不安で不安定な時代に、経済学は何ができるのか? 生活困難に陥った人々を政府はどう救済すべきか? 現代が抱える社会問題に対して、経済学にできることを真正面から問いかける、希望の書。ノーベル経済学賞受賞者による著作『絶望を希望に変える経済学』が、待望の文庫になりました。編集担当の石純馨さんと、本書の読みどころや楽しみ方を掘り下げます。今回は2回目。(聞き手は、「日経の本ラジオ」パーソナリティの尾上真也)
ベーシックインカムは働く意欲をそぐ?
尾上真也・「日経の本ラジオ」パーソナリティ(以下、尾上) 今回も引き続き、『 絶望を希望に変える経済学 』(アビジット・V・バナジー、エステル・デュフロ著、村井章子訳、日経ビジネス人文庫)の編集担当、石純馨さんをお迎えしています。本書では、自由貿易や貧困、紛争、環境問題、不平等の拡大などに関する章が続き、最後に「救済と尊厳のはざまで」という第9章につながります。今回はこの第9章について伺おうと思いますが、どのようなテーマなのでしょうか。
石純馨・日経BP(以下、石) 様々な救済の方法があり得るなかで、おそらく著者が一番よいと考えているユニバーサル・ベーシックインカムを取り上げています。
尾上 ベーシックインカムは、簡単にいうと、政府が国民全員にお金を配るというものですね。
石 はい。日本に住んでいるとあまりなじみがないかもしれませんが、たまにベーシックインカムの政策議論が出てくると、お金をもらえるようになったら働かなくなるのではないか、お金をもらっても遊びに使ってしまうのではないか、という問題が必ず指摘されますね。本書では、はたして本当にそうなのか、ということを探っています。
お金をもらうと怠けてしまうのではないかという問題については、お金をもらっても人々に働きたい気持ちが残るのかどうかがポイントになるでしょう。著者らの実験によれば、ベーシックインカムは、働く準備すらできないギリギリの生活をしている人たちを勇気づけ、むしろ働く意欲を高める効果がありました。
また、お金を無駄遣いしてしまうのではないかという心配についても、実際にベーシックインカムを取り入れた事例を調査すると、支給された分だけ食費が増えているケースが大半で、確実に必要なところに使っているという結果が出ています。
尾上 どんなケースでも100%当てはまるということはないですから、ごく一部の人は、食費に使わないこともあるかもしれません。一部にそういう人がいると、もう全部ダメという意見が出てきてしまうのでしょうね。
石 そこはどうしても気になってしまうし、反論しやすいところだと思います。けれども、全体を見るとやはりメリットのほうが大きいということは、本書でもきちんと主張されています。
条件付き給付が必要な人に届かない理由
尾上 一方で、様々な条件が付く給付の話も出てきます。
石 条件付き給付の場合、「こういう状況だからお金が必要です」と自分で申請しますよね。でも貧しい家庭ほど、申請やその手続きにたどり着かなかったり、分からないのに申請するのはよくないのではと思ってしまったり、本当に必要な人にこそ支援が届かないという問題が起きてしまうそうです。
尾上 実際に、申請手続きそのものが給付の阻害要因になっているのですね。本書で紹介されている実験では、申請の手助けや手続きの付き添いなどのサポートがあっても、給付金の申請者は全体の26%だった、とあります。サポートがあってもなお、すべての人が申請するわけではない、ということですよね。
条件付きで、かつ手続きが必要な申請は、本当に必要としている人や、より多くの人に届ける支援策にはあまりならなそう…という印象を持ちました。
石 それに、手伝う人をつけるとなると、その分コストも増えてしまいますしね。
尾上 本書には他に現物給付の話も出てきますが、そちらのほうがコストがかかり効率も悪く、全体的にいいことにはつながらないという指摘も多いですよね。それでも、ベーシックインカムはなかなか実現できません。どうしてなのでしょうか。
石 なぜでしょう…。ただ私も、この本を読むまでは、ベーシックインカムをどう思うかと聞かれたら、何かよくないところがあるんじゃないかと思っていました。
尾上 ベーシックインカムが実際に多く行われているのは発展途上国ですが、本書にはアメリカの話もいくつか出てきます。最近では日本でもコロナ禍のときに給付金があり、2024年には定額減税がありました。そのあたりも、ベーシックインカムと比較するとどうなのかを考えてみるのもいいかもしれませんね。
ベーシックインカムを考えるきっかけに
尾上 話は少し戻りますが、給付金をもらうと人は働かなくなるかというと、実際はそういうわけではないという話が本書では何回も出てきて、興味深いと思いました。
石 第9章の「救済と尊厳のはざまで」というタイトルにもありますが、お金を施されていると感じると、そこに尊厳があるのだろうか、と戸惑いますよね。施しということではなく、本当に困っている人たちに敬意をもって手を差し伸べ、差し伸べられた人たちも、自分はどうしたら社会に貢献していけるかを一緒に考えていくことが理想ですね。
尾上 そうですね。ただ、バナジーさんとデュフロさんが正直なのは、過去の社会実験や実際に行われてきた政策を見ても、ベーシックインカム的な給付を長期にわたって実施したらどうなるかは、確信が持てない、というところです。
石 本書の内容はデータが軸になっていて、分からないところは分からないと率直に書かれています。
尾上 長期的なベーシックインカムが行われた後のことにも興味が湧きます。一度もらい始めてしまうと、もらっていたものがなくなることに対しては、抵抗がありそうですよね。
石 そうですね。今は自分には仕事があるから、ベーシックインカムのことはそれほど深く考えていないという面もあるかもしれません。でも、例えば突然会社を解雇されるようなことがあれば、簡単に状況は変わるでしょうね。
尾上 その辺りの難しさが経済学の難しさでもあり、ある意味、面白い部分でもありますね。基本的に人は合理的に行動するという前提で考えるけれど、実際はそうではない部分が多分にある。現実の社会課題と向き合ったときにどうなるか、どうするか──本書は、それを考える1つのきっかけになると思いますし、第9章「救済と尊厳のはざまで」で取り上げられているベーシックインカムの話は、私たちにも意外と身近に感じられるかもしれませんね。
文/佐々木恵美 構成/山崎 綾、市川史樹(日経BOOKプラス編集)
