どのように企業でイノベーションを起こすのか。その方法を豊富な企業事例から解説するのが 『両利きの経営 「二兎を追う」戦略が未来を切り拓く』 (チャールズ・A・オライリー、マイケル・L・タッシュマン著/入山章栄監訳/渡部典子訳/東洋経済新報社)。経済財政諮問会議議員など公職を歴任した経済学者、伊藤元重・東京大学名誉教授が紹介します。経済学・経営学の本をお薦めする連載第3回。
イノベーションをどう起こすか
今、多くの企業が直面しているのが、イノベーションをどのように起こすのかという問題。どうしたら衰退しないで生き残れるか。過去の成功体験が邪魔をして組織やシステムを変更できない「サクセストラップ」に陥らずにすむか。これは「大企業病」とも言われますが、もちろん中小企業でも起こり得ます。
そうした問題を解決する経営戦略について、世界最高峰のビジネススクールと言われるスタンフォード大学経営大学院と、ハーバードビジネススクールの2人の教授が説いているのがこの本です。
経営学の分野でよく取り上げられる『イノベーションのジレンマ』(翔泳社)という本があります。アメリカの実業家で経営学者でもあるクレイトン・クリステンセンの著作で、優良企業ほどすべてを正しく行うがゆえに失敗し、正しいだけの経営判断では乗り越えられない「イノベーションのジレンマ」があることを指摘しています。25年ほど前に発売された本で、現在の状況に照らし合わせると十分でない部分もありますが、その点を本書ではしっかり補っています。
タイトルにある「両利きの経営」とは、「知の深化」(今まで培ってきた知を継続して深めること)と、「知の探索」(自分から離れたところにある知を見にいくこと)に両方取り組むことを意味します。この両利きの経営が行えている企業ほど、イノベーションが起きて、社員のパフォーマンスが上がることが、多くの経営学の実証研究で示されています。
ですが、悩ましいことに、この2つはなかなか両立しません。例えるなら、不動の人気を誇る正義のヒーローが、新たなファンを獲得しようと悪役路線に転じたら、キャラクターの世界観が壊れてもといたファンまで去ってしまう、というようなことが企業経営でも起きているのです。
そうした失敗を犯さない方法について専門家たちがさまざまな議論をしていますが、「両利きの経営」こそ最適な方法であると、多くの人が納得するでしょう。
豊富な成功事例から学べること
ビジネスや経営は、ダイナミックに捉えることが重要です。なぜかと言うと、企業が生き残るために本質的に必要なのがダイナミズムだからです。進化論で有名なチャールズ・ダーウィンの名言に、「強い者、賢い者が生き残るのではない。変化できる者が生き残るのだ」とあります。企業が活動しているのも、まさに同じ世界なのです。
その意味において、企業の事例をたくさん知ることができるこの本は、リアリティーを持って読み進められるのがいい点です。具体的にはアメリカのアマゾン、ネットフリックス、USAトゥデイ、中国のハイアール、日本の富士フイルムなどが、両利きの経営の成功例として紹介されています。
富士フイルムは、分かりやすくイノベーションに成功した例です。写真フィルムの需要が激減すると、もともと持っていた光学フィルムの技術を生かしてイノベーションを始め、化粧品事業や医薬品事業、再生医療事業など、次々に進出して成功しました。
アマゾンが成功しているのも周知の事実で、書籍に始まってあらゆる商品をネット販売し、動画配信なども手掛けてきたからだろう、などと何となくイメージできると思います。そのぼんやりとしたイメージが、この本で専門家の知見やデータ分析に触れることで、深い理解に変わります。
成功例だけではなく、失敗例も取り上げられています。日本企業の場合、失敗している理由はDX(デジタルトランスフォーメーション)が遅れていることだとよく指摘されますが、そこがまさに両利きの経営が求められる点だと思います。既存のやり方を守りながら、古くなったあしき部分を捨て、いかに新しいやり方にチャレンジするか。このバランスが非常に難しいところで、サクセストラップに陥って、どうしても既存の成功パターンに偏ってしまいがちです。
また、経営に求められるスピードはどんどん速くなっていますが、そのスピードに全然追いつけていないのも多くの日本企業の現状です。日本企業で働いている人が読むと、なかなか身につまされる内容かもしれません。自分の会社はどういう状況にあるのか、客観的に判断する材料にしてください。
復興を成功させた決め手は?
DXについて私見を述べると、企業は、デジタル技術を使うことによって、どういう変革を起こせるか、という視点を持っていないとダメだと思います。技術を取り入れるだけで成功しようなんて、簡単過ぎるじゃないですか。自分たちが何をやらなくてはいけないのかを、常に考えるべきです。それを実現するために、デジタル技術は存在しています。
中小企業でDXによるイノベーションに成功した有名な事例で、岩手県陸前高田市の八木澤商店というしょうゆの醸造会社があります。東日本大震災の津波で流された工場を、クラウドファンディングを中心にお金を集めて再建し、ネットで販売を再開しました。
かつての顧客は途絶えた状態でしたが、クラウドファンディングを行ったことで新たに八木澤商店を知った人が増え、しょうゆが売れ始めたのです。よく売れたのは小さいサイズで、かつての売れ筋商品だった業者向けのロットの大きなものではありませんでしたが、ネット販売ゆえに多量に受注できたため、大きな売り上げにつながりました。
お分かりの通り、八木澤商店はデジタル技術を取り入れたから再建に成功したのではなく、もともといいしょうゆを造っていたことが成功の決め手です。私は以前、東日本大震災の復興推進委員会の委員長を務めていて、実際に八木澤商店を訪れたことがありますが、幸いなことに酵母菌が残っていたそうです。古いやり方のなかでいいものを残して、デジタル技術を使った新しいやり方にチャレンジする、つまり、両利きの経営の好例でもあるのです。
取材・文/茅島奈緒深 写真/小野さやか