先進国が直面している社会問題をどのように解決するか。ノーベル経済学賞受賞者が経済学で考察する 『絶望を希望に変える経済学 社会の重大問題をどう解決するか』 (アビジット・V・バナジー、エステル・デュフロ著/村井章子訳/日本経済新聞出版)を、経済財政諮問会議議員など公職を歴任した経済学者、伊藤元重・東京大学名誉教授が紹介します。経済学・経営学の本をお薦めする連載第2回。
格差や分断、気候変動を解決
『絶望を希望に変える経済学 社会の重大問題をどう解決するか』の著者の2人は、2019年にそろってノーベル経済学賞を受賞しています。というと、専門的で難解な内容をイメージするかもしれませんが、決して経済学のための経済学ではなく、日本やアメリカなどの先進国が直面している現実の重大問題について、経済学に何ができるのか、という論点で書かれています。
つまり、主眼は理論を紹介することではなく、格差や分断、気候変動、自由貿易、移民の受け入れなどの諸問題に対して、経済学を用いた解決法を見つけること。新しい視点に立った丁寧な考察と分析が重ねられ、一般のビジネスパーソンが読む価値も高い良質な1冊です。
著者の2人は夫婦で、専門は開発経済学という、発展途上国の貧困の原因や特質を明らかにして、その撲滅を探究する分野です。他の著書には、『貧乏人の経済学 もういちど貧困問題を根っこから考える』(みすず書房)や『貧困と闘う知 教育、医療、金融、ガバナンス』(同/エステル・デュフロの単著)などがあります。
著者いわく、「富裕国が直面している問題は、発展途上国で私たちが研究していた問題と気味が悪いほどよく似ていることに気づいた」と。「発展途上国にも、経済成長から取り残された人々がいたし、拡大する不平等、政府に対する不信、分裂する社会と政治といった問題があった」と記しています。
なぜ、そうした問題が生じるのか。いったい、どういう経済原理が働いているのか。それらを解き明かす際に引用される事例やデータが、ほとんど最先端のものである点も魅力的です。私も読みながら、今はこういう調査もあるのか、と多くの発見がありました。オーソドックスな経済学ではなく、いわばニュージェネレーションの経済学と言えるでしょう。
原著が出たのは2019年で、日本語訳が出たのは翌2020年です。2020年5月には、ビル・ゲイツが自身のブログで「ウィズ・コロナ時代に読むべき本」として紹介したそうです。日本でもテレビや新聞、雑誌で紹介され、日本経済新聞「エコノミストが選ぶ経済図書ベスト10」(2020年)第1位に輝くなど話題になった一冊です。
興味あるテーマから読める
一般の読み物としても、今、世界が注目する経済学者の考え方はこういうものなんだな、という観点で面白く読めると思います。もっとも、隙間時間にパラパラめくって軽く読み飛ばせる内容ではありません。せっかく新しい視点や知識を得るのですから、週末などのまとまった時間に読むのがお薦めです。最初から順々に読まなくても、興味のあるテーマの章から読むことも可能です。
どの章も面白いのですが、章のタイトルを見ただけでは、何のテーマを扱っているのか、分かりにくいものもあります。「はじめに」に当たる第1章以降、第2章から第9章のタイトルについて、下記に補足します。
第3章 自由貿易はいいことか? →そのまま自由貿易について
第4章 好きなもの・欲しいもの・必要なもの →分断や差別について
第5章 成長の終焉? →経済成長について
第6章 気温が二度上がったら…… →気候変動について
第7章 不平等はなぜ拡大したか →雇用や収入の格差について
第8章 政府には何ができるか →そのまま政府の役割について
第9章 救済と尊厳のはざまで →ベーシックインカム(最低所得保障)について
私が特に面白いと思ったのは、第4章の分断や差別についての章です。アメリカの有権者は共和党と民主党に分かれ、政治的意見が大きく異なります。それは昔から変わらぬことなのですが、近年、お互いを憎むようになっているというのです。その論拠になっているのが、「自分の息子か娘の結婚相手が、自分が支持する政党とは異なる政党の支持者だったらどう思うか?」という調査です。
この調査を1960年に行ったときは、「不快に思う」人が、共和党支持者も民主党支持者も、ともに5%程度でした。それが50年後の2010年になると、共和党支持者は50%近く、民主党支持者は30%以上が「非常に不幸だと感じる」と回答。著者はこの1960年と2010年の大きな違いとして、インターネットの普及とSNSの爆発的な拡大を挙げて、オリジナルの考え方を論じています。
第2章の移民問題も、興味深い事例やデータがたくさん出ています。移民問題は、ヨーロッパの多くの国とアメリカの政治を揺るがすほどの大問題で、日本でも移民を積極的に受け入れるかどうかの議論が始まっています。
こうした世界の状況から、あたかも移民の数が増えているような印象を受けますよね。ところが、2017年に国境を越えた移民が世界人口に占める比率は3%で、1960年や1990年とほとんど変わっていないそうです。それがなぜ増えている印象があるのかというと、著者は、一部の政治家が大幅に水増しした数字を振りかざしたり、誤解や懸念をあおり立てることから考察を始めたりしているからだと指摘します。この考察の結論は、ぜひご自身で読んでみてください。
取材・文/茅島奈緒深 写真/小野さやか

ビル・ゲイツが「読むべき5冊」に選出。 経済成長から取り残された人々、拡大する不平等、政府に対する不信、分裂する社会と政治……この現代の危機において、まともな「よい経済学」には何ができるのだろうか? こうした疑問にノーベル経済学賞受賞者が答える。
アビジット・V・バナジー、エステル・デュフロ(著)村井章子(訳)
日本経済新聞出版 2640円(税込)