実際はどうだったかは分からないけれど、政治的に安定した状態で、かつ外交的にも諸外国と対等に付き合えるぐらい国内を急速に改革していった時代でした。このように、決して穏やかなだけではなく、激しい動きのなかで安定があるのもこの時代の特筆すべきところだと思います。そういうときに女性天皇だったのは興味深いですよね。
『日本書紀』を読むと、推古天皇は頭のいい人だったようです。優れた政治的感覚と、先ほどの上皇さまのような人格を織り交ぜて、推古天皇のキャラクターをつくり上げていきました。
尾上 なるほど。そのように想定して本を読み直してみると、また違った景色が見えてきそうですね。
構成/佐々木恵美