不安で不安定な時代に、経済学は何ができるのか? 生活困難に陥った人々を政府はどう救済すべきか? 現代が抱える社会問題に対して、経済学にできることを真正面から問いかける、希望の書。ノーベル経済学賞受賞者による著作『絶望を希望に変える経済学』が、待望の文庫になりました。編集担当の石純馨さんと、本書の読みどころや楽しみ方を掘り下げます。今回は3回目。(聞き手は、「日経の本ラジオ」パーソナリティの尾上真也)
人々の行動から垣間見る、移民問題の実際
尾上真也・「日経の本ラジオ」パーソナリティ(以下、尾上) 今回も引き続き、『 絶望を希望に変える経済学 』(アビジット・V・バナジー、エステル・デュフロ著、村井章子訳、日経ビジネス人文庫)の編集担当、石純馨さんをお迎えしています。
本書の結論は「よい経済学と悪い経済学」というタイトルの短い章になっていて、また解説を東京大学大学院教授の柳川範之先生が書かれていますね。改めて、著者のバナジーさんとデュフロさんがおっしゃる経済学について教えてください。
石純馨・日経BP(以下、石) ただ「こういう結果が出ました」「これが正しいです」というのではなくて、何らかの事実があったとき、どう考えてこのような結論を出したのか、あるいはまだ分かっていないことは何かというのを含めてきちんと提示し、一般の人たちにも分かりやすいように説明できる──それが、バナジーさんやデュフロさんが望む、よい経済学なのかなと私は感じました。
尾上 経済学的には、人や社会が合理的な選択をしていれば、もっとスムーズに発展したり成長したりするはずだけど、現実はそうはなりません。
例えば本書には、経済学のモデルでは都市に移住するはずだったバングラデシュの村人が、都市で仕事を探すという不確実性にかけるよりは、家族ともども村で飢えていくほうを選ぶという話が出てきますが、それが人々の実際の行動だったりします。
石 移民の問題では、合理的に考えれば、移民はより豊かな国に大挙して押し寄せるのではないかとなりますが、現実は必ずしもそうなるわけではありませんよね。実は、想像しているほど不安なことは起こらないというのも教えてくれます。
経済学者の信頼度は、下から2番目
尾上 また、解説で柳川先生がおっしゃるように、バナジーさんとデュフロさんの姿勢や本書のスタンスは「より人間らしく生きられる世界をつくるという目標に近づくため」という言葉に凝縮されていると思います。
石 これほど厚い本を読んでくださって、社会問題にきちんと向き合いたいと思う人が増えてくれたら、達成に近づくのではないかと思います。
尾上 柳川先生の言葉で印象的だったのが、「市場は善であり、自由は素晴らしい、そんな単純な主張を繰り返しているのではなく、現実とデータに真摯に向き合い、人の幸福を考えるのが現在の経済学なのだ」という一文でした。柳川先生のこの言葉は、バナジーさんとデュフロさんの考えることを端的に表現していると感じました。
また、これは第1章「経済学が信頼を取り戻すために」に書かれていたのですが、経済学者はあまり信用されていないみたいですね。面白いな、と思ってしまいました。
石 そうらしいですね。政治家の次に信用がないと、ちょっと冗談めかして書いてありますね。
尾上 市場調査会社のユーガブが2017年に行った世論調査によると、一番信頼されている職業は看護師で、最下位は政治家。そして経済学者は下から2番目とのこと。気象予報士よりもはるかに下だと書いてありますね。
だけど本書を読むと、少なくともバナジーさんとデュフロさんは、普段から一般の人にも分かりやすくお話をされるのだろうな、と思います。
様々な社会課題を今、再考する
尾上 2020年、まさにコロナ禍が始まった夏、ビル・ゲイツさんは“読むべき5冊”の中の1冊に、本書を取り上げました。このように刊行当時から注目を浴びた本書が今回文庫化されたわけですが、この本が書かれた2019年当時は第一次トランプ政権でしたよね。当時の大統領がどのように行動し、それが経済学的にどのような意味があったのかを今振り返るのも、面白いかもしれません。
また環境問題でいうと、「気温が二度上がったら……」というタイトルの第6章には、世界の平均気温の上昇を産業革命前と比較して2度未満に抑えるというパリ協定の話が出てきます。ニュースによると、2024年にはすでに気温が1.5度上がってしまったそうですね。
石 もし今後さらに平均気温が上がることになれば、私たちが思っている以上に環境は変わってきてしまうでしょうね。
尾上 世界的に気温が上昇し、環境に関する様々な問題を聞くにつれ、現実的な問題として考えなければならないトピックが本書の中にはたくさんあると感じます。今、読む価値がある一冊ですね。600ページ近くありなかなか読み応えのある本ですが、ベーシックインカム、不平等の拡大や環境問題などは身近な話題でもあるので、改めて多くの方に読んでいただけるといいですね。
石 今ある様々な社会課題は、簡単に結論が出せることは少ないかもしれません。でも、本当はもっと自分なりに考えたほうがいい。私たちはどうしても分かりやすいものに引かれてしまって、例えばSNSなどを見て感化されがちなところがあると思うのです。
この『絶望を希望に変える経済学』は、難しい問題を簡単な話にすり替えず、「でも現実はどうなの?」といった反論を踏まえながら、それでもどう改善していけばよいかを真摯に考え抜いています。私が本書を文庫化したいと思ったのは、そういう部分に自身が反省させられ、そして感動したことが大きかったですね。ぜひ皆さんにも読んでいただきたいなと思っています。
文/佐々木恵美 構成/山崎 綾、市川史樹(日経BOOKプラス編集)
